第一日目・夜 蒼い月の夜
冷たく冴える月夜は、世界を優しい蒼に染める
鮮やかなほどに、真っ青な夜だった。
大気は冷たく凍えるように澄み渡っている。
そして静寂……
張り詰めた絹糸のような月の声、星のはじける音も聞こえてきそうな、そんな月夜……
手の平に目を落とすと、その相までがはっきと浮かび上がっている。
もう一度天空に眼をやる。
煌々としてい乍らもどこか寂々とした月明かり……その群青に遮られてしまう細々とした星たちの光……
だがその中にあっても尚、僅かな抵抗を試みるものたちが在る。
オリオン……シリウス……昴……
そしてほとんど記憶に無い位置に、一際力強く輝くのは……
「あれは……木星……?」
星は好きでよく空を見上げるが、惑星の運行まではよくわからない。
自分の吐く息が見える。それはゆらゆらと空へ立ち昇っていく。
ともすると、自分が今、何処に居るのか判らなくなってきそうだった。
大きく息を吐き、彼はゆっくりと地上へと眼を戻す。
冬枯れした平原が……遠くに連なる山の尾根が……月の光を浴びて青く沈む。
昼、ここに来るために通った道は、まるでその存在すら無かったかのように影さえ見えない。
この世の中に、自分だけが取り残されてしまったのではないか……?
そう錯覚するほどに、全てが静かな夜……
その幽かな静寂は、微かに草を踏みしめる音によって消え果ててしまった。
その足音は彼の背後で止まる。
「……あんまり長居してると、凍るぞ」
「風邪引かないで、凍っちゃうの?」
振り向きもしないで彼がそう言うと、その肩に上着が掛けられる。
「着ておけ」
言ってその横に並ぶ、大きな男。
並んだまま、何も言わない。その横顔は硬い髭に覆われて、熊のようにも見える。いかにも山男と言った風情だ。
「……いきなり現実に引き戻されちゃったな」
彼がさも残念そうに言うと、熊が笑った。
彼も釣られて一緒に笑う。
実は心の底では――――現実に戻って来られた事にほっとしていのだ。
「まだ、いるのか?」
熊が訊く。彼は一瞬ためらった後、頷く。熊は、
「そうか」
と言って踵を返し、家の中へと入って行った。
日本らしくない、ログハウス。ペンション『キャビン』……それがここの名前。
しばらくして熊が出てくる。
その片手にズダ袋、もう片手にはカップを二つ。
何も言わずにカップを持たせ、何やら地上に準備を始める。
それを何気なく見ていて、ふと風を感じた彼はその周りに眼をやる。
一面に広がるのはやはり蒼く暗い草原――――その向こうに続く尾根は真っ暗で、空が明るくさえ見える。
「まあ、座れ」
下から声を掛けられて眼を向けると、ランタンを横に置き草の上に直に座る大男。
そのランタンの炎が、暗さに慣れた彼の目に、やけに明るく見える。
「…………うん」
彼が頷き、熊の向かいに腰掛けようとすると、
「そっちじゃ、いい景色は見れんぞ」
そう言った熊がちょっと横にずれて、自分の横を大きな手の平で叩く。
「ここがいい」
言われるままに座ってみて、彼は納得した。
少しだけ下がった目線は山の尾根を正面に捉え、殆ど真円に近い月がその上に浮かんでいる。
沈黙の中、二人はただ空を見上げ、時折、地上に眼を落としては、また空を見上げていた。
やがて静寂の中で、遠慮がちな音が聞こえてきた。すぐに元気の良いシュンシュンという元気な音に変わる。
それで熊が珈琲を淹れる。
ふわりとした温かい湯気と共に広がる珈琲の香り。
その香りにこの辺りだけ生気が戻って来た様に感じて、彼は知らずのうちにほっと溜息を吐いた。
「……いけるか?」
熊が、懐から取り出したボトルを差し出す。
彼は笑った。
「だめだよ、おじさん。未成年にお酒なんかすすめちゃ」
「ほう、お前、まだ未成年だったか」
「あと、一年と半年ちょっとあるよ」
「なら、立派なもんだ」
そう言って断りも無く、熊が珈琲の中に酒を数滴垂らす。
「……ブラックは飲みきらんか?」
躊躇っている彼に意地悪そうに言う。
「そ、そんなこと無いよっ」
半ば意地になる甥っ子に、低く笑いながらカップを渡す。
実を言えば、珈琲の味なんか彼にはろくに判らない。
彼が飲んだことがあると言えば、缶かインスタントをごくたまに、後は自動販売機の紙カップくらいなものだ。
