02.社畜は異世界に来たらしい
シャボン玉が弾けたかのように、私はぱちん、と目を覚ました。
良質な睡眠をたっぷり取った後の、文句もつけようもないはっきりとした目覚めだ。
何だか、凄くおかしな夢を見ていた気がする。ありえない出来事が、連続して起きていた。闇の中に落ちたり、幻聴が聞こえたり、森の中にいたり、壮絶なイケメンに助けられたり。
ありえなさすぎる。疲労で、精神がだいぶやられていたのかもしれない。
果たして、私はどのくらい寝ていたのだろうか。
ぐっすり睡眠をとれたようで、だいぶ身体も頭もすっきりしている。さすがに連日午前様近くまで働き通しで、へとへとだったのだ。
「って、仕事!? 寝坊!?」
そのまま二度寝しそうなところを、がばっと上半身を起こした。
まず仕事のことを考えてしまう辺り、社畜極まっているなと自分でも思う。
マズい、どのくらいのん気に寝てしまったのだろうか。
心は焦るが、そこでようやく何かがおかしいと気が付いた。
周囲を見渡せば、雑多で無造作に置かれた荷物に囲まれた狭い部屋だった。
見知らぬ天井にあるのは、蛍光灯ではなく、ランタンみたいなレトロなランプ。少しばかり古い匂いのするベッドに、私は寝かされていた。カーテンの隙間から漏れる光で、埃が舞っているのがわかる。
ここが、私の愛すべき居城でないことは、一目瞭然だった。
逃避を許してくれない現実とは残酷である。
「ここは、どこ……?」
まるで、記憶喪失の人みたいなことを言ってしまった。
ただし、私は自分が一宮要であるということを、ちゃんとわかっているし、記憶もしっかりしている。
「あら、ようやくお目覚めね。貴女、3日も寝ていたのよ」
すると、突如、ぎぃと音を立てて、目の前の扉が開いた。
声を発したのは、腰まで伸びた艶やかな黒髪を靡かせ、血のように紅い瞳を眼鏡の奥から覗かせた一人の女性だった。20台半ばは越えているだろうか。つんとそらした顎から、少し勝気な印象が垣間見える。
しかし、彼女が誰かとか、ここがどこかとか以上にまず、彼女が零した重大な事実に、私の顔色は真っ青になった。
「3日!? やば、会社に連絡しなきゃ……!!」
つまり、休日をとうに超え、既に2日経過しているということだ。言い訳のしようもなく無断欠勤。しかも、客先にアポの予定が入っていたはず。
これはいけない、連絡をとって平謝りしなければ。携帯、携帯、どこいった私の携帯と鞄は!!
ベッドの上であたふたとうろたえる私を見て、女性は額を押さえながら深々とため息をついた。
「ちょっと待って、最初に心配しなくちゃいけないのは、そこじゃないでしょう!?」
「いえいえ、これ以上に大事なことはありませんから!!」
「げ、呆れた社畜根性だわ……」
「よく言われます、えへ」
「誉めてないから……全く、調子の狂う子ね。とにかく、会社の心配も仕事の心配も、する必要はないわよ。だって、ここにはそんなもの、ありはしないのだから」
「え?」
どういう意味だろう。私は首を傾げて訝しむ。
入り口から、つかつかとベッド脇まで寄ってきた彼女は、腰に手を当てて私を見下ろした。
「ここは、アイオン王国の北側に位置するヴェルガーの森。≪マリステラ≫という名の世界。貴女は、いわゆる異世界に転移してきた人間なのよ」
「……はい?」
異世界、転移?
立て続けに紡がれる聞き慣れないカタカナ単語に、クエスチョンマークが飛び交う。
中学生くらいの年齢の子がかかる例のアレみたいな感じがひしひしとするが、彼女の表情は、決して冗談を言っているようには見受けられなかった。
「信じられないのも、無理はないわね。でも、これが現実よ。――そよ風よ、軽やかに踊れ。≪舞風≫」
そう言って彼女がぱちんと指を弾くと、どこからともなく風が吹いて、ぶわっと私の髪を靡かせる。気が付くと、風に煽られてカーテンが引かれ、窓が開いた。
その先に現れたのは、点在する森林と、雪をかぶった雄大な山々、どこまでも続いていそうな広大な平原。全くもって見慣れない土地が、目の前に広がっていた。
それだけなら、辺鄙な場所で済ませられたかもしれない。
しかし、この家を覆うようにして、プリズムみたいなものがキラキラと反射している異様な様子は、説明がつきそうにない。
それに、さほど遠くないところには、生態系のわからない動物が身を寄せ合っている姿が見えた。角の付いた兎みたいな……何だろう、アレ。
私は目を大きく見開く。自分が今まで地に足を付けていた、アスファルトもコンクリートジャングルもない。眩暈がしそうだ。
仮に、だ。もし私の身に万が一があって、あの仕事帰りに日本の田舎や見知らぬ海外に攫われたと仮定したにしても、この光景は正直ありえないと、冷静に頭が判断を下している。
慌てたり取り乱したりパニックを起こしても不思議ではないのに、私の精神は不思議と落ち着いていた。
はぁ、と一度深呼吸をする。
「……日本じゃ、ない?」
「ええ、残念ながら。私はリオナ。人は私を、ヴェルガーの森の魔女と呼ぶわ。貴女を託され、この家で保護している者よ。安心して、魔女と言っても悪いようにはしないから。貴女、名前は?」
「要……一宮要です。先ほどの不自然な風は、マジックではなく?」
「要、ね。了解。さっきのは、貴女にもわかりやすいように、風の魔法をちょっと使っただけよ」
「風の、魔法……」
「夢じゃないからね」
「マジかー……」
魔法も魔女も、現代日本には、いや地球には絶対存在していないものだ。少なくとも、私の知る範囲では、だが。
魔女――といっても、全く魔女っぽくないリオナさんに何度も釘を刺されてしまったが、夢だったらどれほどよかったことだろう。
これは、あれか。仕事に疲れてぐったりお布団にインしていたときに、時折携帯で読んでいた小説とかによくある、異世界転移とかいうやつか。さっき、魔女さんも言っていたけど。ちょっと混乱してるな、私。
いや、わかる。わかるよ。現実って大変だもんね。毎日お仕事家事育児お勉強お疲れ様。そりゃあ、誰だって辛い現実から逃れたくて、楽しい妄想くらいする。想像の翼をはためかせた創作は、面白いものだ。どこかに存在する別の世界に行ってみたいだなんて、現実逃避の最高なスパイスになる。もちろんありえないとわかっているからこその妄想だ。
だが、よもやそんな事態が真実己の身に降りかかるなど、一体誰が思うだろうか。
「……どうして、私が、異世界に……?」
「それを調べるために、私は貴女が目覚めるのを待っていたの」
この先自分はどうすればいいのだろうか、とか。
本当にこの人を信用してもいいのだろうか、とか。
日本に帰れるのだろうか、とか。
私が急に消えて、日本ではどうなっているのだろうかとか。まあ、うちの家族は、私が消えたところで心配なんてしていないだろうけど。
そんなことより、仕事の引継ぎもしていないのにいなくなって、先輩に迷惑をかけちゃわないだろうか、とか。
とにかく色々不安なことや考えることが、山ほど浮かんだけれども。
ぎゅるるると情けないほどのシリアスクラッシャーな音が、自分の胃から盛大に発せられて。
リオナさんが一瞬きょとんと目を瞬かせた後、清々しく破顔して喉を震わせた。
「ま、その前に食事ね」
「空気を読まないお腹で本当に申し訳ない……」