第四十四話 元婚約者の哀れな一夜の始り
（初めましてって、この人は何を言っているの）
キースが居なくなるのを見計らったように、綺羅びやかな会場からバルコニーへと足を踏み入れてきた男性に、ルピナスは訝しげな表情を見せた。
彼以外であったならば、愛想笑いの一つや二つ、さらりと浮かべることが出来ただろうが、流石のルピナスでも相手が相手だったからだ。
「ああ、失礼。名乗っていませんでしたね。僕はダイラー侯爵家嫡男のドルトと申します。美しいお方、お名前を伺っても？」
元婚約者──ドルトは頬をほころばせながら、ルピナスだということに一切気が付かない様子で、そう問いかけた。
（私を愛していないのは分かっていたけれど、まさか顔が分からないなんて）
ルピナスは確かに美しくなった。肌も髪も健康的になったし、今は薄く化粧も施している。誰もが振り向くような美しいドレスに身を包んで、髪の毛だって普段とはくらべられないほどに手が込んでいる。
けれど、何も分からない程ではなかった。婚約破棄されるまで何度か会っているドルトが、気付かないほど見た目が変わったわけではなかったというのに。
（ハァ、呆れた。これが戦場なら一瞬で黙らせることができるんだけど。今は舞踏会だし、大事にしてキース様にご迷惑をかけるわけにはいかないし）
今日のルピナスはこの舞踏会で注目の的だった。
『氷の騎士様』ことキースの同伴者で、歴代初の女性の名誉騎士であり、傷物令嬢と揶揄されていたが、その実は見目麗しく教養も兼ね備えた令嬢というのが、概ねの参加者の感想である。
（私がこの舞踏会に参加していること、知らない……？ レーナのこと溺愛してたし、二人でイチャイチャしていて周りの話を聞いていないとか？ ……いや、そうだとしたら、なんで今レーナと一緒に居ないんだろう。そもそも、私にこんな形で声を掛けてくるのがおかしいのよね）
ふつふつと沸き起こってくる怒りと疑問を、ルピナスは一旦頭の隅に追いやる。
しかし、このまま楽しく話すつもりは毛頭ないルピナスは、美しいカーテシーを見せてから、鋭い眼差しでドルトを見つめたのだった。
「お久しぶりです。ダイラー侯爵令息様。レーナとはその後仲は如何でしょうか」
「……え？ 久しぶり……？ 僕のこと知って……？ もしかしてレーナのご友人かい……？ いや……その声どこかで……」
（うっそ……声を聞いても直ぐには分からないって……）
これがもし、フィオリナの記憶を取り戻していないルピナスだったとしたら、大層ショックを受けていたかもしれない。
記憶を取り戻す前からドルトに対して愛はなかったが、ルピナス自身の性格はフィオリナに比べて多少落ち込みやすいところがあったから。
しかし今、ルピナスのフィオリナの性格も混じった状態なので、ショックを受けるよりも怒りの方が大きい。
「あら、その目と耳は節穴でいらっしゃいますか？
目の前にいるのは、貴方が身勝手に捨てて家を追い出した元婚約者ではありませんか」
「……！？ え！？ じ、じゃあ君が……今日噂になってる、あのハーベスティア家の令息の同伴者で名誉騎士のルピナスなのかい！？」
「ええ、いかにも。それともう何の関係もないのですから、気軽に名前を呼ばないでいただけますか？ 失礼ではありませんか」
どうやらドルトは噂は聞き及んでいたらしいが、まさか目の前にいるのがそのルピナスだとは思いもしなかったらしい。
ルピナスは小さく息を吐いて、今まで冷ややかだったドルトの瞳が熱っぽいものに変わっていく様に、嫌悪感を露わにせざるを得なかった。
「そ、そんな冷たいことを言わないでおくれルピナス！ 一度は愛し合った仲じゃないか……！」
「はい？」
「実は君が出て行ってからレーナが本性を現してね……あんなに性格のきつい女だと思わなかったよ……ハッ！ もしかしてルピナス、君がレーナを虐めていたんじゃなくて、君が虐められていたんじゃないか！？」
──僕、天才じゃないか！？
そう言わんとばかりの興奮した口調のドルトに、ルピナスは思い切り眉を顰めた。
（愛し合ってないし……それに、何言ってるの今更。あのとき一切話を聞かずにレーナの言うことをすべて鵜呑みにした挙げ句、家を出ていけといった人間が、どの面下げて……ああ、腹が立ってきた）
せっかく音楽を聞きながらキースが戻るのを待っていようと思っていたというのに、ドルトのせいで全て台無しである。
しかし、ドルトの暴走はこれで終わらなかった。
「良いことを思い付いた……！ 僕たちやり直そう！ レーナとは別れるから、僕と結婚しよう、ルピナス！」
「──は？」
「そうだ、それが良い！ 元々は僕の婚約者は君だったんだし、君がこんなに美しいなら手放さなかったよ！ 身体に醜い傷跡があっても……まあ、名誉騎士の称号とその美しさがあれば目を瞑ってあげるから！ 嬉しいだろう！？」
聞くに堪えない発言の数々に、プツン、とルピナスの脳内で何かが切れる音がした。
「なんて気持ちの悪い。それに、貴方如きがこの傷跡を醜いですって……」
「えっ？ 何か言ったかい？」
脳内花畑のドルトには、ルピナスの呟きが聞こえなかったらしい。
ルピナスはギロリとドルトを睨み付けると、力強く足を踏みしめた。
「私は貴方を愛したことなんて一度もありません。都合の良い妄想はやめてくださいませ。それに貴方ともう一度婚約をするなんて死んでもごめんです。では失礼」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、ルピナス……！」
ルピナスはグラスの中身を掛けてやりたい気持ちを抑え、ドルトの横を通り過ぎると会場内へと歩き出した。
ドルトは追いかけて来ているが、ルピナスが速度を緩めることはない。
（もうこんな人と話もしたくないし、顔も見たくない。……何だか無性に、キース様に会いたい）
ちょうどダンスが終わった会場内では、再び貴族たちが各々会話をしている。
ダンスの名残か、中央辺りに人々が密集していることもあって、ルピナスはドルトを撒くために足早に人混みへと向かうのだが。
「待てと、言っているだろう！！」
「…………！」
礼儀を知らないのか、婚約者でもない女性の手首を許可なく掴むドルトに、ルピナスの眉がぴくりと動く。
キースに触られるのとは違う、形容し難い嫌悪感に、ルピナスは軽くその手を振り払った。
そして、鍛えてもいないドルトの弱々しい力では、騎士見習いのルピナスの力に勝てなかったようで。
「ぷぎゃ……！？」
（ぷぎゃ……？）
手首に感じた不快な皮膚の感覚がなくなったことに安堵したのは束の間、ドルトから漏れる気味が悪い声にルピナスは何事かと振り向く。
同時にドスン！ とドルトは派手に尻もちをついたかと思うと、偶然にも一瞬静まり帰った会場内で、無様な──ビリッ！ という音が響いたのだった。
そして、そんなドルトの近くにいたとある令嬢は、ドルトのビリッ、の正体に気づくと、顔面を真っ青にして叫び声を上げた。
「きゃーー！！！ ズボンが破れて下着が見えていらっしゃるわーー！！！！ 変態よーー！！！」
読了ありがとうございました。
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