第六十七話 告白
何度も何度も呼ばれたはずの『ルピナス』という名前。けれど今日は、それが酷く特別なものに感じる。
ルピナスはキースの直ぐ側まで近付くと、服の裾で雑に涙を拭った。赤くなった瞳が、やや眉尻を下げたキースの顔を射抜くように見つめる。
「どうして、庇ったんですかぁ……! 死ぬかもしれなかったんですよ……っ」
無事で良かった、庇ってくれてありがとう。そう、言いたかったはずなのに。
開口一番、キースに『君が無事で良かった』と言われたルピナスは、自身の弱さに苛立って、何より申し訳なくなって、まるで責めるような言葉が口から漏れた。
「……ああ。そうだな」
それなのに、キースは声を荒げることも、ルピナスを責めることもない。
優しい瞳でじぃっとルピナスを見つめ、嗚咽を漏らすルピナスの、涙を拭っていない方の手に、キースは怪我をしていない右肩側の手を伸ばした。
するりと指を絡められたルピナスはピクッと小さく体を弾ませると、キースの愛おしげな表情に、言葉が詰まった。
「だが、俺は後悔してない」
「……っ」
「昔、君が俺のことを命を懸けて守ってくれたように、俺だってルピナスを守りたかったから。……だからルピナスが無事で、本当に良かった」
キースの言葉は紛れもなく本心で、それはルピナスの心の中にじんわりと溶けていく。
それは自身の無力さを責める気持ちにも届き、ルピナスは弱々しい力でキースの手を両手で握り返した。
涙はまた溢れてきてシーツを濡らしたけれど、今はそんなことに気をやる余裕はなかった。
「キース様が……っ、生きて、て、ほんとに、よかっ、た……っ」
「……ああ」
「庇って、くれて、ありがとう……ございました……っ」
「……ああ。ルピナス、生きていてくれてありがとう」
「っ、それ、は、こっちのセリフですよぉ……っ!」
直後、ルピナスの両手からするりと右手を抜いたキースは、「屈んでくれ」とだけ言うと、低い位置に来たルピナスの後頭部を自身の胸元へと引き寄せる。
温もりと、規則的な心臓の音に、ルピナスは余計に涙が止まらなくて、その場で子供のように泣きじゃくる姿は、まるで前世のキースと酷似している。
けれど違うのは、今世では二人共生きていること。
「ルピナス──」
ルピナスが泣き止むまで、キースはずっと彼女の頭を優しく撫でながら、愛おしい人が生きていることを、そんな彼女が自身の腕の中にいることを、実感したのだった。
ルピナスが泣き止んだのは、それから半刻ほど経った頃だろうか。
「もう少しこのままで良いのに」と残念がるキースの腕の中から抜け出したルピナスは、腫れ上がった瞼を片手で隠すようにしながら、椅子に座ってキースと対面していた。
「ルピナス、顔を見せてくれ」
「大変申し訳ありませんが、今はお見せできるような顔ではなく……ご容赦ください……!」
「俺のために泣いてくれた顔なら、どんな顔でも可愛いに決まってるだろ。ほら、早く見せろ」
「あ……!」
隠していた手を捕われたルピナスは、瞼はパンパンに腫れて、目も鼻も真っ赤なところに、頬まで赤く染まって、なかなか酷い顔だった。
しかし、キースはそんなルピナスの頬をするりと指先で撫でながら、至極嬉しそうな顔を浮かべた。
「やっぱり可愛い」
「も、もしやキース様、目も怪我されたのでは……」
「至って正常だ。左肩以外はほぼ無傷だからな」
(そういえば、左肩……!)
