39 あの日
俺は逃げるようにして大山家から出て行った。暗闇に足を突っ込んでしまった気分だった。心が沈んでいるのがよくわかる。大空の中心に輝く太陽の光がいつも以上に明るく感じた。
奈保さんが聞いた声は愛子の声だったのだろうか。そして、二件の事件の犯人も愛子だったのだろうか。死者の霊体が事件を引き起こした、そんなことが本当にあるのだろうか。仮にそうだったとして奈保さんに何を伝えたかったのだろうか。愛子はもう二度と俺の前に姿を現す事はないのだろうか。愛子は存在していない人間。だが、俺の心にある愛子は確かに存在した。そう思うと心の一部をもぎ取られた気分になった。脳裏にはあの子の顔や仕草、触れた感触までもが鮮明によみがえってくる。本当にもう会えないのだろうか。何をするでもない、何を伝えるのではないが、もう一度会いたくなった。もう一度会って彼女が何をしたかったのか、何を伝えたかったのかを知りたくなった。俺は彼女と関連しているであろう場所へ向かってみることにした。まずはあのホテルへ、そして電車のホーム、港へ行ったが彼女の姿はない。どこかでわかってはいたがこれで諦めがついた。もう彼女は居ないのだ。港から街へ歩いた。あの日と同じように日が傾き、オレンジ色の空を太陽が演出している。あの日と同じ自動販売機でコーヒーを買い、あの日と同じように車止めに腰を下ろし、ポケットからタバコを取り出すと、火を点けてタバコを吸って白い煙の行き末を目で追った。煙はすぐに姿を消してオレンジ色の空が視界を占領した。次第に暗くなっていく空を眺めていたら、あの日の言葉を思い出した。
『私を救えるのはタカシさんだけだよ』。
『どうなっても知らないからね』。
愛子の言葉だ。彼女の言葉が胸を刺激した。確かに彼女の言うとおりになってしまったのかもしれなかった。彼女の救えるのは俺だけで、俺は彼女を助ける事は出来なかった。どうなっても知らないと言われたが、俺は自分の思うままに警察へ行き、そして彼女は消えてしまったのだ。俺は近くの公園の噴水のわきに腰掛けた。辺りは薄暗くなり、少し肌寒かった。