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朝岐夢見師 下  作者: 梅田 貴冬
1/1

少年の罪と罰

いよいよ朝岐は、環の夢に挑む。

夢に与える変化は、ほんのわずかでいい。

果たして、環は悪夢から解放されるのか。

朝岐夢見師あさきゆめみし 下


7

朝岐は、阿摩羅識(あまらしき)の淵に立っていた。

(来い!)

と念じる。

すいっと体を乗せたのは、大きな朴木(ほおのき)の葉だ。地上すれすれに(ほお)の船は、緩やかに進む。

(これは、凄い)

朝岐は手をかざした。

環の阿頼耶識(あらやしき)は、未明に青褪(あおざ)めた満開の桜並木だった。

人々を、酒に酔わせる俗世の桜ではない。

腐敗発酵の終わった遺体の、甘い半眼。風化した髑髏(どくろ)のあどけない穴、のように、花の一つ一つが死に傑出し、分厚く折り重なって、空に沈殿している。

集う鳥の気配はなく、並木の根元に積る枯葉を、こっそり動かす菌の声もない。

豪奢(ごうしゃ)沈黙(しじま)だ。

煩雑(はんざつ)な町や人や諸々の音が一挙に溢れる日常の中で、一瞬無音が訪れる偶然の刹那(せつな)、が凍結された間隙(かんげき)

一点の情も宿さぬ幾千万の桜の視線が、朝岐の魂を測ろうと頭上に落ちる。

ひとひらの花弁(はなびら)が胸を蹴って染み透ると、環の千古愁(せんこうれ)いが貫いた。

(師匠は、…死を願って生きている、子どもなんだ)

揺り籠の中で、この世に居ると気づいた赤ん坊が、死にたい、死にたい、と激しく身をよじって慟哭(どうこく)する。

産まれてしまった無念と憤りが、朝岐の心臓を掴んだ。

「師匠!」

朝岐は桜に向かって叫んだ。

どおぉぉぅと花吹雪が、驟雨(しゅうう)の如く降り注ぐ。

(師匠)

花弁(はなびら)の重みで朴の船は地に落ち、眠れ、眠れと(ささや)く。

芬々(ふんぷん)と(かぐわ)しい桜の(しとね)に倒れ込む。

抗いがたい睡魔だ。

このまま他者の中で眠りに落ちれば、二度と目覚めないかもしれない。

(駄目だ、眠っては)

頬を叩く。

桜は、朝岐を埋めようと枝を震わせる。

(まぶた)が落ち、夢の肉体が、地の滋養となるべく流れ出る。

死ぬかもしれない。

片隅の冷静が言う。疲労の抜ける快感は、麻薬だった。

つと、軽やかな鈴の音が耳を殴った。

すっくと立った黒い足が、朝岐の視界一杯に映る。

環の飼う、黒猫の『夜露(よつゆ)』だった。

生き生きとしたオーラを放ち、夜露は金色の目で朝岐を見下ろした。

朝岐は、桜の(しとね)を跳ね上げた。

花弁は驚いて、空へ登っていく。

行こう。

小さな黒猫が先を歩く。

慌てて夜露を追う。

彼女は時折り朝岐を振り返って待ち、あと少しで並びそうになると足を速めた。

朝岐は、大の男が二人、両腕を広げても測り切れない、巨木に導かれた。

幹の(うろ)へ、夜露がひゅんと飛び込む。

朝岐もそれに(なら)う。

環の夢(末那識(まなしき))に入ったのだ。

百畳あろうかという板の間に、幾本もの竹の柱が天井を支えている。

柱に野の花が活けられ、床は冷たく(きし)んだ。

桔梗(ききょう)竜胆(りんどう)撫子(なでしこ)、名も知らぬ花々。

こっちだ、と夜露が鳴いた。

夜露の声と琵琶の音が重なる。

環は、能の本舞台に端然(たんぜん)と座り、琵琶を弾じていた。

朝岐は既に、客席に座っていた。夢はこうして飛躍し、ステージを上げていく。

膝に夜露が飛び乗る。

猫の(はかな)い骨格を掌に感じるも、頼もしい熱が伝わった。

音は、大きくうねりながら朝岐のくるぶしに打ち寄せ、悠久の旋律を奏でる。

(師匠は、夢の中でも琵琶を弾いているんだな)

夜の海と評した銀河の言葉通り、うねりは指先から全身を駆け巡る。鳴っているのに(しず)まり、休符に、聞こえない筈の音が聞こえる。

例えば真冬の、深夜に降る霜。愛用の器が壊れる、前兆の戦慄(わなな)き。万物がこと切れる、最後の鼓動。

朝岐は目を閉じ、記憶の海を漂っていた。

(これだ。師匠の、裏側を流れる声に、僕は心を持って行かれたんだ)

夜露の背を撫でる。

音の海があるなら、底まで沈みたい。

環は魂の(うち)に、孤独と死を抱いている。父母から、そのまた父母の父母から…脈々と受け継がれた記憶が環の中に集い、琵琶に折り畳まれて指を伝う。

体は揺れて、トランス状態を引き起こす。

朝岐が溺れかけていると、夜露が顔を上げた。

雨雲のごとく垂れた黒い髪、金と黒が(あや)なす(うろこ)文様の着物に、(しかみ)(おもて)を付けた『それ』が、橋掛かりをしずしずと進んで、環の背後に座した。

(鬼!)

明るかった舞台の照明が落ち、環と鬼だけを浮かび上がらせる。

環は琵琶を止めない。

くわと開いた鬼の口から白煙がたなびき、緩やかに環を囲っていく。

演奏はさらに高みを目指し、激しく、強く、叫ぶ。

音の振動は、鬼の口から吐かれる白煙を増幅させているようだ。

(師匠、そいつに同調してはいけない!)

朝岐の額から、一筋の汗が流れ落ちた。

(声が出ない。あいつ…あいつは師匠のなんだ)

夜露の金色の瞳が、朝岐を見ていた。

(何とかしろって?お前にもあれが不吉だとわかるんだな)

白煙は環を絡め取っていく。

(壁が、動いている)

目を凝らすと、壁は琵琶の音に反応して黒く(うごめ)いていた。

「それは、蜘蛛(くも)です」

と、環が言った。

白煙は、蜘蛛の糸だったのだ。

朝岐はただ見ているしかなかった。

鬼は立ち上がり、銀色に光る大太刀(おおたち)をさらりと抜き、諸手に高々と構える。

(止めろ。止めてくれ!)

声にならない朝岐の叫びに、夜露がひらりと舞台に飛び乗った。

(夜露)

鬼は、ためらいもなく大太刀を環の右肩に振り下ろす。

血飛沫(ちしぶき)が弧を描いて噴き出し、環が崩れた。

夢の場面転換を(はか)れぬもどかしさに、朝岐は身をよじった。

(夜露!)

唸り声をあげ、鬼に飛び掛かる夜露が見えた。


8

ぐらり。朝岐は脳の中心から、ごろんと回転する感覚に襲われた。

手に、丸められた紙を握っている。開くと、『犯罪者の子』と書かれた文字が、はっきり見えた。

(僕は、どうしたんだ)

丸まった紙が、そこかしこに散らばっている。

朝岐は、自身に起きた異変を理解した。環の中に取り込まれたのだ。夢の憑依(ひょうい)である。舞台は消え、夜露も鬼もいない。

(僕が師匠になっている)

薄暗い学校の廊下に、顔の赤く腫れた、ひょろりと背の高い少年が、笑っていた。

「お前はナメクジと一緒だ。生きている価値がない。(けが)らわしい、下等な生き物だ」

少年は当たり前のように言った。

学生服には、「露木江渡(きみと)」と名札が付いていた。

「うちの病院に来ただろう。あの時お父さんがお前の話をしていた。俺は全部知っているんだ」

江渡は勝ち誇り、環、即ち朝岐を見下ろした。

「お父さんは神奈川の病院に居た。お前を治療したのもお父さん達なんだ」

江渡は突然、朝岐を突き飛ばした。環の体では、力の差は歴然だった。

「お前は犯罪者の子じゃないか。いや、犯罪者のナメクジだ」

江渡は声を裏返して、ひゃひゃひゃと笑った。

「ああおかしい。笑いすぎて顔がかゆい。お前のせいだ、忌々(いまいま)しいぃ」

笑いながら、朝岐の顔を覗き込んだ。

「なんだか腐ったにおいがしてくるぞ」

江渡の顔は赤く()れ、ああ(かゆ)い痒い、と喚きながら両手で掻きむしった。

朝岐はべしゃべしゃと、少年の唾棄を浴びる。

「死ねば良かったのに。お前知らなかったのか。お前の母親がお前にしたことを。お前の父親がお前を捨てたことを」

江渡は倒れたままの朝岐に覆いかぶさり、体をまさぐった。肩を押し、両足で蹴り上げようと試みたが、少年は巧みに抑えつけ、更に重くのしかかった。跳ね除けられない無力感は、心を木偶(でく)にする。

