109.元社畜の眠れない夜
――私を、殺して。
さっきまでの和やかな食卓の雰囲気とは裏腹に。
まるで現実感のない言葉が耳に飛び込んできて、私は咄嗟に上手な反応ができなかった。
「……え?」
間抜けな声が、ダイニングに響く。それが、私の喉から発せられたなんていう自覚はない。
殺す?
誰が、誰を?
……私が、リオナさんを?
そんなの、ありえない。
呆然と目を瞬かせる私に反して、リオナさんは綺麗に笑ったまま。真剣な眼差しで私を見つめて、駄目押しのように静かに頷いた。
「いや!」
唸るような荒れた叫びが、室内をつんざく。
「いや、いや! 絶対に嫌です!!」
まるで駄々っ子のように、私は何度も首を振る。
認めたくない、認められない。
どうして、どうして、そんなことを頼むの?よりにもよって私に。
せっかく仲良くなれたのに。ずっと一緒に暮らしていけるのだと思っていたのに。
――家族になれたのだと、思っていたのに。
処理しきれない感情が、ぶわっとせりあがってくる。身体は熱く、鼻がツンとなって痛い。目に涙が浮かんで泣きそうになるのを、歯を食いしばりながら私はぐっと堪えた。
「……要なら、絶対にそう言うと思ったわ。でもね、貴女は私がずっと待ち焦がれ続けていた救いなの。それを貴女に強いることが、どれだけ酷なのか、わかっていても」
彼女の過去を聞いて、死なない魔女の身体が、唯一死ねる方法を私が手にしているのだと明かされた。
まだ私がリオナさんを殺せるだなんて自覚、ないのだけれども。正直、そんなもの欲しくなかったのに。
私にとっての絶望が、彼女にとっての希望だなんて、なんて皮肉だろう。
――ああ、私をここに招いた闇の神様。
何故、私にそんな残酷なものを授けたの?
「ねえ、私をここから解放して? 私はもう、マグノリアのいない世界で生きていくのに飽いてしまったのよ……」
リオナさんが、マグノリアさんの名を出して、愛しげに、そして寂しげに呟く。
……ずるい。
それは重く重く、私の心にのしかかった。
* * *
「はぁ……」
真っ暗な自室で、何度も何度も寝返りを打ちながら、私はため息をついた。
眠れない。眠れるわけがない。
あの後、微妙になった空気の中を、リオナさんはマイペースにダイニングから去ってお開きになった。いつも通りの身勝手さ。
ヒースさんも苦笑気味だし、こんなことに巻き込んでしまって申し訳なかった。
いや、でも一人で聞いていたら、受け止めきれなかったかもしれない。何を言うわけでもないけれども、ヒースさんが傍にいてくれてよかった。
だって、私だけだったら、きっとヒステリックに、リオナさんの本懐を否定するだけだった気がする。
永遠の時を生きるのは、果たしてどのくらいの業なのだろう。
私には、とてもじゃないけど想像すらつかない。
仮初の不死の魔女に、唯一もたらせる安寧。
だけど、もし私が同じ状況だったとして、それを手にできるとわかったら、きっと死を望む。
そう、リオナさんの願いの切実さを、頭ではわかっているのだ。本心では。でも、まだ感情が追い付かない。
私は、暗闇に手を伸ばす。
さっきまでは、魔女を殺す方法だなんて、私にもさっぱりわからなかったけれども、いつの間にか私のスキルに≪葬送≫なんてものが備わっていた。
多分だけど、魔女を殺すという意識が備わったら、生まれるんじゃないかなって。
「ヒースさん、起きているかな……」
どうしても眠れそうになくて、私はそっとベッドから身を起こした。
抜き足差し足で、私は階段を下りていく。リビングのソファでヒースさんは寝ているから、もし起こしてしまったら悪いし。
そうっと階段の影から様子を伺うと、微かに灯りがついている。
灯りに誘われるがまま、私はリビングまで行くと、ソファに座ったヒースさんが、一人お酒を飲んでいた。
「カナメ……か。ああ、勝手にすまない。もしかして、起こしてしまったか?」
「いえ、眠れなくて。……何かおつまみでも作ります?」