眼を瞑って少しだけ恐る恐る啜ってみる。
第一印象はただ熱かった。
そして第二印象がただひたすら苦かった。次には熱いものが喉を駆け降りて行った。
そして、その後に広がった香りは、彼が初めて体験したものだった。
隣の熊は何も言わずにたっぷりと珈琲を口に含んでいる。しかし、甥っ子の反応を見て楽しんでいるのは明らかだった。
彼は熊の真似をして、なるべく平然とした顔で飲もうとしたが、敢え無く失敗した。
その眉がぎゅっとしかめられる。
「……砂糖を入れてやろうか?」
「いいよ」
「よーし、いい返事だ」
何がいい返事なのか、熊が愉快そうに喉を鳴らして笑う。
もともとが魅力的な低音だから、まるで地の底から響いてくるようにも聞こえる。
その笑いの意味に気が付いて、彼は、半ばヤケ気味に珈琲をがぶがぶと飲み干し、そして今度は盛大に顔をしかめた。
「はははは」
それを見てますます愉快そうに熊が笑う。
「あーあ、月が綺麗だ」
彼はその笑い声を無視するようにわざと声に出して言う……呼応するように聞こえてきたのは呆れたような溜息だけ。
それからまた数分、沈黙が落ちる。
突然彼は、息が白いわりにはさほど身体が冷え切っていないことに気が付いた。
横合いからカップが取り上げられる。
いつの間に淹れたのか、二杯目の珈琲を熊が自分のカップに注ぎ込んでいた。
「……ココアにするか?」
こちらを見もせずに熊が訊く。
彼は、頭を振ると、
「ううん、さっきと同じのがいい」
「……よし」
それ以上は何も言わずに、砂糖を少しとミルクを入れる。
「ブラックでいいよ」
「いい心掛けだがな」
熊は髭で隠れた口元に見えない笑みを溜めたまま、カップを渡し、
「じっくり慣れて行けばいい」
「……うん」
彼は素直に受け取ると、今度は急いで中身に口をつけた。
また、暖かさがぽうっと広がる。
「あー、あったかーい」
その言葉と同時に、湯気が辺りにふわっと舞う。
「お酒のせいかな……身体が暖かいや」
「ほぉ……本当に初めてなのか?」
さも意外そうに熊が訊く。彼は当然のごとく頷いた。
「だって、お酒は二十歳から、って言うじゃない」
「ほーう、そだったのか」
まるっきりばかにした物言いに聞こえ、彼は口を尖らせる。
「じゃ、おじさんはいつから飲んでるの」
「高校の時には、既にビールがジュースだった」
「……っ!?」
何の抑揚も無く言われて、彼は思わずむせそうになる。
「真面目なんだなあ……」
「……感慨深げに言わないでよ」
咳き込みながら抗議の声を上げる。
「馬鹿にされてるみたいだ」
「それは無いな」
あっさりと熊が応える。
「それは人それぞれだからな」
「出た、おじさん節。はぐらかすつもりかい」
「バカヤロ」
言って笑い合うと、のっそりと熊が立ち上がった。
「さあ、そろそろ入らんと、本当に凍るぞ」
「……うん」
彼は残念そうな顔をしつつも、素直に立ち上がる。
実際足先は完全に感覚が麻痺していた。しかし、それでも後片付けは手伝う。
中に入ると、暖炉の火が燃えていた。どうやらさっき熊が点けておいてくれたらしい。
「よく手足をさすっとけ」
そう言い渡して、熊はキッチンへと消えて行く。だんだん痒くなってくる指先を懸命に摩りながら、彼は顔をしかめた。
そうこうしてるうちに腹が鳴った。思わず、夕食で出た鴨肉の料理の味を舌に甦らせてしまう。
こうなると色気も何も無い。次々と食べ物の味が浮かんできて、ますます身体が空腹を訴える。
「……おじさーん」
そろそろとキッチンに入り込むと、シンクの前に立つ熊の背中に向かって彼はいささか情けない声を出した。
「何か食い物、無いかな」
「……元気だな」
「ラーメンでもいいよ」
「待ってろ」
熊がそう言ってひらひらと手を振る。
それを合図と受け取り、彼はサロンに戻った。
ほどなくして、熊が何かが乗った盆を手に、サロンへと戻って来た。
「……これ、どうやって食うの?」
半分の長さになったフランスパンと、チーズの塊、そしてスープ。
何も言わずに熊はパンを厚く切り、チーズを鉄製の長い棒の先に刺し、それを一つ彼に持たせる。そして自分も同じものを持つと、くるくると、暖炉の火の上で器用にそれを回し始めた。