「へぇぇ、ほんとに無いや」

侮蔑と嘲笑に満ちた声。

突然視界はモノクロになり、同じ時間、同じ時間、に巻き戻される。録画された動画の、チャプターとチャプターの間を、再生しているかのように。

一日に死滅する数十万個の脳細胞は、記憶だけを置いて行く。朝岐は環の中で、氷の刃が分厚い地層を突き抜ける、鈍い音を聞いた。

ガタガタっと、廊下のガラス戸が震える。

江渡がはっと、うさぎのように周囲を窺った。

鉄筋コンクリートの無機質な冷気は、江渡の禍々(まがまが)しい感情を増幅して、吹きすさぶ。

死ね 死ね 死ね シネ シネ シネ…。

江渡はどろどろに汚れた学校の上履きを指さし、これはお前だよ、と鼻をつまむ仕草で遠く投げ捨てた。

「ナメクジに、上履きなんて必要ない。あ、ナメクジって雌雄同体だった。お前はナメクジにも劣るな」

江渡は、膝を叩いてひいひいと笑った。

「ほんっと、キモチワル。ウザったぁ。良く平気で息をしていられる」

朝岐は無辜(むこ)な少年として江渡の無情を食らい、今直ぐ霧のように消えるか、十年後の未来へ一足飛びに、

飛んでしまいたかった。

江渡の引き裂いた教科書が風に渦巻き、暗い廊下の果てへ飲み込まれて行く。

江渡は、事件のあらまし、顛末(てんまつ)を、声高にまくし立てた。見吉から聞いた話と、全てが一致していた。

「あれを抉り取るなんて、お前の母親は鬼か悪魔かっ、ハハハハハハっ」

体をのけ反らせ、高らかに笑う。

「お前は死んだほうがいい。男であって男じゃないんだから。皆にバレたら奈落の底だよ!」

廊下の窓ガラスは辛抱の限界を超え、どんっと破裂した。

飛び散ったガラスは逆巻(さかま)いて、黒い川に変貌(へんぼう)して行く。

冷たい風が頬を叩くと、夢の場面は転換していた。

周辺の建物が、もっそりと川面を見下(みおろ)し、土手の桜は葉を捨て、(なず)む空に休眠の枝を震わせている。

(冬。ここはあの)

水色のアーチは、朝岐も見慣れた千登勢橋(ちとせばし)だ。

「お前は、俺の一言で木端微塵(こっぱみじん)だ。俺がお前の将来を握っているのさ」

学生服にマフラーを巻いた江渡が、川風に吹かれながら叫んでいる。彼の白目は充血し、顔は赤黒く膨れていた。

江渡は楽器のケースをひったくり、柔らかく身を横たえていた琵琶を掴むと、思い切り地面に叩き落とし、踏みつけた。何度も、何度も。

苦しみを慰めてくれる支え、生きる矜持(きょうじ)が、粉々に砕かれる。

朝岐は、キーンと両耳をつんざく、硬質な音に襲われた。

主を失った楽器のケースが、空しく口を開けている。

彼は、腹を抱えて笑っていた。

どろり。矜持の峰から炎を殺し、漆黒(しっこく)に冷えた怒りが、凡庸(ぼんよう)な裾野を目指して軍馬の如く駆け降りる。

朝岐の中の環が、一撃で仕留める言葉を、彼に与えようとしている。

非情の怒りは荒野に広がり、草木の一本も許さぬ冷気が、ひりひりと満ちた。胸に納めていた、羅刹らせつの刃を抜き放つ。

環は刃の切っ先を、江渡の喉元に突き当てるように、言った。

「露木江渡。君が壊したのは、百万以上する琵琶だ。僕はプロの演奏家だ。プロの楽器を君は壊した。これは子どもの喧嘩じゃない。器物破損罪は、れっきとした犯罪だ。僕を笑っている内に、君は犯罪者になった。僕は被害届を出し、君を告訴し、示談に応じない。君の書いた嫌がらせのメモも、全て保管してある。君は高校に進学できず、将来もない。では警察を呼ぶよ」

低い、環の声音だった。

「君は言い訳できない。一生誰からも信用されない。あれを」

指し示した方向に、防犯カメラが設置されていた。楽器をひったくり、踏みつぶした経緯が明白に記録されている。

環が鞄からスマートフォンを取り出すと、唇をわなわなと震わせ、顔面蒼白になった江渡は、奇妙な叫び声を上げながら走り出し、ひらり橋の欄干を乗り越えた。

彼は、前日の雨で増幅した川へ、飛び降りたのだ。

川は、(こい)のように口をパクつかせる江渡を浮き沈みさせ、押し流していく。

一瞬の出来事に驚愕したのも束の間だった。

死んでしまえ。

そのまま死んでしまえ!

環は叫んでいた。

シンデシマエ!

どんっ。

朝岐は自分の叫び声で、目を開けた。

(こんなことが)

朝岐の手は震えていた。喉が痛い。

(僕は、叫んでいた。死んでしまえと)

蔵の中に、自分の叫んだ声の残響が漂っている。

手帳を取り出し、幾度も休みながら夢を書き記す。

(師匠になった僕は、あの少年に心から憎しみを感じていた)

憤怒は、狂気の冷静を敷き、江渡を、ただの犯罪者として扱った。

罵るでもなく、声を荒らげるでもなく、淡々と罪状を述べ、示談に応じないと言い捨てる。

ぶるっと、朝岐は肩をすくめた。目覚めた朝岐に、江渡への憎しみなど微塵も湧かない。


見吉の依頼だったとはいえ、環の了承も得ず、夢に押し入った後ろめたさを抱えながら、朝岐は黒沢邸を訪ねた。

夕暮れの庭は、初夏の湿った風を(よど)ませていた。

「いらっしゃい、朝岐さん。どうぞ」

深園(みその)が笑顔で迎え入れる。

「今日、お稽古?」

「あ、いや。師匠はご在宅ですか」

深園が出て来てくれて良かった。いきなり環が現れたら、狼狽(うろた)えてしまいそうだ。

「環ちゃ~ん、朝岐さ~ん。私これから華岡亭でアルバイトなの」

若々しいエネルギーに溢れた深園は、流行の服に身を包み、玄関前のサイドボードから車のキーを掴んだ。

「車買ったの」

「ううん。母のおさがり。仮免許もその車で練習したから、丁度いいの」

「僕の車、邪魔じゃない」

「大丈夫。行って来ます」

「行ってらっしゃい。あ、閉めるよ」

礼を態度で示して、颯爽(さっそう)と走り出す深園の声には、一点の曇りもない。

彼女を見送った後、朝岐は気配を感じて振り向いた。

正義の刃とタナトスの(かま)が、環を丸ごと覆っている、ように見えた。

「どうぞ」

環は薄墨色(うすずみいろ)の声音で、朝岐を迎え入れる。

(僕が、師匠の夢の中に出てきた理由を、分かっている)

