第一話 傷物令嬢は婚約破棄をされる
「ルピナス、君はレーナに紅茶をかけたり、彼女が大切にしている本を破ったりして虐めたそうじゃないか。レーナが泣きながら話してくれたよ……そんな君と、これから家族になることなんて出来ない。婚約破棄をさせてもらう」
午後になるほんの少し前。掃除中だったところ、着替えて早く来いと呼び出されたと思ったら、両親と妹のレーナ、婚約者のドルトがいた。
何事かと困惑したのは束の間、婚約破棄を言い渡されたルピナスは驚きを隠せなかった。
現時点では一応婚約者のドルトは、一切悪びれる様子はなく妹のレーナの肩を抱きながら、顎を異常に上げてルピナスを見下ろす。
その瞳はほんの少しの愛情の欠片さえ、含まれてはいなかった。
「私はレーナを虐めてもおりません。むしろ私は──」
「ルピナスお姉様ったら酷いわ! 私が嘘をついていると、そう言いたいのね……!? ……ううっ」
「ああ、可哀想なレーナ。泣かないでくれ。……ルピナス、本当に見損なったよ。君は傷物というだけでなく、非道で嘘つきだったなんてね」
そう言ってドルトは、より一層に強くレーナのことを抱き締めた。
レーナはというと、ドルトにはバレないようにルピナスを見ながら、チェリー色の淡い瞳に美しい涙を浮かべてニヤリと口角を上げている。この表情を見たのは、何も今日が初めてではなかったので、ルピナスが驚くことはなかったのだけれど。
そしてレーナが涙を見せたとき、あらゆる抵抗や言い分は全て無意味になることを、ルピナスは嫌というほど知っていた。
ちらりと両親を見れば、いつものようにキッと睨まれる。
(虐められてるのは私の方なのに……両親だって知ってる……どころか一緒に虐めてきたくせに……けど、だめね。我が家の次女が泣けば、何を言っても私が悪者なのだから。……昔から、そうだったもの)
──ルピナスは十八年前、レギンレイヴ子爵家の長女として生を受けた。
ルピナスの両親は互いの実家のための完全なる政略結婚で愛はなかったが、貴族たるもの子供を残さねばと事務的に事を行い、ルピナスが産まれたのだ。
しかし、ルピナスは両親が望むような娘ではなかった。
「僕は君ではなくレーナと新たに婚約をする。僕の両親もレーナのご両親も了承済みだ。それに元々おかしかったんだよ。侯爵家嫡子の僕が、傷物令嬢だと言われるルピナスと婚約だなんて」
ピクリと身体を揺らしたルピナスは、無意識に自身の左肩を隠すようにそっと右手を伸ばす。
ルピナスは産まれた瞬間から、左肩に大きな傷跡がある。刃物で斬られてそのまま赤黒い血が固まったような、そんな痣とも取れるような傷跡だった。
貴族の家に産まれた令嬢にとって、体の傷──それも目を背けたくなるような大きな傷は安々と見逃せることではなかった。
基本的に結婚をするまで男性に肌を見せることがないので結婚までは出来るだろうが、その後に傷を隠していたことが原因で離縁を言いつけられる、及び貴族の家同士の関係が悪くなることは容易に想像ができる。
貴族爵位が物を言う世界で、高位貴族と縁を持ちたいレギンレイヴ家にとっては、それは大きな痛手だった。若い女なら誰でも良いと言う歳老いた貴族もそれなりにいるが、そんな彼らでも躊躇するだろうという想像ができるくらいに、成長とともに広がる傷は醜かったから。
一度は傷の治療も視野に入れたが、医者には匙を投げられたらしく、両親は落胆した。
つまり両親にとって、ルピナスは産まれた瞬間から欠陥品だったのだ。
「それに比べてレーナはなんて素敵で優しい女性なんだ。ずっとルピナスからの虐めに耐えてきたんだろう?」
「辛かったけれど……ドルト様がいてくれるから……っ」
だからルピナスは産まれてから今までずっと、両親から冷遇されてきた。
それに、二つ年下の妹のレーナが傷一つなく、かつ美しい容姿で産まれてきたことでそれは年々酷くなっていった。
顔を合わせれば罵詈雑言を浴びせられ、欠陥品の穀潰しは労働をしろ、と使用人と同じようにこき使われてきたのだ。