彼は見様見真似でやってみる。だがどうにも焦げそうでつい串を引いてしまう。
やがてチーズの焼けるいい香りが漂ってきた。
熊は、さっとそれを引き上げると、パンの上に乗せる。まだ完全に溶けきっていないチーズから器用に串を抜き取り、パンに刺しかえる。それをまた暖炉の火であぶった。
彼も真似をして、炎よりも上の方へとチーズを乗せたパンを差し込む。
だんだん上のチーズが溶けてくると、パンの方も程よく焼けてきた。
「……もう、いいかな」
焼きあがったトーストは、いい匂いを漂わせている。
「いいだろ」
熊の方はとっくに焼きあがったトーストを皿の上に乗せ、串を抜いていた。
ふつふつと焦げて泡立つチーズの上に、軽く塩コショウを振ると彼の前に差し出す。
「冷めないうちに食え」
「頂きます」
鳴り続ける腹に我慢できず、一も二も無く頷いた彼はトーストに齧りついた。
「あち……あちちっ……」
「……やけどするなよ」
呆れたように熊が忠告するが、全く耳に入っていない。
熱さと共にサクッとした歯触りと、同時に口の中に広がるコク……熱いチーズがよく伸びる。
とにかく、うまかった。
カップのスープもまだ熱かった。
彼は瞬く間に二切れを食べてしまい、最後に飲み頃の温度になったスープを喉へと流し込む。
熊はただ笑ってそれを見ていた。
腹が満ち、人心地着いた彼が窓の方へ目を向ける。
外は、まだ幻想的な蒼のまま……
どこかで遠吠えが聞こえ出した。ここで飼っているハスキーだ。
それは彼を再び夢幻に誘うようだった。
時折、暖炉で火がはぜる。それらに紛れて、時計がその鐘を撞いた。
それは十二時を指していた。
その文字盤に、唐突に彼は思い出す。
「そう言えば……明日早いんでしょ?」
「ああ」
「寝なくていいの?」
「お前はどうなんだ? 今日着いたばかりだが」
「僕はいい……なんか寝るの勿体無いし」
「うん、こんな月夜は久しぶりだ」
熊は立ち上がると、部屋の明かりを落として、また座った。手にはいつの間にか、スキットルボトルが握られていた。
それをグラスに注がずにそのまま飲む。
「あ、いいな」
冗談めかして彼が言うと、熊は低く笑った。
「飲むか?」
「う……うん……」
差し出されたボトルにいったん手を付けかけて、彼はごまかすように笑う。
熊はボトルを差し出したまま。
彼はとうとう観念してボトルを手に取ると、思い切って一口飲んだ。
それが喉を駆け降りて行った途端、思いもしなかった灼熱感に彼は激しくむせた。
「おお、おお」
熊は感心したような、でもどこか面白がるような声を上げる。
「なかなかいい度胸だ」
「げほっ……もう、笑ってないで、手を貸してよ」
「甘い。そのくらい覚悟しておけ」
彼の抗議は熊によって一笑に付されてしまう。
しかしそう言いながらも、熊は一応用意してあった水をコップに注いで彼に渡した。
「……ありがと」
コップを受け取り、急いで飲み干す。
冷たい水が苦みと熱に荒れ狂う喉を癒し、彼は大きく息を吐き出した。
「ふぅ……よく飲むな、こんなの」
「慣れだな。それにしてもいい飲みっぷりだ。ビールも飲んだことが無いにしては」
「そうかな……ぁ」
言いながら、彼の身体がかすかに揺れる。
彼はちょっと苦笑した。
「なんか、さっきから飲んだり、食べたりばっかしてるみたい」
「いいんじゃないか? ……こんな月夜だから」
「ここらでも珍しいのかい?」
「こんなに明るいのはな。雪がある日は、また別だが」
「雪……?」
「光るんだよ……雪自体が蒼白くな」
「蒼白く…………綺麗なの?」
「綺麗だぞ。この世のものとは思えん程にな」
熊の声が遠い。
外はさらに幻想的になり、暖かい空気が彼を包む。
熊はもう一口酒を口に含み、しばらく外を眺めていた。
スー……スー……
規則的な息遣いにふと眼を向けると、テーブルに腕と頭を預けて眠る甥っ子の姿……
熊の口元に笑みが浮かぶ。
熊は彼の肩をそっと揺すると、声を掛けた。
「……おい、ここで寝てると風邪引くぞ」
「…………ぅん…………」
甥っ子の返事は、生返事……
ペンション『キャビン』の夜は静かに更けていった……
第一話はほとんど変わっていません。
ただし、第一稿では淡々としていた表現を少し直してあります。