と、朝岐は悟った。

稽古で訪れる柔らかな空気は微塵(みじん)もなく、招き入れられた居間に、朝岐は黙って座った。

良い香りがする。

居間の違い棚に置かれた香炉から、一条の白煙がゆらゆら立ち登り、部屋全体にたなびいていた。

心にじんと染みて来る。

朝岐は生れて初めて、香りで涙ぐんだ。

環は、金塗りの有田焼カップに、カモミールティーを注ぐ。

朝岐はお茶を飲みながら、稽古以外で訪問した理由について逡巡していた。最初の言葉が出て来ない。

色づいた鉢植えの紫陽花が、濡れた様子でぽつんと庭に置かれている。

朝岐の肺は、(こう)の香りで一杯だった。

「覚えていますか」

唐突に尋ねる。

環は視線を()らさない。

「はい。覚えています」

ぎんっと、張り詰めた氷が割れるような感覚だった。

朝岐は、夢を克明に記した手帳を差し出した。

環はしばし読み耽り、「間違いありません」と返す。

朝岐は額に手を当てた。

今でも、死んでしまえ!という激しい声が、頭の中に響き渡る。

「あの少年は現実に」

「はい」

「彼に、夢と同じ嫌がらせを受けていたのですか」

環は顔を曇らせ、俯いた。

「はい」

長い沈黙の後返答すると、環は視線を、あらぬ方へ泳がせ、目を閉じた。


教室の席に座ると、加納帆夏(ほのか)が「黒沢君にこれあげる」と、猫のシールを差し出した。

「予定帳の大事な用事があるところに貼ると良いんだよ」と言った。

学校へ持って来てはいけない物を、こっそり持ち込んで盛り上がる。誰も罪の意識はなく、騒いで告げ口する者はいない、子どもだけの掟だ。

「百円ショップで三枚セットだったよ。前に買った時と同じ物が入っていたから、黒沢君にあげる。理科の実験の時、助けてくれたからそのお礼」

と、加納帆夏は屈託なく言った。

「猫好き?黒沢君」

「うん、好きだよ。ありがとう」

彼女は成績が良く、誰にも寛容だ。

異性の眩しさは心を打った。同じ人間でありながら、遠い星のような存在が甘い香りを漂わせ、微笑みながら猫のシールをくれた。感情を表に出さずとも、自分の心臓は正直に踊っていた。

その帰り道、突然露木江渡に手提げ鞄をひったくられ、猫のシールを奪われた。呆然と立ち尽くし、家に戻っても、江渡の傍若無人な振る舞いに怒りが込み上げた。ふわふわと小さな幸せを、台無しにされたのだ。

江渡に、あんなことをされる覚えはない。

「帰ってるの?環ちゃん。宿題が終わったらお稽古するんでしょ。板さんからお料理が届いているから、冷蔵庫から出して食べてね。行ってくるね」

華岡(はなおか)宮来(みやこ)が声を掛ける。

「うん。行ってらっしゃい」

いつもは部屋から出て宮来を見送るのに、しなかった。

宿題を済ませ、重い気分で居間に行くと、猫の「お布団」が縁側で寝転んでいた。お布団は雄の地域猫だ。天候の悪い日や気分によって、室内で過ごすこともある。同じ地域猫だった「衣(

ころも)」と「菜種なたね」の雌猫は室内飼いに昇格して、衣は四年前に、菜種は三年前にお布団との間に子どもを作り、いずれも里子に出された。それから三匹とも避妊手術を施し、のんびり暮らしている。

お布団はふぁと欠伸をすると、ぴょんと飛び降りて、夜の庭に紛れた。

床に就くと、江渡の暴虐がループする。ひったくられた腕の衝撃が生々しい。見上げた露木江渡は大きかった。抗議一つできなかった。

江渡のことがあった日から姿を見せないお布団を、宮来と二人で心配していた。どこかで事故にあったのではないか、病気になったのではないかと気を揉んでいた。野良猫の暮らしは厳しい。通い猫になっていたとはいえ、縁側に用意されたお布団の定位置に何日も姿を見せないと、心配で溜まらない。

久しぶりにお布団の、にゃぁという声。

(あ、来た)

ふいに立ち上がってバランスを崩し、がくんと足首が捻じれた。

「痛っ」

夕食の用意をしていた宮来が環の声を聞きつけ、

「大変、病院、病院」

と、強引に露木外科医院へ連れて行かれた。

幸い、軽いねん挫だった。

翌朝覚束ない足取りで登校し、教科書を机に入れかけて、手が止まった。奥まで入らない。手探りで掴んだ物はぐちゃぐちゃに丸められた紙だった。広げると、太いマジックで『犯罪者の子』と書かれていた。

急いで丸めて鞄に押し込む。

日常が鼻先で遮断され、教室のざわめきが聞こえなくなった。

「どうしたの、黒沢君。顔が真っ青」

加納帆夏に声を掛けられた瞬間、真っ白な無重力空間に放り出された。

気付いた時には保健室に寝かされ、連絡を受けた宮来にクラウンで運ばれた。

犯罪者の子、犯罪者の子、ハンザイシャの…。白い紙に浮かんだ文字が、どす黒く渦巻く。記憶にない過去から、魔の手が伸びてくる。

(犯罪者の子って、どういうこと。犯罪者って誰。宮来お母さん?華岡のお父さん?それとも僕の)

「どう?環ちゃん」

不安そうに覗き込む宮来は、かけがえのない人だ。

「うん。平気」

宮来に悲しい顔をさせたくない。嘘の返事にほっと胸をなでおろす彼女を見ると、何も言えない。いつも通り夕食後の稽古を始める。宮来は遅くとも午後五時には家を出て行く。女将は休めないのだ。

「戸締りしてね。また具合が悪くなったら、無理せず連絡すること」

宮来は言い置いて、出て行った。

三味線や琵琶を習い始めたのは、宮来のお陰だ。

「環ちゃんは、三味線の音を聞くとすぐ、泣き止んだの。好きなんだって思ったのよ」

と笑っていた。英語やピアノを習い事に加えたのは、見吉の考えだ。

華岡の宮来とお父さんが本当の親ではないと告白されたのは、七歳の時だった。

「お父さんはどうしても環ちゃんと一緒に暮らせなくてね、私たちが環ちゃんの里親になることにしたの。環ちゃんのためのお金はちゃんと、本当のお父さんが出してくれているから、覚えておいてね」

と、宮来は言った。

無邪気にお父さんお母さんと呼んでいた自分が、哀れだった。気安さが消え、二人との間に一本の、見えない線が引かれた。

見吉から体の不具合を聞かされたのが十歳。詳細は語られず、疑問をぶつける勇気もなかった。

ずっと、震えながら息をしていたような気がする。疑問を口にすれば、華岡のお父さんが突然亡くなった後も笑顔で育ててくれる宮来や、習い事を応援してくれる見吉を困らせ、この生活を失うのでは、と怯えていた。

荒みそうな心を三味線が押し留め、寂寞を琵琶が代弁し、希望をピアノが歌う。

自然に旋律が溢れ出て、楽譜に起こし、初めて宮来にねだったパソコンへ録音した。

中学二年になって、今まで作った琵琶の曲を見吉に披露すると、「凄い、凄いよ、環」と泣いてくれた。

CDデビューできたのは、見吉あってのことだ。

「このまま埋もれさせちゃ駄目だ。音楽関係の知り合いに聞かせる」

と言って、話はとんとん拍子に進んで行った。

東京へ通い、アルバムを作る工程を知った。時間をかけ、納得が行くまで演奏する。プロの意見を聞き、アイディアを取り入れると、曲に膨らみが増す。刺激的な経験が、細胞の隅々に染み込んだ。プロの視野は洗練の次元に運んでくれる。

半年以上を費やして出来上がったアルバム発売の記念に、才能ある作曲家や関係者の前で演奏すると、万雷の拍手を受けた。

迷わずこの道を行けば良い、と確信した瞬間だった。

『犯罪者の子』

丸めた紙に書かれたあの言葉は、音楽に精進しようとする心を打ち砕いた。自分の知らない過去が、自分を嘲笑っている。

あれを書いたのは誰なのか、直ぐに分かった。教室に入って来た江渡をつい見てしまった時、彼はにやりと笑い、頷いたのだ。「そうさ、俺さ」と、彼の目は言っていた。以来、ことあるごとにヘッドロックをかけて来て、「ナメクジ」、「死ね」、「生きる価値がない」と囁き、二日と空けずに机の中へ、罵詈雑言を並べた紙を詰め込む。

