111.元社畜と別れ・2
――逝ってしまった。
金色の光が静かに消えて元通りになり、余韻だけがその場に残る。
はらはらと幻想樹の花弁だけが、変わらずに風に乗って流れている。とても儚くて、綺麗。
リオナさんは言った。これは、彼女にとっての祝福なのだと。
天国という思想が『マリステラ』にもあるのかどうかはわからないけれども、天国でリオナさんとマグノリアさんが、再び出会えたらといいなって思う。
リオナさんが還った虚空を、私とヒースさんはしばらくぼんやりと眺めてから、どちらともなく背を向けた。
帰り道は共に無言。何を話していいのか、今は私もわからなかった。
でも、ちらりと見上げた視線の先のヒースさんの表情は、何故か酷く硬かった。
やがて、魔女の屋敷に辿り着いて、気が付けばカラカラだった喉を潤そうと、キッチンへ向かおうとする私を制したのはヒースさんだ。
「カナメは休んでいて。お茶なら、俺が用意するから」
いつもと変わらぬ柔らかい微笑が浮かんで、私はほっと息をつく。少しだけ身体ががこわばっていたみたいだ。
ヒースさんのお言葉に甘えてソファに腰かければ、大して動いてもいないのに、どっと疲れが押し寄せてくるようだった。
ああ、自分が自覚している以上に、精神負担が凄かったのかもしれない。
ぐてりと背もたれに体重を預けていると、しばらくしてヒースさんがキッチンから戻ってきた。ふんわりと香る紅茶の匂いに、癒しを感じる。
「大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
差し出された紅茶はミルクティーで、口をつけるとほんのり甘味がついていた。疲れている時にだけ私が紅茶を甘くすることを、ヒースさんは覚えていてくれたらしい。美味しい。
向かいに座ったヒースさんと2人、静かな空間で茶を啜る。
もうこのリビングに、お腹空いたーとかいって、乱入してくるリオナさんはいない。不思議な気分だ。
今日までの1週間で、きちんとリオナさんとの別れに対する心の整理はつけられたはず。
ただ、これからをどうすればいいのか、まだ自分の中でまとまらない。
でも、いずれ絶対に考えなければいけないことだ。
ぼんやりと物思いにふけっていると、いつの間にやらヒースさんが私の隣のソファに腰を下ろしていた。
「カナメ」
ヒースさんの真剣なまなざしが、私を貫く。
あ。と私は察してしまった。
それは、つい先日見たばかりの瞳。リオナさんが見せた瞳。何かを決心した瞳だ。
ああ、なんて嫌な予感。
ヒースさんは、包み込むように大事に、私の掌を握った。少しだけ困ったような、逡巡したそぶりを見せたけれども、息を吐いて彼は唇を開いた。
「……魔女殿を還したばかりのカナメに、こんなことを言うのは酷だとわかっているのだけれども。俺もここを離れようと思う」
「……え?」
ヒースさんの言葉が紡いだのは、案の定別れの示唆だった。
どくどくと心臓の立てる音が煩い。
きっと、私の顔は、真っ青になっていたに違いない。
「カナメの保護者として、俺だけでは力不足なんだ。悔しいことに」
ヒースさんは優しい口調のまま、眉根を下げて少しだけ寂しげにそう呟いた。
いくら自由を推奨される『界渡人』とはいえ、一切の危険がないわけじゃない。
政治的な面、経済的な面でいくつか功績を出している私は、いつ狙われてもおかしくない状況だったはず。
にもかかわらず、私がかなり平和に暮らせてこれたのは、ひとえにリオナさんの『魔女』という強い畏怖を呼び起こす肩書のおかげだろう。
「だけど、ヒースさんは特級の冒険者で……」
「それでもね、武力しかない今の俺だけで君を守るのは、難しいんだ」
ヒースさんの声は、あくまでも冷静で。
私は、ぎゅっと唇を噛みしめた。散々泣かないって決めたのに、もう泣きそうだ。
リオナさんだけでなく、ヒースさんともお別れすることになってしまうのか。
大事な人たちが、次々と私のそばから離れてしまう。いや、私が現状に甘えていただけなんだろうけれど。元々、独り立ちできるまでっていう話だったのだし、長らく居心地の良いここに、居座りすぎたのかもしれない。
ああ、この先に続くであろうさよならの言葉を、聞きたくないな。
私は溢れそうな涙をぐっとこらえて、それをヒースさんに見られたくなくて俯いた。
「ーーだから、カナメを守れるだけの力を、名分を、必ず手にして戻ってくるから、待っていてくれないか」
「……へ?」
……別れの言葉かと思いきや、どうやらそういうわけでもなさそうで。
私はきょとんとなって、そろそろと頭を上げ、ヒースさんを窺う。
ヒースさんは、慈しむような瞳で私を見ていた。少しだけ、耳が桃色に染まっている。
繋いでいた手をぐっと引かれて、私たちの距離が一気に縮まった。
あれ、私が考えていたのと、方向性が……?
