16.社畜は散策する
「まだ時間があるなら、よければ少し周辺を散策しないか?」
「行きたいです!」
そう誘われたので、朝ごはんの準備の前に、私はヒースさんとお散歩に出かけることになった。
異世界に転移してから、私は外に出たことはなかった。知識も武器もない状態で、外をうろうろするのは危険とされていたためだ。
ヴェルガーの森も、家のある入り口付近であれば、そんなに強い魔物は出ない。
だが、万が一、奥にでも迷い込んでしまったら、森歩きにも慣れていない私が戻ってこられる保証がない。まだまだ保護者が必要だ。
「前にも言ったと思うけど、この虹色の結界の向こう側に行ってはいけないよ。地面に刺さっている杭型の魔道具が起点になっているから、壊さないよう気を付けて」
リオナさんが家の周辺に張っている結界は、魔物除けになっている。
ただ、強力な魔物を押さえられるほどの効力はないので、気を抜いてはいけないとヒースさんは教えてくれる。肝に銘じておこう。
まだ陽が昇って間もない朝の鈍い木漏れ日を浴びながら、森林の中を歩く。
木の根や石が飛び出て、でこぼこしていたり、うっそうと伸びた茂みが邪魔だったりと、整地されていない道は少々歩きづらい。
ヒースさんは私の歩みに合わせて、あれこれと森を案内しながらゆっくりと進んでくれている。
やや涼しめの気温の中、新鮮な空気を思いきり吸い込む。
コンクリートと排気ガスに囲まれていた時では、味わえない経験だ。
美しいのは緑だけでない。見たことのない色とりどりの花も咲いているし、木の実もたわわになっている。
薬を作るのに、ヴェルガーの森は素材の宝庫なのだとヒースさんは言った。街から離れて不便でも、薬師を生業としている魔女が居を構えるのも頷ける。
枝の間をぬって、小鳥やらリスみたいな小動物の姿も見られた。リスは、ああ見えて魔物なのだとか。
「雪解け後だから、散歩するのにちょうどいいな」
「朝の空気、凄く気持ちいいです」
そういえば、移転する前の日本は冬に差し掛かった頃だったのに、ここは春先だ。同じように四季が存在するのかはわからないが、今のところ陽気は良く過ごしやすい。
インドアなので、家に引きこもっていても苦痛はないけれども、たまに外に出るとやはり解放感に溢れて気分転換になる。
「カナメも、すっかりこちらに慣れたようで安心した」
「まだまだですけどね。しっかり体力作りした方がいいなあと、痛感しています」
「ああ……カナメは線が細いからな。君を見つけた時、あんまりにも儚くて驚いたよ」
私は、たははと笑った。
儚い。日本では、そんな繊細な単語言われたこともなかった。
ぐ、と力こぶを作って見せたものの、ヒースさんのしなやかな身体とは違って、へなちょこだ。
魔法や魔道具で補っているにせよ、この世界は日本に比べればアナログに近い。
生活様式が異なる分、どうしても時間がかかったり、肉体が資本になる部分は多岐に渡る。
そこそこ体力はあるつもりだったが、この世界で生きていくには、微々たるものだろう。
朝起きたら、森の中をランニングするくらいはした方がいいかもしれない。もちろん、結界の範囲内でだけど。
「リオナさんに魔法を教わり始めたので、毎日が凄く楽しいんです」
「ならよかった。そういえば、普段、カナメは何をして過ごしているんだ?」
「そうですね、掃除洗濯炊事の家事一式は基本として、畑の面倒みたり、雑草取ったり、書庫整理したり、店番をしたり、薬草や薬の在庫管理とか帳簿作ったり。今だと、とにかく魔法の勉強をしたり……。薬の納品とか、お買い物に出られないのが悩みの種ですね」
指折り数えてみると、意外に任せてもらえることが増えたなと嬉しくなる。
しかし、私の心中とは裏腹に、ヒースさんはドン引きしていた。
「いやいや待て待て、簡単に言っているが、結構やっていること多くないか? 魔女殿は何をしているんだ」
「魔法も時々教えてくれますが、薬作ってるか、ぐうたらしてますねえ」
「任せておいてなんだが、あの人は本当に……」
「無理はしてないですよ。もっとちゃんとしたお仕事が欲しいくらいです」
「ええ……」
無理なんてしてない、してない。だって、社畜時代よりめちゃくちゃ寝てるし。
あの頃は、冗談でなく朝から深夜まで働いていたからなあ。毎日終電午前様の2週間連勤して、認識能力が低下した挙句、うっかりパトカーに引かれそうになって警察官から怒られたときには、さすがにダメだなって思ったけど。
だから、このくらい全然何ともない。
ヒースさんは、胡乱げに疑いの眼差しを向けてくるが、やがて、一つ息を付いた後にくつくつと喉を鳴らして笑った。
「ヒースさん?」
「いや、何にしても、君が笑ってくれていてよかったなと思って。世界を渡るだなんて、途方もないことだから……寂しくなってはいないか?」
ぽんぽんと、頭に大きな掌が載せられる。
暖かくて、優しい。
ヒースさんからの心配が、私の心までをも慮ってくれる気持ちが、至極嬉しかった。
却って、薄情な自分がいたたまれなくなる。
「大丈夫です。私、向こうで少し家族と縁が薄くて……どちらかというと一人で過ごしていたからか、あんまり未練とかないんですよね」
深刻な空気にならないように、苦笑しながら私が呟くと、ヒースさんは小さく目を見開いた。
こっちに来たのが必ずしも良いわけでもないが、日本にいて果たして幸せになれたかというと、それもわからない。
ただ、少なくとも家族仲がよかったり、恋人や親友を残してきたのだとしたら、きっとここまで冷静ではいられなかっただろう。
もし、寂しいというなら、すぐにむこうの世界を手放せてしまった自分自身だ。
それが幸だとも、不幸だとも私は思わない。私が今まで築き上げてきた在り方の結果でしかないから。
それ故、異世界への移転は、単なる大きな人生の契機の一つ、心機一転お引越しみたいな気持ちで落ち着けたのだと思う。
もちろん、女神が与えてくれた≪精神耐性≫のスキルによるところも大きそうだが。
「それに、ヒースさんとリオナさんが拾ってくれたから、寂しさなんて感じずに生きていけてるんですよ」
「……そうか。なら、カナメが少しでもこの世界を、我が国を好きになってもらえるよう、微力ではあるが俺も尽くそう」
「ありがとうございます。いっぱいこの世界の素敵なこと、私に教えてくださいね」
くしゃりと、ヒースさんの手が頭を撫でる。
与えられたのは、同情でもなく、慰めでもなく、純然たる未来への路。
ああ、いつだってヒースさんは私の欲しい言葉をくれる。
今はそれが泣きそうなくらいありがたくて、胸が締め付けられた。
「もう、髪の毛ぐしゃぐしゃですよ」
「はは、悪い悪い。じゃあ、まずは手始めに、この森最大の景色をお見せしようか」
「わあ」
乱れた髪を直しながら、ヒースさんに導かれるまま道を抜けると、開けた場所に出る。
陽が燦々と差し込むそこは、泉……というより湖のようだった。光を反射して湖面がキラキラと輝く。
光の加減か、グラデーションを描く水面は不思議な色合いをしている。
そしてその中央。ぽかりと存在する島には、大きく根を張った大樹が、花を四方に咲かせている。
そよ風に煽られ、ひらひらと舞い落ちる薄紅色の花弁が、懐かしさを呼び覚ます。
まるで、幻影でも見ているかのようだった。
「桜……?」