偶然を装い、宮来の作ってくれた弁当を払って落とし、台無しにされたこともある。

床に散らばった弁当を拾い、こっそり捨てたが、宮来を欺くことはできなかった。

「環ちゃん、どうしたのお弁当。気に入らなかったの?」

宮来が心配そうに尋ねた。

「ごめんなさい。お弁当、落としてしまって」

口籠って俯く。

「まぁ、そうなの」

残念そうに溜息を吐く宮来を、まっすぐ見ることができなかった。

江渡がクラスメイトとふざけ合いながら、わざとぶつかって来る。

「今のわざとでしょう。謝りなさいよ」

女子がとがめると、「は?見えなかった」とうそぶく江渡に、他の男子が同調して笑う。

無理矢理江渡に社会科の教材室に引きずり込まれ、急所を探られながら、知らなかった事件の顛末てんまつを告げられた。

「教えてやる。お前は、実ママに睾丸を抉られた、可哀そうな赤ん坊だったんだ。実ママはその後すぐに死んだ。神奈川の病院に居た俺の親父が、お前を治療したんだ。皆震えたってよ。やれることは縫合と止血だけ。生きる意味の半分を失った乳幼児を、暗澹あんたんたる気持ちで見守るだけだったって。事情聴取を終えたお前の本当の父親とその弟が、引き取れ引き取れないの喧嘩をしてたってさ。お前はお前の父親に捨てられたんだ。俺は、お前の秘密を偶然知って思わず笑ってしまった」

生きる意味がない、ナメクジ、死んだ方が良いと言う彼の言葉には、リアルな説得力があった。体の不具合について、見吉がすべてを言えなかった理由はこれだったのだ。赤の他人から聞かされる事実は、斧に等しい。

「正真正銘、犯罪者の子だろう」

笑い転げる江渡を押しのけ、ふらふらと教材室を出る。

師範になり、許可を得て弟子を取った。アルバムのお陰で演奏会に招待されるようにもなった。生きる希望がある程、過去の事件で執拗しつように嫌がらせをする江渡が、未来を塞ぐ妖怪に見えた。

生れたばかりの自分を襲った忌まわしい事件が、ひたひたと足元に満ちて来る。

苔むした陰気な墓穴(はかあな)耳目(じもく)を塞がれ、永遠の夜の(ひず)みに埋もれるみすぼらしい死者。嘆き悲しめど、現世を隔てる絶望の壁を、崩す術を持たぬ無念で「そこ」に杭打たれ、不公平ではないか、不平等ではないか、「お前たち」だけが光ある未来へ導かれる、と、悪態を吐いて這いずっている。

江渡の仕打ちで視覚は色を失い、味覚を失い、口に物を入れると吐き出した。

宮来(みやこ)に悟られないよう、一緒に食事することを避ける孤独。

体重は減り、『汚らわしい、ナメクジ』が始終頭を占拠して、激しい動悸に見舞われる。白い紙を見ただけで、過呼吸に陥った。

立てば体が(かし)ぎ、顔、声、楽器の音も、ゴミ箱に放り込まれたボロ雑巾に思えた。

平衡感覚が元に戻るのに十日、色が戻るのにひと月、味覚は三ヶ月かかった。

身体の異常が治まると、秘密漏洩がもたらされる恐怖、に(さいな)まれた。江渡は間違いなく、未来を(はば)む毒素だ。彼が生きている限り、自分が生きている限り。

鬱々とした気分で登校して下駄箱を開け、立ち竦んだ。

上履きの中に、雀の死骸が入っていたのだ。

(露木江渡。君には死に対する畏敬がない)

頭の中で、バシンと切れる音がした。

死骸ごと上履きを鞄に入れ、学校を後にした。

雀を葬り、上履きを捨てる。

「どうしたの環ちゃん。学校は?」

怪訝な顔で尋ねる宮来に、背中を向けたまま答えなかった。

心を穢す勢力から身を守りたいのに、過去が底なし沼の魍魎もうりょうとなって自分を取り囲み、弱くなるのを待っている。

魍魎の一つが、黒く干からびた手をすっと右肩にかけた。

はっと振り向いて後退る。

ハシボソガラスが一羽、緋色の空に黒々と染まっていた。

翌日から、学校へ行くのを止めた。

あの日。

あの時、浮き沈みする江渡に、心は狂喜乱舞した。

右脳は感性に従い、嘘を吐けない。

江渡(きみと)が一命を取り留めたと知った時、高熱でうなされた。朦朧とする中で目を開くと、土蜘蛛がじっと見おろしている。

『喜んだお前こそ、死に値する』と、土蜘蛛は囁いた。

以来、夢の中で土蜘蛛が追って来る。逃げても逃げても、彼の放つ蜘蛛の糸に絡み捕られ、右手を切り落とされる。恐怖で目を覚まし、闇の中で声を殺して泣いた。

悪夢は繰り返し、夢から覚めても土蜘蛛の気配を感じているのだ。


環は目を開けた。

「では夢の、最後のシーンは」

感情を抑えて尋ねる朝岐の肉声が、妙に大きく耳に響いた。

「一字一句、間違いありません」

朝岐の顔から血の気が引く。

「私はいつか彼を、完膚かんぷなきまでに叩きのめしたい、と願っていました。彼が琵琶を破壊した時、絶好の機会が来た、と思いました。頭が冴え渡り、心は真冬の、夕凪のようでした」

遠くでカナカナカナと、ヒグラシが鳴いた。

「朝岐さんは私のことを全て、ご存じなんですね」

朝岐は正直に頷くしかなかった。

「見吉さんから」

今更嘘を付くことはできない。

「露木江渡は    生きています」

環は言った。

「生きている」

「はい、生きています。生きていますが、目を覚ましません」

病院で聞いた琵琶の『点』が、初めて『線』になった。

「露木整形外科医院の、息子さんだったんですか」

環は頷いた。

「私は、露木江渡が川に飛び込んだ瞬間、鬼になりました。かッと眼を見開き、鯉のように口を開閉しながら浮き沈みする彼を見て、ただ眺めていた。目の前からいなくなる。死んでくれる。()まわしいものから解放される…としか思わなかった」

人が落ちたと叫ぶ声。けたたましいサイレンを鳴らし、駆け付ける消防車、パトカー、救急車。

なんだ、なんだと橋の欄干に大勢の人が取りつき、ことの成り行きを見守る。

こんな冬のさなか、助かるまいと思う人々。

どうか無事であってくれ、と願う人々。

環の姿は、たちまち人混みに紛れて行く。

十五歳の少年は、死んでくれと願った罪悪感、誰にも助けを求めなかった不作為を抱いて、今もあの橋の欄干に立っている。

「彼のご両親は、琵琶の演奏が良い刺激になると言って、訪問を歓迎してくれます。彼は、私の秘密を誰にも漏らさなかった。金銭の要求も、しなかった。琵琶は壊されましたが、命で償う程ではない。でも私は、彼が覚醒(かくせい)するのか、このまま死ぬのか、見定めたい。彼が私の前で目覚めたら、私は…」

一点を見据えたまま早口で語る環に、朝岐は、左の人差し指をくちびるに当てて、制した。

「右腕を切り落とされる夢は、罰を象徴しているのです。心を殺されかかったにも関わらず、師匠は彼の死を願ったご自分を罰している。もう、十分ではないですか」

環は息を殺し、朝岐を見つめていた。

自分の醜さを許せず、自分を罰する夢を見続けたとしても、夢を現実に侵食させて、命まで危うくする必要はない筈だ。夢は、夢のままで良い。朝岐は深く息を吸い、静かに吐いた。

「僕は行ってみたいと思います、江渡(きみと)君の、夢に」


9

朝岐は、車道の中央に立っていた。雨に濡れたアスファルトの道路は明度の乏しい街灯に照らされ、(わだち)(くぼ)みに水溜まりができていた。シャッターの降りた商店街が、左右に続く。

熊ネズミが街灯に長い影を作り、音もなく車道を横切る。無論、車は一台も通らない。

壊れた塩化ビニルの花飾りが等間隔に垂れさがり、看板のペンキは剥げ落ちて、何を売る店なのか分からない。

朝岐は好奇心を抑えられず、シャッターを無理やり押し上げた。

さび付いたシャッターが、キィキィ音を鳴らす。

頭を突っ込むと、暗がりに目が合う。

(おっ、熊のぬいぐるみか)