「ヒース、さん……?」
「カナメ、君が好きだよ。魔女殿が還った直後に告げる言葉ではないことも、身勝手な言い分だともわかっている。でも、君を愛しているから、俺の手で守りたいんだ」
!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
息が、止まるかと思った。息どころか心臓が止まってしまうかと思った。嘘、心臓はどこどこ音を立ててるよ。
空耳、もしくは妄想じゃないよね?
「カナメが、俺と同じ気持ちでいてくれたら嬉しいのだけれど……」
ヒースさんの掠れた声が、呆然としている私の耳朶を打つ。
「さよなら……しなくていいの?」
「さよなら? ……ああ、誤解させてしまったかな。そんなの、ありえない。ただ、一時的に離れざるを得ないのが、凄く歯がゆいが」
ヒースさんが、安心させるように、私の後頭部を撫でる。
リオナさんみたく、もう会えなくなってしまうのかと思った。
安堵に、全身の力が抜けてしまいそうだった。私は縋るように、ヒースさんの服を掴む。
「……信じていいですか? ちゃんと、私のところに戻ってきてくれるって」
「ああ。魔女殿に誓って」
それは、私たち2人の間で、最上級の宣誓だ。
「……なら、待っています。私も、ヒースさんが好きだから」
「カナメ……っ!」
「だから、ずっと待っています」
ぎゅうと、ヒースさんにきつく抱きしめられる。ちょっと苦しくて、びっくりしたけれども、私もそっと身体を彼に預けた。
「嬉しい。カナメが俺のことを好きでいてくれて」
「私も……。好きにならないわけがないじゃないですか……」
安心できる腕の中。互いの体温が交じり合い、ぬくもりが心地よい。とくん、とくん。ヒースさんの胸から伝わる鼓動も酷く早くて、きっと私たちは同じ気持ちなんだなって、ひしひしと伝わってきた。
そうして、しばらく存在をしっかり確かめ合い、私たちはゆっくりと顔を見合わせた。
離れることがわかっているからこそ、どうしても離れがたくて、そのまま自然と唇が重なる。ちゅ、と軽く触れてくるヒースさんの唇に、私はうっとりと瞳を閉じた。
満足するまでキスを交わせば、互いに肌が赤く染まっている。照れくささに、私たちははにかんだ。
「はぁ……今、俺に力がないことが本当に悔しい……。一時だって、手放したくないのに。魔女殿も言っていたけれど、これからカナメは、シュヴァリエ侯爵家の保護下に入ることになる。あそこなら、絶対に安全だから」
どうも、私が知らないうちに、シュヴァリエ侯爵家にあれこれ根回しをしていたらしい。魔女殿に先を越されたと、ヒースさんが苦笑気味にぼやく。
片やユエルさんに、片やシリウスさんに。私の保護者たちは、本当に過保護だ。
ヒースさんは、これ以上すると我慢ができなくなるから、後は帰ってきてからって言って、頬に口づけてきたけれども、「後は」ってなんですか、後はって。
す、据え膳……。
誘惑するような流し目の色気がもの凄くて、フェロモンダダ漏れで、ヒースさんのあまりの格好良さにぶっ倒れそう。
私は何も言えずに顔を真っ赤にさせて、口をパクパクさせるだけだった。
翌日。
リオナさんにお願いされていたらしいユエルさんが迎えに来たのを見送って、ヒースさんは魔女の屋敷を、北の大地を離れた。
この先、彼が何をするつもりなのかは、正直わからない。教えてもらえなかった。けれども、約束を違える人ではないと、私は知っている。
だから、大丈夫。信じている。
ぬくもりを、ちゃんともらったから。
この章はこれにて終わりです。
次で最終章になります。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
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