第二十六話 キース・ハーベスティア
キースは物心がついたときから、母に虐げられていた。
父や義兄にはバレないところで、使用人にはしっかりと釘を刺して、少しでも気に入らないキースの専属護衛を頻繁に辞めさせて。
歳の離れた前妻の子よりも劣るキースが優秀であれば、夫である公爵から愛されると思いこんだ、そんな愚かな考え方が原因だった。
食事を抜かれたり、頬を叩かれることはよくあった。
一日ずっと勉強を強制され、眠ることさえさせてもらえない日もあった。
遊んでいたら叱責され、金切り声で怒鳴られたことは、記憶に新しい。
そんなときだ。フィオリナが専属護衛騎士として、キースの傍にいるようになったのは。
フィオリナは、他の騎士たちとは違った。
『もっと自由に生きても良いのです。微力ですが、私がお支えしますから』
キースを外に連れ出して遊びの楽しさを教えてくれたり、寂しい夜は添い寝をしてくれたり、弱音を聞いてくれたり、将来の話をしたり。──キースが少しでも笑っていられるようにと、フィオリナは騎士の立場から一歩超えて、心を守ってくれたのだ。
『フィオリナ、絶対に騎士を辞めないで……約束して。僕、これからもずっとフィオリナと一緒にいたい』
『……もちろんですキース様。貴方が望む限り、私はあなたのお側におります』
だから、フィオリナが母からの行為を止めず、むしろ母と友好的な関係を築くことに、キースは一切の不満はなかった。
むしろフィオリナのそんな行為は、ずっとキースの側にいるためだということを、知っていたから。ときおり見せるフィオリナの曇った表情から、フィオリナも傷付いていることを、キースは知っていたから。
フィオリナが側にいるようになってしばらくは、キースの中でまだフィオリナは歳が離れた姉のような存在と言えただろう。
けれどそれは徐々に変わっていった。
フィオリナが護衛騎士になってから一年が経とうとする頃だろうか、『これ』といったことはなかったように思う。
フィオリナの笑顔を見ていたら、名前を呼ばれたら、抱き締められたら、ふと、ストンと腑に落ちたのだ。
『僕、フィオリナが好きだ』
『ふふ、ありがとうございます。私も大好きですよ、キース様』
(僕とフィオリナの好きは、多分違う)
フィオリナを絶対手放したくない、他の男に笑いかけてほしくない。そんなドロドロした感情と、この笑顔をずっと見ていたい、彼女が守ってくれるように、僕もフィオリナを守りたい、そんなキラキラとした感情が、キースの中で生まれたのだ。
だからキースは、頻繁にフィオリナに好きだと伝えた。
けれど年齢のせいか、立場のせいか、フィオリナが鈍感だからか、全く相手にはされない。まるで弟を見るような慈しむ目が、ときおり憎くて堪らなかった。
それに一番気に入らなかったのは、ときおりフィオリナが話す中で出てくるセリオン──王弟であり、キースの伯父にあたる存在のことだ。
フィオリナは一切なんとも思っていないのだろう。後から冗談だと付け加えられたとしても、求婚されても全く意に介していない。
(絶対、フィオリナに気があるでしょ、伯父上)
恋を知り、そんなふうに嫉妬の感情を知ったキースだったが、それはフィオリナが専属護衛騎士になって二年という頃に起こった。
その日は厚い雲に覆われた、曇天だった。
約二年ぶりに義兄が留学から帰ってくるため、屋敷内は全員大忙しだった。
キースも普段より格式の高い装いに着替えさせられ、両親とともに義兄を出迎えた。
そしてその日は久しぶりに家族揃って食事を摂った。
直後、事件は起こったのだ。
『何よ長男!! 自分は優秀ですって自慢したいわけ!?』
『お、お母さ──』
『私がこんなふうに惨めな気持ちになるのも、全部お前が愚図なせいよ!!』
そう言って、母はキースの頬を叩いた。二年ぶりに会った長男を見たことで前妻への劣等感を刺激され、そんな長男を自慢だと話す公爵の言葉が、引き金だったらしい。
『あーー……イライラが治まらない……、ちょっとお前、それを貸しなさい』
そう言って母は、自身の護衛騎士である男の腰辺りを指さした。
『お、奥様……流石にこれは……』
『煩いわよ!! 私の言う事聞かないなら、お前の一族を一生不幸にしてやるわよ!!』
その者にも大切な家族がいたのだろう。母の護衛騎士は、指示されたとおりにおずおずと剣を手渡した。
フィオリナはまずいと思い、キースの前に出る。流石に刃物を持った人間を前にして、見過ごすわけにはいかなかったから。
『フィオリナ……っ』
『大丈夫です。お守りいたします』
『フィオリナそこを退きなさい……!! その愚図はちょっと痛い目を見ないと分からないのよ!! 退かないなら──』
そうして母は扱ったことのない剣を両手で持ちながら、自身の近衛騎士に目配せをして、大きく口を開いた。
『さっさとフィオリナをそこから退かせなさい!! これは命令よ!!』