目が慣れると、積み上がったゲームやプラモデルの箱、戦隊人形が判別できた。

(おもちゃ屋)

朝岐は次々と、本屋、花屋、八百屋のシャッターを開けた。

店の中は皆打ち捨てられて、(ほこり)にまみれ、枯れ果て、果物は干からびていた。

これが、自殺を図って眠り続ける、江渡の阿頼耶識(あらやしき)なのだ。

朝岐は(きびす)を返し、おもちゃ屋から熊のぬいぐるみを抱いて、商店街の石畳に佇んだ。

この世に生まれた時、江渡(きみと)は祝福の証に、熊のぬいぐるみを贈られたのだろう。

彼は、恐る恐る新米の母親に抱かれ、頬ずりをされ、人々の笑顔が覗き込み、順風な船に乗り込んだ筈だ。

(まだ、十五歳だ)

朝岐は熊を抱えたまま、再び暗い商店街を歩きだした。

生ぬるい、湿った空気が肌にまとわりつく。

商店街という阿頼耶識(あらやしき)から、日常や趣味、将来を模索していた江渡の、漠としたもがきを感じる。

彼にとって親は、生活の糧を得る職業に就き、疑問も持たず、悠々と生きているように見える。大人は就業の関門を突破し、親になる資格を有して目の前に立ちはだかっているのだ。親と同等の力量を持たぬ彼には、さぞ高く厚い壁だろう。

幼少期も児童期も封印し、具体的な未来を描かなくてはならない年齢になった江渡は、医者という親の職業に(こうべ)を垂れ、立ち尽くしてしまった。

シッと閃光(せんこう)が走り、上空を見上げた。

(なんだ)

爆撃機(ばくげきき)が、腹の重い荷物を数発落として去って行く。

朝岐は一瞬で、爆風に飛ばされた。


夕闇迫る空にごうぉうぉうぉと唸り声をあげ、どどーんと爆発音が間断なく響く。

うっと、飛び起きる。

小さな男の子が、朝岐の鼻をつまんだのだ。

五歳くらいか。ブラウンのパーカーに黒のデニムパンツ、ブランド物のスニーカーを履いている。

「こっちだよ」

朝岐は男の子に導かれ、足を取られながらよろよろと歩いた。

粉々になった屋根瓦、モルタル、木片が地面に散らばり、焼けた土の匂いが漂う。

男の子は(つまず)きもせず、ひょいひょいと進んでいく。

「うわっ」

崩れた壁のがれきに頭を(つぶ)された人体が、仰向けに横たわっていた。

金色のボタンを付けた学生服を着て、頭以外に損傷はなかった。通りがかりに爆撃に遭い、崩れた外壁に押し潰されてしまったシチュエーション。

あろうことか男の子は、その人体の傍に座るよう、朝岐を促した。

周囲に隠れる場所は殆どない。見渡す限り黒く炭化し、焦げた家の柱が所々(ところどころ)、鋭く暗い空を指している。

油断すると、匂いでむせてしまいそうだ。

焼けた看板の「院」の文字が、かろうじて読めた。

西側の崩れかけた外壁だけを残して、家屋もろとも燃えてしまったのだろうが、寄りかかれる壁があるだけでも、今はありがたい。

朝岐は人体に距離を置き、座った。

地面はほのかに暖かい。

(これが江渡君の夢、末那識(まなしき)

「なんだいそれ」

男の子が尋ねた。

「熊のぬいぐるみだよ」

朝岐は、爆風に飛ばされても離さなかった自分に、少し呆れていた。

阿頼耶識(あらやしき)から、持って来てしまった)

「みればわかるよ。けど、ここじゃやくにたたないね」

男の子は、ぬいぐるみから目を離さない。

「あげるよ」

言うなりさっと、朝岐から熊のぬいぐるみを取り上げ、左腕に抱いた。

爆撃機は去ったが、炎が遠い東の空を赤く染めている。

「行ってしまったようだね」

「それよりおなかがすいた。おじさんはどう」

「僕は朝岐というんだよ」

「あさき」

「君は」

と、尋ねると、男の子はふぅんと言って首を傾げた。

「むう」

「むう?」

夢生、無有、夢雨、ムー…。朝岐は、いくつかの字を思い浮かべた。

繰り返し爆撃された焼け野原に、生命の痕跡はない。

朝岐は夢法(むほう)を使って、カップヌードルと、キャンプ用の小さなコンロ、マッチ、水の入ったポットを用意した。

「まほうみたいだね」

「魔法だよ」

湯を沸かしてカップヌードルに注ぐ。むうの顔は、ぱっと明るく輝いた。

「うまれて、はじめてだ」

恐ろしい筈の炎は今、空腹を満たす暖かな光だ。

「三分待つのだ」

腕時計を見ながら朝岐が言うと、むうは笑い声をあげた。

三分経つと、嬉しそうに麺をすする。

朝岐は、美味しそうに食べる、むうの咀嚼(そしゃく)音を聞いていた。

幼いが、きちんと箸を使う。

「おいしいかい」

「うん。いいね」

スープまで飲み干したむうは満足そうに腹部をさすり、崩れかけの壁に寄りかかった。

「ぼくには、おとうとといもうとがいるんだ。おとうさんはおとうとが、おかあさんはいもうとがすきなんだ」

朝岐は静かに頷いた。

「ぼくは、きりょうもあたまもよくないから、あたりまえなんだ」

むうは、悲し気に呟いた。

「器量が悪いなんてことは無いよ」

朝岐が言うと、むうは首を激しく振った。

「だってこんなにまっかで、かゆいんだ。くすりをつけても、おさまらない」

「器量とは関係ないよ」

「はくほど、きもちわるいかおだよ」

「それはアトピー性皮膚炎だ。お母さんは、君の皮膚炎を心配して、インスタント食品を食べさせなかったんだよ。塩分の多い食事は大敵だからね」

朝岐が言うと、むうは、えっと小さく呟いた。

「きっと君の食事は、ほかのきょうだいと違ったんじゃないかな。お母さんが食事で少しでも良くなるように、工夫してくれたと思うよ」

むうの目が泳ぐ。思い当たるようだった。

「しらなかった。いつもちがうものをたべていたから」

「うん。刺激物や添加物は皮膚炎に良くないからね。こんなものを出してしまって悪かったね」

朝岐はむうの頭を軽く撫でた。

他のきょうだいと、差別されていると思っていたのだろう。

むうは、ぬいぐるみを抱いてごろりと横になった。

誕生の祝いに貰ったぬいぐるみは、次に生まれて来た弟に回されたのだろうか。

弟妹がいれば、必ず生まれ落ちた位置で、逃れられない葛藤(かっとう)が始まる。

察するに、朝岐がもたれている壁は、彼の家だったのだろう。

むうは知らぬ間に朝岐にくっついて、静かな寝息を立てていた。顔が赤くなってかゆいと言っていたが、今のむうに皮膚炎はない。

「弟は」

コンロの火を眺めていると、外壁に頭を潰された人体がぶるると震動した。

「うん」

朝岐は、相槌(あいづち)を打った。

頭が潰れている人体から、声が響く。

朝岐は、この人体をボディと呼ぶことにした。

「俺の欲しいものを、全部持っているんだ」

「そうなんだ」

「性格は明るい、容姿も良い、頭も良い、運動神経も良い。妹はピアノを習っていて、家を継ぐ必要がないから、気楽に過ごせる」

完璧な弟と、自由な妹。

親兄妹の、価値観の違いで苦悶(くもん)する気持ちは、朝岐にも良く分かる。

「両親は、弟と妹がいれば、俺なんてどうだっていいんだ。祖父母の所へ行ったって、歓迎されているのは弟と妹だし、毎回残念な長男だって顔で見る。誰だって、利発な子ども、容姿の良い子どもが、可愛いんだ」

長男は手放しで愛される、と朝岐は思っていた。次男の自分は長男の保険に過ぎず、妹は両親の溺愛対象だ、と感じていた。彼は長男として生まれ、一、二年は両親や祖父母の愛を独占していたことだろう。初めから諦めている者と、後から失った者との落胆は比べるべくもない。伯母がいなければ、自分は救われなかった。幸運だと思う。

