27 疑心
親父は天井を見つめたまま何度か咳払いをした。喉が渇いてきたのか、おもむろに左手で水さしに手を伸ばした。ごくりと水さしの水を一度飲み込んだ。わき腹の傷が痛むのか右手は終始わき腹をおさえていた。
「狡猾に生きてきた人間の結末がこれだよ。自分の妻にナイフで刺されるとはね」
親父は皮肉っぽく言った。俺はなんと言っていいのかわからず、水さしを机に戻す左手の動きを目で追った。とても弱々しく、ぎこちない動きだった。親父は一度、咳払いすると話の続きを話し始めた。
「お前が生まれてからも、私は源二郎先生の顧問弁護士として働いていた。それと同時に先生の議員秘書としての仕事も始めた。街宣車回り、戸別訪問、会合に同席したりした。そして土日はタウンミーティングと多忙を極めていた。代議士にとって人脈こそ全てだと教えてくれた。だが、私は知ってしまった。先生は大手企業数社から多額の賄賂を受け取っていた。そのことを先生に問いただすと、先生は素直にそのことを認めた。私にはどうにも出来ない事だといっていたよ。今の政治の根源から変えていかないとどうにもならないことだと、賄賂を受け取らないような人間は真っ先に消されていくとね。だから、私にこう言ったんだ。『お前が変えてくれ』とね。情けない話、私にはできないことだとね。これからの人間が強い意思を持って私欲に負けない精神で立ち向かわなければ変えることは叶わないと。そのために自分の資産はいくらでも出すと言ってくれた。結局はその言葉が遺言のような形になり、先生は程なくして亡くなられた。その頃だったかな、奈保の経済的理由から真奈を我々が引き取る事となった。京子はあまりいい顔はしなかったが、お前の相手をしていることだけで心は満たされているようだった。その後、興信所に依頼して奈保の様子を調べていた。奈保の経済状態が厳しい時には彼女の銀行口座に何度か匿名でお金を入れた。しばらくしてから興信所を通して奈保に子供が生まれた事を知った。どうやら私の子だったようだ」
「その子は」
喉に詰まっていたものを吐き出すようにして俺は声を出した。黙っていられなかった。親父は驚き、目を丸くして俺を見た。
「その子は愛子だよね? 大山愛子」
そう俺が聞くと、親父は怪訝そうな表情で眉間にしわを寄せた。
「お前、港でもその名前を言ってたよな。奈保の子が愛子って言うのか? 私は奈保の子供の名前は知らない。今では二人がどこでどんな生活をしているのかもわからない」
「なに言ってるんだ。俺の部屋から愛子を連れて行ったのは、あんただろ」
「私は誰も連れて行ってない。そもそもお前の部屋にも行っていない」
一瞬、頭の中が真っ白になった。この人は何を言っているんだ。親父は更に眉間のしわを深くさせた。大丈夫か、と言う様に俺の顔を覗き込んだ。この空間の空気が凍りつくのを感じた。突然、虚無感が襲ってきたが、俺は何とか声を絞り出した。
「車に…… 乗せてたじゃないか……」
泣きそうな情けない声が出た。
「車には誰も乗ってなかったじゃないか」
親父の鋭い両目に、俺は言葉を失い狼狽した。親父の目はとても嘘を言っている目ではなかった。信じられない。親父の目は怪訝の色を深めたが、次第に不思議なものを見るような目に変わっていった。しばらくの沈黙の後、親父の携帯電話が鳴り始めた。