第五十七話 ずっと縛られていたんだね
「私がフィオリナに縛られているとは……どういう意味だい……?」
ルピナスの発言に理解が追いつかないのだろう。セリオンは声を震わせながら、覚悟を決めたような表情をするルピナスの顔をじぃっと見る。
逸らされることなく絡み合う瞳と瞳に、セリオンの心臓はより一層困惑の音を立てた。
「私はフィオリナをずっと……ずっと愛して──」
「はい。それはきちんと伝わりました。……お気持ちは大変嬉しいです」
「それなら……!」
「けれど私は、セリオン様の想いにお応えすることができません。……申し訳ありません」
ルピナスは深く頭を下げて、しばらくすると顔を上げた。
セリオンの表情は困惑と悲しみに満ち溢れていて、告白を断ったはずのルピナスもつられて切なげに眉尻を下げてしまう。
(いや、だめ……私よりもセリオン様のほうがずっと苦しいのだから、私は毅然とした態度でいなければ)
悲しみに飲み込まれないよう、出来るだけ表情を律したルピナスに、セリオンは唇を震わせた。
「私のことが一切男として見られないからかい?」
「いえ」
「それなら、身分の差かい? そのことなら私が──」
「いえ、それも違うのです。そういうことでは、ないのです。セリオン様」
ぶんぶんと頭を振ると、そんなルピナスに、セリオンは少しだけ声を荒らげた。
「それなら何故……!? それに、縛られているとは一体どういう意味なんだ……! 教えておくれ、フィオリナ……!」
ガタン、と音がした。それは馬車が小石を踏んで揺れる音ではなく、セリオンが前のめりになってルピナスの肩を掴んで揺れたからだった。
ルピナスは、儚げにふわりと笑ってみせた。
「貴方様が愛してくれたフィオリナは、もう死んだのです。セリオン様」
セリオンは下唇を噛むと、ルピナスの肩を掴む手が無意識に強くなった。
「違う……フィオリナは君だ……! だって記憶があるだろう!?」
「はい。フィオリナとして生きていた頃の記憶が私にはあります。けれど」
「──私は今、ルピナス・レギンレイヴなんです。フィオリナではなく、ルピナスとして生きているんです、セリオン様」
セリオンに感じていた違和感は、彼がルピナスのことを『ルピナス・レギンレイヴ』として見ていないということだった。
ことの発端は、周りに人が居ないときは必ずフィオリナと呼んでいることに気付いたことだ。
他にもデートに関しては、現実のルピナスの要望ではなく、フィオリナの過去の言葉から全て実行していたし、食事のマナーや食事の量も、全てフィオリナを基準にしたものだった。
それだけならば、まだフィオリナの記憶が色濃く残っているだけなのだと思えただろう。けれど、そうではなかったのだ。
「この前の舞踏会で、何があったか大体ご存知ですよね? けれどセリオン様は、一切関心を示しませんでした」
「それは……」
「もしもあれがフィオリナだったときに起きていたら、セリオン様は話を聞いて、心配してくださったのではないかと思いました」
セリオンの手が、ゆらりと自身の膝の上へと戻る。
俯くセリオンを目で追いながら、ルピナスは言葉を続けた。
「それに、セリオン様の会話は、過去のことが殆どでした。今の話はせずに、過去にどんな話をした、フィオリナはどうだったと……過去に、フィオリナに、縛られているのだと感じました」
それが良いとか悪いとか、そういうことではなかった。
フィオリナ自身が生きていて、数年ぶりに再会したのならば、それはそれは思い出話に花を咲かせただろう。
けれど、ルピナスは十八年間、ルピナス・レギンレイヴとして生きてきた。
虐げられ、疎まれた日々は楽しいことの方が少なかったけれど、それでもこの人生をなかったことにはしたくなかったから。
フィオリナの記憶を持ってはいるけれど、ルピナスとして、これからの人生も生きていきたかった。
「…………なるほど。そうかもしれないな」
ぽつりと、俯いたままのセリオンが答えた頃には、外は夕焼けから夜空へと変わりつつあった。
セリオンの表情は一切見えないが、その声色は今にも泣き出しそうだったので、ルピナスはそっと外へと視線を寄越す。
「二つ聞きたいんだが、良いかい?」
「もちろんです」
「キースは──あの子は、ルピナス自身を受け入れてくれたのか」
「はい」
「そうか。……それなら君はそれを、どう感じた?」
フィオリナを一途に愛しながらも、ルピナスに惹かれていたと語ったキースは、ルピナスとして生きていることを分かってくれた。
そんなキースに「何度でも君だけを好きになる」と言われたとき、ルピナスは気恥ずかしさを持ちながらも、一番に感じたのは。
「……嬉しかったです。フィオリナであることも、ルピナスであることも受け入れてくれて、幸せものだなと、思いました」
「……そうか。……うん、分かったよ」
その言葉を最後に、どちらからともなく口を噤んだのは、互いに気持ちを整理する時間が欲しかったからなのか。それとも。
「今日はありがとうございました」
「ああ。こちらこそ、時間を作ってくれて、話を聞いてくれてありがとう」
王宮に到着して馬車から降りる際は、セリオンの帰りを待つ従者がルピナスに手を添えてくれた。
セリオンも降りるかと思っていたが一向に降りてくる様子はなく、俯いたままの彼の行動になんとなく察しがついたルピナスは、従者に少し待機してほしいという旨を話す。
会話が聞こえないくらいの距離に従者が待機すると、それからルピナスは再び馬車を見つめ、ドレスの裾を摘んで、ゆっくり頭を下げた。
「待ってくれ」
「……!」
踏み出した足は、その場に留まることになる。
ルピナスは少しも聞き逃さないよう、セリオンの言葉に耳を澄ませた。
「君なら、必ず騎士になれるはずだ。応援しているよ──ルピナス」
「……っ、ありがとう、ございます」
その会話を最後に、ルピナスは騎士団塔へ戻るために歩き出した。
セリオンはその後、ルピナスの姿が完全に見えなくなってから、我慢の限界が訪れた。
ポタポタと、自身の太ももあたりを濡らしたそれは、フィオリナが亡くなったとき以来だろうか。
「やはり、キースには敵わないな……」
ルピナスをフィオリナとしてしか見ていなかった自身と違って、きちんとルピナスとしての生を受け入れたキース。
ルピナスははっきりとは言わなかったけれど、間違いなく惹かれているのだろう。好きな相手が誰を好きかなんて、手に取るように分かってしまうのだから辛いものだ。
だから、敢えて告白を断られたとき、キースが好きなのかとは尋ねなかった。
「……甥っ子に負けたか……悔しいなぁ……」
頬を濡らしながら、セリオンは長年の恋が成就したときのキースの顔を想像し、クスリと微笑んだ。
「いや、やはり悔しいから、これは教えないでおこう。転生魔法において、記憶を思い出すには前世で一番大切だった人に出会わなければいけないことは」
ルピナスが記憶を取り戻したのが、キースと出会ったときだということを知っているセリオンは、やれやれと小さく頭を振った。
「初めから私に勝ち目がなかったなんて分かっていたが……やはり好きだと伝えて良かった」
──これで、ようやく前に進める気がする。
セリオンはそれからしばらく、馬車の中で一人暗闇に目を閉じた。
優秀な従者が待機したままなのを良いことに、自身の涙が枯れるまで。