「学校はもっと嫌だった。成績は学年で真ん中より下のあたりをウロウロしていたし、クラスじゃ、面と向かって言われなくても、顔のことを馬鹿にされているのは分かっていた。触わったら(うつ)るんじゃないかってね」

朝岐はうん、うん、と相槌を続けながら聞いていた。

空の一部が稲妻のように光り、雲の輪郭が浮かび上がる。

「気持ちが悪いって言われるより、キモイって言われる方が傷つく。言ってる奴だって大したことないくせに、俺自身が本当に醜いから、反論できない。俺は中学になってからずっと、加納帆夏(かのうほのか)が好きだった。毎年クラス替えするのに、彼女とはいつもクラスが同じだった。凄く、雰囲気がいいんだ。幅を利かせて大騒ぎする女子達とは、違う。別格だ。だけど俺は、一度も話せたことがなかった」

年頃の少年達にとって、心に秘めた存在はファンタジーだ。

「なのに、彼女が気軽に、あいつに話しかけたんだ」

彼は、両腕を振って地面を叩き、悔しそうに言った。ボディは、起き上がることができないようだった。

あいつ、と聞いて朝岐は、環のことだと察した。

「加納帆夏があいつに近づいて、「黒沢君にこれあげる」と猫のシールを差し出した。怪訝(けげん)な顔で彼女を見上げるあいつに、「予定帳の大事な用事があるところに貼っておくといいんだよ」と説明する声が、はっきり聞こえた。

「そうなんだ。ありがとう」

あいつは彼女に礼を言うと、手提げ鞄にしまった。他の女子が「何?見せて見せて」と集まって、そこだけ花園みたいになる。中心にいるのがあいつなんだ。

「百円ショップで三枚セットだったよ。前に買った時と同じのが入っていたから、黒沢君にあげたんだ。理科の実験の時助けてくれたから、そのお礼」

と、帆夏(ほのか)は屈託なく言った。

「猫好き?黒沢君」

「うん、好きだよ」

教室の空いたスペースでふざける連中や、廊下で野球の真似をする連中は、加納帆夏があいつに話しかけた重大さに気づいていない。すらりとして誰にも寛容なんだ。彼女と口をきけるのは、やはり背の高い、頭脳明晰(めいせき)な男子だけ。俺はと言えば、加納帆夏をこっそり眺めて溜め息を()く、アトピー顔の醜男(ぶおとこ)。誰が好意を寄せてくれるだろう。俺は下校の時、あいつの鞄をひったくって、猫のシールを奪ってやった。あいつは、びっくりして俺を見つめたよ。あいつから放たれる虹色の光が俺の目を貫いて、頭の裏側まで激痛が走った。あいつが足を怪我してうちの病院に来た時、俺は幸運にもあいつの秘密を手に入れたんだ」

江渡の記憶が映像となって、朝岐の脳に雪崩れ込んだ。

リビングで(くつろ)ぐ男性。

仕事から解放され、ビールを口にする、露木整形外科医院長の快斗(かいと)だ。調度は英国風で、経済の豊かさが見て取れた。

彼は、妻が座るとつい、口を滑らせた。

「こんなことってあるんだね。今日来た患者が黒沢環って、あの事件の時の赤ん坊だったんだよ」

偶然二階からジュースを飲みに降りてきた江渡(きみと)は、黒沢環の名を聞いて足を止めた。

(黒沢…)

「事件って?」と、母親が尋ねる。

「自分の赤ん坊の睾丸を(えぐ)った、女性の事件だ」

江渡は声を上げそうになって、慌てて口を塞いだ。

ああ、と母親が(うめ)いた。幸い、聞かれているとは気づいていない。

「あれは悲惨だった。母親のやることか、と思ったよ。私達のできることは、縫合と止血だけ。男性の医者は皆、震え戦いたんだ。命に別状は無くても、将来を思うと胸が苦しくなったよ」

江渡は暗がりで、ふとナメクジが思い浮かんだ。見つかれば駆除され、気味悪がられる、どうでも良い生き物だ。

ぶっ、くっふふふっ…。

ボディは、おかしさをこらえ切れず、吹き出す。ボディと共有した朝岐の頭の中の映像は掻き消えた。

「俺は最低じゃない。俺より救いの無い奴がいる。俺はやっほぉと叫んださ」

ボディは手足をばたばたさせた。

「俺は長男で、医者の子だ。だから俺は医者にならなきゃいけないんだ。別に継がなくてもいいって?それはないだろう。親なんだから、期待するだろう普通。なのに、平気な顔をして言うんだ。俺が馬鹿だからか。優秀な弟がいるから、俺なんか無用ってことか。俺は、恵まれた環境に生まれた。なのに毎日居心地が悪いって、どういうことだよ」

彼の怒りに呼応して、爆発音が鳴り響く。

はるか上空を爆撃機が、闇に乗じて飛び交う。

焦土と化した大地を、ひたすら爆撃している。

ちらりと腕を見ると、朝岐の時計の針は二時を指したまま止まっていた。秒針だけがひたすら動き続け、また元の位置に戻る。彼の末那識(まなしき)は、永遠の午前二時なのだ。

(自殺を図ってからずっと、夜)

朝岐は、自らの思春期を思い返す。彼のように憤り、環境に不満を抱いていたことは確かだ。同じDNAを有する家族でありながら、感性がすれ違う違和感。自分と江渡の違いは、早くから伯母が助言してくれたことだ。伯母の家へ遊びに行く度、『自分』を育てるのは親じゃない、と言ってくれた。

「雨をしのげる家、空腹を満たす食事、医療や教育にお金を出してくれれば十分。本を読みなさい。自分の先生を作ればいい。大昔の人でも、外国人でも構わないんだから」

結婚していない伯母は、親、という生き物にならなかったゆえに、子どもの気持ちを汲み取ってくれた。彼女の存在があったおかげで、自分はやってこれたのだ。

幼い頃、朝岐は呼び捨てにされていた。気に入らなかった。幼いながら、屈辱を感じていたのだ。たまたま伯母が遊びにやって来て、呼び捨てにする皆を諭してくれた。朝岐は救われたのだ。

びりっと空気が揺れ、朝岐が目を上げると、黒い人型がよろよろと近づいて来る。

面と線だけで表現する、ピクトグラムにそっくりだ。

ピクトグラムは肩を落とし、両腕をぶら下げ、膝をくの字に曲げたまま足を引きずって朝岐の前まで辿(たど)り着くと、はぁはぁ息を吐いた。

全身真っ黒に焼けこげ、衣服の痕跡もない。頭部の皮膚はがさがさとめくれ、異臭を放つ。

至近距離で眺めると、不覚にも鳥肌が立った。

朝岐の足は、後ずさるように思わず地面を押していた。

足は空しく、焼け(ただ)れた地の表面を滑る。

「家族四人が寛いでいる場に俺が行くと、連中は急にお喋りを止める」

ピクトグラムが言った。

「わかるかい。家族が一斉に黙るんだぜ。部屋に入って行くと、弾かれるんだ」

これもまた江渡の心だ。ボディとピクトグラムの根源は同じなのだ。

朝岐は気づかれないように口呼吸に切り替え、ピクトグラムに座るよう手で促した。

むうはまだ、熊のぬいぐるみを抱いたまま眠り続けている。

「小さい頃からずっとだ。おんなじ親から生まれたのに、不公平だろう。小学校に入ってから、俺の顔は皮膚炎に冒された。気の狂うような(かゆ)みに俺は顔を掻きむしった。真っ赤に腫れ上がった顔を、弟や妹が怖がっていた。勿論(もちろん)親は治そうとしてくれた。皮膚科にかかった金額は相当なものだろう。皮膚は良くなったり悪くなったりした。特に、ベッドに入ると痒みはひどくなって眠れなくなる」