大泣きしたせいで話題に出ていなかったが、キースは今左肩を大怪我しているのだ。
病院着のやや開いた首元から見える、左肩側にある包帯に、ルピナスの眉毛は少しずつ下がっていった。
「左肩、痛みますか……?」
「まあ、そうだな。だが、好きな女性を守ったときの傷だと思えば、案外悪くない」
「……なっ、何を言ってるんですか……!!」
こんなときにまでさらっと口説いてくるキースに、ルピナスは分かりやすくたじろいで、黒目をキョロキョロと動かす。
そんなルピナスに一瞥をくれてから、「それに」と呟いたキースは、自身の左肩を右手でするりと撫でた。
「ルピナスとお揃いだな」
「…………!! 傷跡が、残るんですか……?」
「おそらくな。ルピナスを守れた証拠だから、この傷跡は俺の誇りだ」
「……っ」
身を挺してキースを守って出来た左肩の傷跡を、以前ルピナスは誇りだと言った。
そしてキースもまた、誇りだと言ってみせた。迷いのない声色で、胸が締め付けられるくらいに、愛おしげな瞳で。まるで、この傷跡さえ、愛してやまないのだと言うように。
(ああ、どうしよう)
口を閉ざしたルピナスに、キースは「足の怪我は痛くないか?」「騎士団で困りごとは起きてないか?」など問いかける中、ルピナスはそれらに無言で頭を振ると、再びキースの手を取った。
(今、伝えたい。どうしようもなく、この気持ちを、伝えたくて仕方が無い)
生きるということが当たり前ではないことも、想いを伝えられるのが当たり前ではないことも、ルピナスは良く知っているから。
自分の羞恥心なんてかなぐり捨てて、この想いをキースに伝えなければと、ルピナスは切に思ったのだ。
温かくて節ばったキースの手を、ルピナスは小さな手で包み込む。
「ルピナス? どうした?」
「────き」
囁くような小さな声に、キースは一瞬瞠目してから、唇を震わせた。
「……今、なんて?」
ルピナスは俯いていた顔を上げてキースと目を合わせると、とめどなく溢れてくる思いを、言葉に乗せた。
「キース様が、好き。好き、です」
「……っ」
「大好き、大好き、なんです」
涙腺が緩んでいるからか、言葉だけではなく涙まで出そうになるのを必死に堪えながら、ルピナスは言葉を紡いだ。
(やっと……やっと伝えられた……)
言葉とは不思議なものだ。実際に口に出すと、目の前にいるキースのことがもっともっと好きになる。
けれど同時に、気持ちを伝えると冷静さも取り戻してしまい、鏡を見なくても分かるくらいに赤くなっているだろう顔を、再び俯くことで隠すと、またもやキースの手はルピナスの手から抜け出していた。
返事がない代わりに、少しずつ顔あたりに近付いてくるキースの手に、ルピナスが固く目を瞑ると、優しく頬を撫でられて、また体がピクリと反応を示した。
「ルピナス、こっちを向いて」
「……恥ずかしい、です」
「分かっている。けど、頼む。……何だか夢みたいだから、信じさせて」
そんなふうに言われてしまえば、拒否できるはずもなく。
ルピナスはゆっくり顔をあげると、頬を僅かに染めて、嬉しそうに微笑むキースで視界がいっぱいになった。
「ルピナス、好きだ。……愛している」
「っ、はい、私もです」
「あーー……嬉し過ぎて、頭がどうにかなりそうだ。……まだ夢かもしれないと思う自分がいる」
幸せを噛み締めるように天を仰ぐキースは、何だか可愛らしい。
気持ち的に少し余裕が出来たルピナスは、自身の頬に触れたキースの手に自らの手を重ね合わせ、スリスリと頬を擦り寄せた。
「夢では困ります……」
「……っ、そういう可愛いことを言われると、色々我慢できなくなるんだが」
「我慢?」
はて、我慢とは。男女のそういうことに疎いルピナスはキースの言う言葉の意味が理解できなかったのか、ぽかんと小さく口を開けた。
キースは「だろうな……」と呆れつつも、もう両思いなのだから過度に我慢する必要はないかと、ルピナスの頬にあった手を顎に移して、くいと掬い上げる。
「……え、えっと?」
「……馬車での続きがしたいと言ったら、君にも理解できるか?」
「!?」
(キスしたくなるのを、我慢してたってこと!?)
厳密にはキスだけではないのだが、それ以上のことなどルピナスにとっては夢のまた夢な話なので、分かるはずもなく。
「嫌ならしないが……そうじゃないなら、する。というかしたい」
「〜〜っ」
「目、閉じてくれ」
(も、もはやキスするのは決定事項では……!?)
キースはわりと押しが強い。それに加えて、キースとキスをするのは恥ずかしいだけで、嫌ではないのだから、ルピナスの選択肢は二つに一つだった。
「──ルピナス、好きだ」
ルピナスは、そっと目を閉じた。少しずつキースの顔が近付いてくるのが気配で分かってしまうのが、何よりも恥ずかしいけれど、嬉しさが勝るのだから困ったものだ。
──唇が触れるまで後、約一センチ。
幸せの絶頂の二人だったが、ガラガラと開いた扉に、ルピナスは咄嗟にキースの顔を両手で押しのけた。
「あ、あら……お邪魔……でした、よね……?」
「じじじ、邪魔ではありません!! お仕事お疲れ様です! キース様を宜しくお願いします! 私は帰ります! では!!」
「っ、おい! ルピナス……!」
キースと看護師に思い切り頭を下げてから、太腿の痛みを忘れて、ぴゅーん! と、ルピナスは病室の外へ出て行く。
「や、やっぱり、お邪魔、でしたよね……? 一応ノックはしたのですが……申し訳ありません……」
「……いえ。これからいくらでも、チャンスはあるので」
そう言ってキースは、ルピナスのことを思い出して、隠すことなく穏やかに笑う。
『氷の騎士様なんて嘘っぱちね……』と呟いた看護師は、これからもう少し強めにノックをしようと強く決意したのだった。