部屋は余っているというのに、北の端の部屋──日が一切当たらない暗くて寒い部屋を充てがわれ、食事や衣類も使用人とほぼ同じものしか与えられなかった。
(レーナが物心付いたときには、迷いなく私を虐め始めたのよね。まあ、両親を見て育てばそうなるのは当たり前かもしれないけれど)
貴族令嬢として役に立たないならば、家の中で労働力として、そして家族のストレスの捌け口になるしかなかったルピナスだったが、それは一年前、レーナによってとある変化がもたらされた。
某社交場で、レギンレイヴ家としてあまり公にしていなかったルピナスの存在を、レーナがポロッと口にしたからである。
──『私には実はお姉様がいるの。傷物だから、お家で引き籠もっているの。可哀想でしょう?』と。
レーナは美しい容姿のおかげか、社交界において目立つ存在だった。
だからそんなレーナが何気なしに言ったルピナスの存在は、『傷物令嬢』として貴族たちに広まることになったのである。
「レーナの話では、肩に醜い傷があるのだろう? 傷物でも性格がマシならと思ったが……虐めなんて目も当てられないな。本性を知っていれば、僕は初めからレーナに婚約を申し込んだよ」
「……っ、申し訳、ありません」
(どうせ何を言っても信じてもらえない私には、謝ることしか出来ない……)
アスティライト王国内において、貴重な物資が採れる鉱脈を有するレギンレイヴ子爵家は、資金だけはそれなりに潤沢だった。
それに加えてレーナは社交界の花だ。そのため、上位貴族──伯爵家からレーナに対する婚約の申し出は数多くあった。
(レーナは可愛いし要領も良い。それに傷もないし……それでいてルピナスから虐められていたなんて打ち明けたら、そりゃあ男性は守ってあげなくちゃってなるか……)
ドルトの家は爵位だけは伯爵よりも上の侯爵を賜っていたが、簡単に言ってしまえばお金がなかった。
だから傷物令嬢と言われていようと、確実に結婚できるだろうルピナスに、半年前に婚約を申し込んだのだ。
──しかしそんな愛のない婚約でも、傷物のルピナスが侯爵家の人間と関係を持つことは、今までルピナスを馬鹿にし続けてきたレーナのプライドが許さなかったらしい。
ルピナスに虐められたなんてありもしないことを言い、レーナはルピナスの婚約者を誘惑し、騙し、奪っていったのだ。
「かしこまりました。……婚約破棄を受け入れます」
ドルトは以前からルピナスに対して辛辣な態度だったために恋愛感情はなかったので、それに関してはショックはあまりなかった。
しかし、思いの外動揺を表情に出さないルピナスに、レーナに耳打ちされたドルトは「名案だ」とポツリと呟いた。
「当たり前だ。それと、君がいるといつまでもレーナの心が休まらないから、明日にでもこの家も出て行ってくれ」
「……! 明日ですか……? それはいくらなんでも」
「本当は今すぐ出て行ってほしいんだ。レーナの夫として次期当主となる私の言葉が聞けないのか? 君のご両親にも意見を聞こうか?」
「…………っ、わかり、ました」
余計なことは言わずにさっさと出ていけと目で訴えてくる父に、扇子で口元を隠していても瞳に笑みを浮かべている母。
ルピナスは、分かりきっていたことだと自身に言い聞かせても、チクチクと胸が痛む。
(私は両親にとって必要のない娘なのだものね。引き止めてくれるだなんて期待はしていなかったけれど……流石に両親から出ていけと直接言われるのは、避けたいわ)
ルピナスは両親に向けていた視線を、すっと床に下ろした。
その瞳には、それほど絶望は宿っていないが、不安の色が浮かんでいる。
(使用人の仕事は全て出来るし、両親とレーナは知らないけれど実は淑女教育も済ませてあるのよね……家を出て平民として生きていくならマナーはあまり役に立たないかな。字の読み書きが出来ればそれなりの仕事に就けるかも……? ……けど、家を出るに当たって一つ気掛かりがあるのよね……)
ルピナスは誰にもバレないようにふぅ、と小さく息を吐いて、早くこの場が終わることを祈った。