ピクトグラムは、黒く焼け焦げた枯れ枝のような指先で、顔の皮膚を引っ掻いた。

ぱらぱらと皮膚がはげ落ちる。

「あいつ、黒沢は、つるつるすべすべの顔で、成績はそこそこ良い。おまけに女子受けがいいなんて、目障りだ」

のっぺらぼうのピクトグラムは、憎々しげに言った。

「俺は隣県の図書館へ行ってあいつの事件を調べた。シングルマザーが子育てと仕事に追われ、精神を病んで赤ん坊を傷つけた、なんてぼやけた記事だったが、大人は不都合を隠す。俺は手始めに『犯罪者の子』と書いたメッセージを、机にぶち込んでやった。たったそれだけで、あいつは紙みたいに白くなってぶ、     ぶっ倒れたんだ」

ぶっ、ぷぷぷぷっ、ひゃひゃひゃひゃひゃ。

奇妙な声を上げて笑う。

「人が自分の思惑通りになると、愉快だった。仕掛けた(わな)に、小さな虫が右往左往してはまって行くように。

(黒沢。お前は男じゃない。ナメクジだ。生きてる意味がない)

頭の中で言葉にすると、奴が本当に「つまらぬもの」になった。以来俺は、机の中や下駄箱に、思いつく限りの罵詈雑言ばりぞうごんを書いて、放り込んだ。机に座る度、びくびくしている様子が痛快だった。だから、奴が一人になった時を狙って、犯人は俺なんだって、分からせてやったんだ。秘密を握っている俺を見た、奴の驚愕の顔ったら。楽しすぎるだろ。俺は奴が一人になると、ヘッドロックをして「犯罪者の子が人の振りして歩くな」「汚らわしい」「ナメクジ」「死ね」って耳元で囁いてやった。もがく小動物。偶然を装い、わざとぶつかり、よろめく奴の感触を楽しむ。あいつは誰にも言えない。先生にも保護者にも。理由を言わなくちゃならないからなっ!

「ぶつかったんだから、謝りなさいよ」

大人ぶった小姑(こじゅうと)女子が(とが)めて言うと、「は?見えなかった」とうそぶく。ははっと笑う男子がいると、味方を得た気分になった。きっと連中だって、奴のことが気に食わないんだ。どうだい。あいつは秘密を握られて、一生俺に怯えて暮らすんだ。最高だった。一晩中、踊り狂いたい気分だった」

ピクトグラムの方が、ボディより悪意がある。

朝岐はもはや相槌あいづちを打つこともなく、黙り続けていた。

「俺は、親が呆れるほど(ひど)い人間になってしまいたかった。これ以上ないくらい最低な人間に。親は、俺がそんな人間になりさがっていることを知らない。なんて間抜けだろう。俺のことに、気づきもしないんだ」

と、ボディが言った。

「ロッカーに置いてある黒沢の絵の具のチューブを、全部抜いた。筆箱の鉛筆を折って、消しゴムも粉々にしてやった」

と、ピクトグラム。

上履(うわば)きの中を、マジックで真っ黒に塗った」

「返された美術の絵は、細かく引き裂いてごみ箱に捨てた」

「偶然を装って、弁当をぶちまけてやった」

ピクトグラムとボディは、嫌がらせの数々を互いに言い合い、笑い合った。

朝岐の(こぶし)は、小刻みに震えていた。

「ある日俺は、どうしても確かめようと、決めたんだ」

と、ピクトグラムが強い口調で言った。

「一人行動をとる黒沢を捕まえるのは簡単だった。昼食後、必ず図書館へ行くんだ。その間にある、社会の教材室はいつも人がいない。俺はあいつにヘッドロックをかけて部屋に引きずり込んだ。激しく抵抗するあいつの股間(こかん)を初めてまさぐった時、手の中に感じるか弱いもがきが、俺の一物の先から快い痛みを伴って、脳天を貫いた。赤や青の閃光(せんこう)網膜(もうまく)の奥で弾け、学校のざわめきが掻き消えた。プールに放り出された浮遊感。こめかみが震え、暗い自室で妄想に耽って抜くのとは、次元が違う。

(危ない…。昼休み中で良かった)

我に返ってふらふらと立ち上がり、黒沢の残り香にぶるっと頭を振った。俺が迷走している間に奴はいなくなっていたんだ。

(なかった。本当になかった。黒沢は本物の腑抜(ふぬ)けだ!)

俺は笑いが止められなかった。後から後から、笑いが込み上げたんだ。再生不可能な不幸とは、こうも人間を魅了するとは思わなかった。気づけば、亡霊のように黒沢の姿を追う自分がいた。参考書を広げても、あの快感をどう再現できるか考えている。黒沢の感触と少年漫画で見る女の体が頭を占領し、想像が止められない。黒沢という名の媚薬だった。

(あいつのせいだ。みんなあのナメクジ野郎のせいだ。しかもあいつは決してこんな風にならないんだ)

毎夜訪れる欲情は、「健全な成長」で片づけられる代物ではなかった。下劣で悲愴、孤独で醜悪だった。何食わぬ顔で学校に来る見目良い男子も、同じ夜を経験しているのだろうか。勉強にまい進する彼等を別世界に感じながら、自分は夜な夜な気が散って、英単語の一つすら記憶できない。毎日毎日苛ついて、鬱憤(うっぷん)を晴らすことばかり考えていた。教室の一番前に座る環は、俺なんか見ない。暗い顔をして教室に入ってくると、さっと座って読書を始める。バリヤーを張り巡らせているんだ。俺はあいつの上履きにスズメの死骸を突っ込んでやった。たまたま死んでいたのを拾ったのさ。その朝から、黒沢は学校を休み続けた。中間試験も期末試験も受けず、夏休みに入り、休みが明けても戻らなかった。担任は黒沢について触れない。加納帆夏が一度担任に尋ねたが、

「君たちは受験生なんだから、人のことに関心を払っている場合ではない」

と素っ気ない。あいつはきっと、俺から逃げたんだ」

ピクトグラムの告白が事実か否かは問題ではない。江渡には紛れもない憎悪があり、環に「死んでくれ」と言わしめた。

「黒沢が学校へ来ないことを不審に思った女子の一人が、しつこく担任に聞いたんだ。担任は、あいつは既にプロの音楽家で、仕事に専念するために登校を止めた言うんだ。クラス中がカッコイイとか、いいなぁとか、凄いだとか、賞賛と羨望(せんぼう)の声でひとしきりざわついた。だから卒業式にも出ないって。生意気すぎだろ!」

ピクトグラムは、思い切り拳を振り上げ、地面を叩いた。

「俺は黒沢が、いつ、どこへ稽古に行っているか知っていた。あいつの家が華岡という料亭で、ちゃらちゃら着物を着た女の人が出入りしてるのも。俺たちみんなを置いて、あいつだけ大人になった。俺たちはもっと時間をかけて、もがいて、大人になる術を見つけなきゃならないっていうのに、あいつは俺たちの日常を、つまらないものに引き摺り下ろして、さっさと出て行ったんだ。裏切者」

ピクトグラムの全身から、炭の粉が舞い上がる。

子どもは大人になりたいのだ。大人は叱られない(と思っている)、大人は自由にお金を使える(と思っている)、大人は勉強しない(と思っている)、なのに、子どもは大人に反感を抱く。子どもは、自分が大人より正しい、と思っている。子ども時代が楽しい子どもは、世の中にどれだけいるだろう、と朝岐は思った。

ピクトグラムは続けた。

「俺は塾の帰りに、夏野川の千登勢橋(ちとせばし)で黒沢が通るのを待っていた。第一志望の高校は無理だと塾の講師に言われ、一つ下のランクに下げるよう忠告された日だ。

「医者ねぇ…。私立大は三千万以上かかるってよ。国語が致命的なんだなぁ。今から本読む時間ないよねぇ。国語は積み重ねだからさ。偏差値55でも、可能性がないわけじゃないけど、君、それ以下だよね。別の道がいいんじゃない?」

講師は容赦なかった。努力をすれば報われる?そんなものは虚妄(きょもう)だ。大人の詭弁(きべん)だ。分かっている。惨めで愚かなのは自分だ、最初から分かっている!弟の彩渡(あやと)は中学に上がると、見下すように口を聞かなくなった。俺の弟だってことが迷惑そうだった。女好きのする顔立ちで成績はトップクラス。バスケット部でレギュラーになって、背もぐんと伸びた。同年代の少年が欲しいと思うものをすべて持っている。妹のこるりはピアノの発表会にお姫様のようなドレスを買って貰い、大はしゃぎだ。将来音楽の大学に行きたいだのって、妹の寝言を笑顔で聞いている両親と弟。絵に描いたような幸せ家族だ。俺を除いて。