『……っ、は、はい……!』
『──ちょ、何をするんですか……! 離してください!!』
騎士の男は、眉を顰めながら慌ててフィオリナの前まで行くと、まだ抜刀していなかったフィオリナのお腹辺りを殴って横に倒した。
それからフィオリナの身体に馬乗りになり、『俺は悪くない……俺は悪くない……』と現実逃避するかのようにポツポツと呟いている。
フィオリナは抵抗するも剣を抜くことも出来ず、単純に体格差があるため直ぐに抜け出すことは叶わなかった。
『キース様……! 急いでお逃げください!! 早く……!!』
それなら逃がすしかないと、フィオリナは大声で叫ぶ。
けれど母の悪魔の囁きに、キースはその場から一歩たりとも動くことはなかった。いつもの金切り声ではない穏やかな声色だからこそ、それは数倍恐ろしく聞こえた。
『キース、これも全て愚図なお前が悪いのですよ……もしも今逃げたら、そこの女は殺してしまいましょう』
『や、やめてお母様……っ、フィオリナには何もしないで……っ』
『ええ、良いわよ? お前が少し痛い思いをしてきちーんと反省すれば、優しい母は許してあげますからね?』
『っ、キース様逃げてぇぇぇぇ!!』
穏やかな声色に反して血走ったキースの母の瞳。──狂っている、とキースも肌で感じ取ることができた。
けれど恐怖で足が竦んで動けない中、振り下ろされる剣に、キースは力強く目を瞑った。
(あれ……? 痛く、ない)
どころか、何か温かいものに包まれているのだ。キースはこの感触に、温もりに、匂いに、何度も何度も、救われてきたのだから。
『フィオ、リナ……?』
『ご無事、……っ、ですか……? キース様……っ』
騎士の男を蹴り飛ばしたのか、何か特殊な体術を使ったのか、キースには分からなかったけれど、フィオリナが庇ってくれたことだけは嫌でも理解できた。
視界を遮るようにフィオリナの上半身にすっぽりと包まれたキースは、唯一視界が開けた足元に視線を移す。
そしてそこで、信じられない量の真っ赤なそれを見ることになる。
『血が……っ、フィオリナ、血がぁ……!!』
『……っ、ぅ……っ』
膝からかくんと落ちたフィオリナの左肩には深い傷があり、それは首あたりにまで続いている。
痛みはもちろん、大量の血が一気に失われているからか、フィオリナはキースにもたれ掛かるようにして浅い息を繰り返した。
『そん、な……嘘、だよね……フィオリナ……っ』
キースの言葉と同時に──キン、と剣が床に落ちた音が響く。
素人で力加減が分からなかったこともあるが、流石に母もここまで大事にするつもりはなかったのだろう。後退りして、ぺたりと床に座り込んだ。
そしてそのとき、キースの部屋からただ事ではないと分かるほどの叫び声が聞こえたことで、流石の使用人もまずいと思ったのか、一人が公爵と義兄を呼んでいたらしい。
状況的に、キースの母がキースに危害を加えようとして、それをフィオリナが庇ったということは一目瞭然だった。
それからは早かった。直ぐ様キースの母と、蹲っている騎士の男は公爵の指示により身柄を拘束され、医者が呼ばれた。
しかし医者いわく、肩から首にかけての傷があまりに深く、出血量も多いため、もう助からないとのことだった。
涙で視界が霞むくらいに、キースは泣きじゃくった。
顔が薄っすらと青白くなり、もう目を開けるのもやっとなフィオリナを見つめると、『キース様』と口が開いた。
『これからはお側に、居られないみたい、です……約束、破ってごめ、なさい』
『ごめん……っ、僕を……僕を庇ったから……っ』
キースに掴まれた手をほんの少しだけ握り返したフィオリナは、小さく微笑む。
『け、ど、やっと守れた……っ、やっと、キース様をお守り、できました』
そんなことない。フィオリナはずっと、ずっと守ってくれていた。そう伝えたいのに、キースは上手く言葉が出てこない。
『嫌だよぉ……! フィオリナ死なないでぇ……っ!!』
代わりに、そんな言葉を吐き出した。まだ幼いキースには、死にゆくフィオリナを安心させてやるほどの余裕はなかったのだ。
そんなキースに、フィオリナは最期の笑顔を見せた。もう眠ってしまいたいけれど、こんな泣きじゃくったキースをそのまま置いておくなんて、出来なかったから。
『これ、から、出来なかったこと、いっぱい、してください、 わたしがいなく、ても……っ、もう、大丈夫、です』
『最期に、キース様を守れ、て、わたし、は、しあわ、せ……でした、だか、らキース、様も、どうか──』
『幸せに、なって、ください。約束、ですよ』
──フィオリナが死んだら、幸せになれるはずなんてないのに。
そんな残酷な約束だけを残して、フィオリナは息を引き取った。
読了ありがとうございました。
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