25 少年時代
こうして親父と二人きりになるのは何年ぶりだろうか。心のずっと奥底まで潜って行ってようやく見つけることが出来た。それほどまでに二人でいたことはないし、話をした記憶も数えられるほどしかない。俺は幼い頃に、この病院に入院していた事があった。物心つくかつかないか、それほどに幼い頃だった。四十度を超える発熱を起こして、ここへ運ばれたのだ。血液、尿、心電図、脳波、レントゲン、CTスキャン、その他ありとあらゆる検査をしたが、その発熱の原因を知る事は出来なかったという。発熱により著しく免疫数値が低下していた。医者も手の施しようがなく、普通の入院患者と離されて特別病棟へ隔離された。一人の医者がなかば付きっ切りのような状態で病状を診ていたが、容体はいい方向へは向かっていなかった。その状態が一週間続き、かなり衰弱していた。医者が少し目を離している間に一人の少女が迷い込み、俺に近づいていった。少女は俺の手を祈るように両手でしっかりと握り締めた。とても暖かい手の温もりだった。全身をふわふわとした雲に包まれて守られている。そんな不思議な感覚だった。顔を少女の方に向けると少女と目が合い、その瞬間に稲妻が全身を駆け巡った。俺の全てが細かく震えだし、自分の魂が少女の魂と共振しているようだった。医者が近づいていくと、逃げるように少女は去っていった。その次の日から、俺の容体は嘘のように回復していったと言う。それから数日が過ぎてから、やっと退院する事が出来た。普通の生活に戻り、元気に過ごしていた。だが、ずっと心に浮かんでいたのは少女の悲しそうな顔だった。どうしても、もう一度会いたいと強く思いだしていた。もう一度会って、ありがとうと言いたかった。あの日、少女が自分の手を包んでくれたことで強くなれたからだ。勇気をもらえた気がした。病に負けない体の内側から湧き出るような生命力を与えてくれた。それに、もう一度会って、少女の笑顔が見たいと思ったからだ。それは初恋にも似た、胸を締め付けるような思いだった。数日後に親父と二人で病院を訪れた。親父は受付で五分ほど話し込んでいた。話し終え、俺のところへ戻ってきた親父の表情はとても暗いものだった。
「奇妙な話だよ。お前のところへやってきた女の子は死んじゃったんだってさ。まるでお前の病気をその子が持って行っちゃったみたいだな」
親父は俺に聞かせるでもない独り言をつぶやいた。感情が抜けてしまったようなそんな冷たい目をしていた。親父の言ったその一言の意味を理解することができたのは、それから何年も経ってからだった。死ぬという事がなんなのか。自分がどんな病にかかっていたのか。自分がどこにいて、なぜずっと寝たきりだったのか。それさえも俺はわかっていなかった。もうここには居ないと言われて、その頃の俺はようやく事の一部を理解できた。会えないことを知り、とても残念だったが、きっとどこかでまた会えると幼い頃の俺は信じていた。それから日に日に少女への想いは募っていった。俺は少女に恋していた。用もないのに病院へ何度も行って、待合室に座っていたり、近くの商店街を一日中ぶらぶらと歩いていたりもしたが、あの少女に会うことは叶わなかった。数年後になって死ぬことの意味を知った時、心が激しい喪失感に襲われた。もう二度と少女に会えないことを知ると、胸を強く締め付けられ、涙が止まらなくなっていた。
真冬の夜に音も立てずに降り続ける。そんな冷たい雨のようだった。