第四十八話 ルピナスの重大発言
聞こえるはずの車輪の音は、何故かキースが隣に来てからというもの聞こえなかった。
先程よりも舗装された道路を移動しているからなのか、それとも、自身の鼓動により車輪の音が掻き消されているのか、それはルピナス本人にも分からなかった。
「まだ今日は終わってない。ルピナスは俺のパートナーなんだから、隣に座るくらいは良いだろう?」
「……っ、普段からいつも近いじゃないですか」
「そう言われればそうだな。ルピナスが居ると近付きたい衝動に駆られるんだ。許してくれ」
「衝動」
まるで瞳からハートの光線が出ているのではと感じるほどに、キースから向けられる眼差しは甘ったるい。
声色も雰囲気も、馬車の中の密室ということも相まって、ルピナスは雰囲気に飲まれそうになるのを、ブンブンと頭を振って制した。
「……それで、お話とは何でしょうか……?」
ほんのりと頬を赤く染めて尋ねると、キースは乱れたルピナスの髪の毛をそっと手で直す。
「王女殿下とは有意義な時間を過ごせたのかと思ってな」
「それはもう……! 大変聡明で可愛らしい方でいらっしゃって、今度二人きりのお茶会をしようという約束をいたしました! キース様をお待たせしているのは分かっていたんですが、ついつい盛り上がってしまって……遅くなって申し訳──」
ありません、と続くはずの言葉が、ルピナスから発せられることはなかった。
彼女の髪に触れていたキースの人差し指が、優しく、ふに、とルピナスの唇に触れたからである。
突然のことにかぁっと頬を真っ赤に染めたルピナスは、ガチガチに全身を固まらせて瞠目した。
「謝罪はいらない。ルピナスが嬉しそうで良かった」
「…………っ」
「……にしても、ルピナスの唇は柔らかいな。ずっと触れていたくなる」
キースはやや恍惚とした表情を浮かべて、今度は親指で柔らかな唇をふにふにと弄んだ。
(なっ、なぁ〜〜!! やめてくださいキース様ぁ!! けど今口を開くのも……!!)
口を開いてキースの指が口内に入る可能性を考慮すると、声で訴えるわけにはいかない。
今にも心臓が破裂しそうなのでどうしたら良いものかと考えるものの、熱に浮かれた状態で正解が導き出せるはずもなく、ルピナスは空いた両手をそっとキースへ伸ばした。
その両手で襟を弱々しい力で掴むと、ツンツンと引っ張ることで唇から指を離してほしいと訴えるのだが、如何せん男性に対する耐性がないルピナスは自身の唇に触れるキースを直視することなどできず、ギュッと目を閉じた。
するとそのとき、心なしかキースがゴクンと生唾を呑む音が聞こえた気がした。
「ルピナス、それは無意識でやっているのか」
「…………?」
(それ……? 一体何のこと……?)
羞恥に侵され、視界を閉ざしたルピナスにはキースが言うそれが直ぐには理解できなかったけれど、次のキースの発言でそれはすんと腑に落ちた。
「──キスを強請っているように見えるぞ」
「……!」
「舞踏会での嫉妬といい、ルピナスは俺を誘惑する天才だな。……いっそのこと、その誘いに乗ってやろうか」
「…………!?」
その瞬間、スッと唇から指が離されたのが分かる。
しかし安堵したのは束の間、顔のすぐ近くに感じる気配に、ルピナスは咄嗟に目を見開いた。
「……キース様……っ、近いです……!」
「ああ。わざとだからな」
「……っ、離れていただきたいのです……!」
「……嫌なら離れる。…………嫌か?」
キースの吐息が肌に触れる。瞬きをすると長い睫毛がふるりと震えているのも明瞭に見える距離で、縋るような声で問いかけてくるキースの声は、まるで毒だ。
身体を蝕まれ、気が付けばいつの間にか侵食されてしまうような、そんな甘美で卑しい毒を、ルピナスは拒絶することができない。
(嫌じゃないから……困ってるんじゃない。嫉妬したのだって……この状況が嫌じゃないのだって……これってやっぱり……)
ルピナスは自身の感情にあと一歩のところまで気がつくと同時に、直ぐそこにあるキースからぱっと目を逸らした。
ここで口を閉じておけば良かったのだが、返事を待たせているキースにこれ以上不安を与えたくなかったルピナスは、覚悟を決めるように下唇を噛み締める。
下唇を噛み締めているルピナスの姿は、キースにはどことなく艶かしく映る。
なけなしの理性で踏み止まることで、ぐいと近づけた顔を戻そうとすると、そんなキースの手に、ルピナスの細い手が優しく重ね合わせられた。
「……折角引こうと思っていたのに、あんまり可愛いことをすると無理矢理口を塞ぐかもしれないが、それでも良いのか?」
まあ、キースは無理矢理するつもりなんてさらさらないのだが。
一途に思い続け、奇跡的に再会でき、ようやく思いを伝えて男として意識してもらえるようになるだけでも夢のようだというのに、まさか嫉妬までされるようになったのだ。
浮足立ってはいるものの、ルピナスが少しでも嫌がることなんて、絶対にしないという気持ちは人一倍強かった。
「……あ、あの、キース様……」
「ん……? どうした」
だから、半分脅しのような台詞も、ルピナスがしっかり拒絶してくくれば、それでなくとも困った素振りを見せてくれれば、「悪い」と一言謝って、またいつも通りに戻れば良いと、そう思っていたというのに。
「嫌では、ないです。けれど、少しだけ待ってほしいのです」
「………………ん?」
まるで、待ってほしいだけで、キスをされるのは嫌ではないと言っているように聞こえるルピナスの発言に、キースはついに自分の都合が良い言葉に変換する能力でも手に入れたのかと、本気で頭を抱えたくなった。