「はは。俺も眠れなくてな。つまみはどっちでもいいけど、良ければ少し一緒に飲まないか?」
「……そうですね」
誘われた私は、キッチンでチーズとナッツを準備し、グラスに夕食の残りの葡萄酒を注いでから、ヒースさんの向かいに腰かけた。
ヒースさんは、持参のブランデーを飲んでいた。私にはブランデーの味はわからないなあ。
しばらく静かなリビングで、2人しておつまみを齧りつつ、ちびちびとお酒を傾ける。
ヒースさんは、何も語らない。沈黙が苦にならない空間って、いいな。ああ、葡萄酒、美味しい。さっきは結局、苦いアルコールになっちゃったからね。酔いも一気に醒めちゃったし。
ぷはーと大げさに息を吐いて、私は背もたれに体重を預けた。
「……どうしたらいいかなんて、本当はわかっているんです」
「カナメ……」
「リオナさんの願いを、叶えてあげたい。だけど、それを叶えちゃうと、リオナさんはいなくなっちゃうんです。そんな重大な決断を私に任せるなんて、ほんっと、リオナさんはズルいなあ……」
言葉に出したら、なんかちょっと泣けてきた。涙腺が緩んでいる。
ヒースさんは飲んでいたブランデーのグラスをテーブルに置くと、おもむろに腰を上げたかと思えば、私の隣に座った。
そうして、ゆっくりと私の手を握りしめた。ヒースさんの掌から伝わる温もりが、私の心までをも温めてくれるようだ。強張っていた肩の力が抜けて、ほ、と息を漏らす。
それで初めて、自分の体温が随分下がっているのだと気づいた。
「カナメだからこそ、じゃないかな」
「え?」
「魔女殿たっての願いを、俺も知らなかったわけだけど……。少なくとも、魔女殿はカナメをとてもとても大事にしていたように思うよ。慈しんでいた。それこそ、妹みたいに。だから、カナメにだったら、安心して見送ってもらえると……看取ってもらえると思ったんじゃないかな」
「ヒースさん……」
「そうでなければ、技術だけ継承して、適当に丸め込んだ後にだまし討ちみたいにさよなら……ってやり方もできなくはないわけだ」
技術継承した後に、災厄の魔女の本性を出して裏切る演技をするとかね、とヒースさんは例える。
そう。あの人の望みのバックグラウンドを語る必要なんて、本当ならなかった。それはきっと、リオナさんなりの誠意なんだと思う。
リオナさんがずっと私に調薬を教え込んでいたのは、マグノリアさんの技術を絶やさないため。リオナさんにとって、それが何よりも死ぬ前に一番重要なことだった。マグノリアさんとリオナさんを繋ぐ大事な糸だから。
世の中に流布しているマグノリア・ポーションの作り方は、多少汎用化された手順になっているだろうとはいえ、≪鑑定≫持ちの薬師なんて酔狂な人、そうそういないだろうし、分業した分だけ精度は落ちる。
それがすぐ理解できるくらいに、私はリオナさんから鍛えられた。
ディランさんも言っていたではないか。リオナさんの作るポーションが一番品質と味がいいって。
「でも、あの人はずっとカナメに向き合ってきた。師匠としても、家族としても。ちゃらんぽらんで怠惰な人だけど、それだけは間違っていないと、俺から見ても言えるよ。飄々としている魔女殿にとっても、苦渋の決断でもあったんじゃないかな」
「そうですかねえ……」
脳裏によぎるのは、ここに私が墜ちてきてからの1年半ほどの軌跡。
たくさん笑い合った。一緒にご飯をたくさん食べた。調薬や魔法の講義をしてもらったり、畑の面倒を見たり、ごく稀に出かけたり、怒ったりも怒られもした、泣かされもした。
――ああ、もう。共に過ごしたのは、こんなにも短い時間でしかないのに、実父よりも遥かに思い出がたくさんだ。
ずっと堪えていたのに。自然と涙が零れた。一度零れてしまえば、堰を切って涙があふれてくる。
そんな私を、ヒースさんはそっと抱き寄せて胸を貸してくれた。
「そうだったら、いいなあ……」
安心できる腕の中で、涙が枯れるまで、私は子供みたいに泣いた。