「おい!」

俺に待ち伏せされて、黒沢は固まった。俺は黒沢の細い首に腕を巻き付けた。この匂い、感触。久し振りで、アドレナリンが放出された。

「俺への当てつけか?みんな受験で必死にやっているのに、何がプロだよ」

黒沢の顔は一気に曇った。

「やっぱり犯罪者の子はやることが陰湿だな。誰にも内緒で、馬鹿にしている」

思わず、ぐいぐいと力が入った。

「ナメクジのくせに着物なんか着て気持ち悪い。げぇ者でもやってるのか、母親と同じに」

右へ左へ振り回し、溜まっていた鬱憤を吐き出した。

腕の中のひ弱な小動物は失神寸前だった。俺が乱暴に放すと、黒沢は激しく咳き込んだ。

俺は、黒沢の抱えていたケースをひったくり、中の楽器を道路に叩きつけ、踏みつけたんだ。

「男のなりそこない。死ねよ、生きてる価値なんかない!何が音楽だ、お前の正体は俺が知っているんだ、バレたらお前はおしまいなんだ」

俺はいつものように、黒沢が青ざめると思っていた。けどあいつは、地獄の裁判官みたいな声で、

「僕は、君のために生きてるんじゃない」

と言ったんだ。俺は初めて環を直視した。奴は躊躇(ためら)いもなく、俺を汚らわしいもののように見下していた。

黒沢の怒りに、俺はひるんだ。

「僕は学校へは行かない。「中学三年」は、僕の中ですでに抹消された記憶だ」

弱々しい虫けらと思っていた黒沢が、巨大に見えた。

「中学三年」は抹消された、俺を含む学校生活の日々を、なかったことにすると宣言していた。忘れていい、些末(さまつ)なことだと。俺は急に自分が、幼児になった気がした。

「今君が叩き潰した楽器は、とても高価だ。警察に被害届けを出す。君は立派な犯罪者だ。示談には応じない。君は高校には行けない。あれを」

黒沢は、橋に向けて設置されている防犯カメラを指差した。俺は、終わった、と思った。帰れない、帰る場所が無くなった。橋を渡り切った先に、交番の赤いランプが見えた。その途端、俺の頭の中から言葉がぜんぶ消えた。上下逆さまになって、冬の匂いと、車の音だけが雪崩れ込んだ。後は覚えちゃいない」

ピクトグラムが黙ると、朝岐は深いため息を吐いた。

「増水した冬の川に、ダイブしたんだ」

と、ボディが呟いた。

(完全に一致した)

朝岐は頷いた。

環と共有した夢と、江渡少年の夢。大綱(たいこう)はほぼ同じだ。彼は川に飛び込んだ。

死のう、とも、恐ろしい、とも考える知性を失って、身を投げたのだ。

環は、人の死を願った罪の意識に(さいな)まれ、夢の中で己を罰し、現実の生活に影響を及ぼしている。

(せい)の執着乏しい環の本質は、些細(ささい)自責(じせき)の念で死を手招いてしまう。

死神は喜んで彼を迎えに来るだろう。

環は喜んで、死神を受け入れるだろう。

江渡(きみと)君、これから君はどうするつもりだ。実は僕は、君の夢の中に勝手に入ってきた部外者だ」

朝岐はついに、口を挟んだ。禍々(まがまが)しい彼等の会話を辛抱強く聞いた。

江渡と名を呼ばれ、ピクトグラムとボディは同時に、えっと声を上げた。

「どうするって…」

ユニゾンで問う。

「君はずっと眠っている。去年の冬からずっとだ。分かっているのかい」

二体の痛い戸惑いが伝わった。

「お前だろう。俺は目覚めたいんだ。お前が俺を、引き留めているんだろう」

ピクトグラムが、ボディを責めた。

「何を言ってる。お前は関係ない。俺とは別々だ。俺は目覚めたくなんかない」

と、ボディが言い返す。

「俺を自由にしろ、俺を支配するな。俺はお前の影じゃない」

「ふざけるな。ふらふら歩きまわって、黒焦げ。目を覚ましてどうする。醜悪な顔で生きていけるのか。お前はどうせ、自殺未遂の死にぞこないと(さげす)まれるんだぞ」

「お前だって、頭が潰れてるじゃないか脳無し。俺は目覚めて奴等に、一生集(たか)って生きてやるんだ」

ピクトグラムの言う奴らとは、家族のことらしい。

「君が目覚めるか目覚めないか、僕は興味ないんだ。僕は、僕が生きて欲しい人のために、君の夢に侵入してきたんだから」

朝岐は冷ややかに言った。

眠れる少年を目覚めさせることができたら、人生最大の功績になるかもしれない、と思いはしたが、決めるのは彼自身だ。

ピクトグラムが朝岐を振り返ると、体中から黒い粉が四方へ飛び散る。

二機、三機、爆撃機が上空を抜けていく。

数キロ先で激しい爆音が鳴り、衝撃波が焦土を巻き上げて朝岐達を襲う。

自分に怒り、内部を焼き払い、彼は自ら地獄を作る。

「お前は大人の癖に、この状況をどうにかしようとは思わないのか。あいつはこのまま眠り続けるつもりだぞ」

ピクトグラムは噛みついた。ボディとピクトグラムは表裏一体(ひょうりいったい)だ。

「君自身が作り出した惨状だ。目覚めたらどうするか、目覚めないならどうするか、君は決めなければならない、いずれ」

「目覚めなかったら、どうなるんだ」

朝岐の声を(さえぎ)って、ボディは尋ねた。

「現実は新しい年になり、夏を迎えている。君のクラスメイトはみんな、それぞれの道に進んだよ。目覚めなかったら、君は時の流れに置いて行かれる」

朝岐は、静かに言った。

「俺は、死ぬ。俺は人を苦しめた。きっと俺はこういう人間だ。一生治らない。顔も性格も悪くて、いてもいなくても同じ。折角自殺を図ったのに、中途半端に生きているなんて、間抜けすぎる。親も弟妹も、いい加減死んで欲しいと思っているさ」

ボディは、吐き捨てるように言った。

「親も弟妹も、君に死んで欲しいと思っているのか」

朝岐は、彼の言葉を繰り返した。

「この野郎。奴が死んだら俺はどうなるんだ。人の夢に土足で上がり込んでおいて、あいつの馬鹿な考えを止めようともしないのか。大人はいつだって、自殺はダメだ、命は大切だとほざくじゃないか!」

ピクトグラムは、声を(あら)らげた。

命が大切。異論はない。

心理士として、親として、社会の一員として、命は大切、と言うべきだろう。

(本心はどうだ、朝岐月彦)

人には、抗いがたい素質があり、支配されている。人の忠言に耳を貸せる者は、貸せる耳を持って生まれたに過ぎない。優しさも、優しい性質を持って生まれたに過ぎない。失敗も成功も、素質が突き動かす。命の終止符も然りだ。子どもであろうと大人であろうと、免れない。

学生時代、心理士の尊敬する教授から、君はドライだなぁと評されたが、死生観は吐露せずに済んだ。今はどうか。

(師匠は、越えてはならない一線は越えなかった、と彼を擁護した。師匠は、他者の死など望んではいない。(むし)ろ自分の本質を、裁こうとしているんだ)

環の声には仏心があった。

(彼に心を痛めつけられながら、師匠は、彼のしたことは死に値することではないと言い切った)

「どうしたおっさん!生きていれば楽しいこともある、生きてるだけで価値があるって、言ってみろよ」

ピクトグラムは、ボディに何も言わない朝岐に噛みついた。

「楽しいことなんかあるわけないだろ!大人は嘘つきだ。楽しいことなんて一つもない。その証拠に、毎年三万人も自殺しているじゃないか!生きたくても生きられない人がいるだとか、親が悲しむだとか、ありきたりの言葉で説得できるなんて、思うなよ!」

ボディが叫ぶ。

「説得なんてしないよ。君は十分理性があり、判断力もある。君が死を選択しても、僕は責めも(さげす)みもしない。君は自由だ」

朝岐は(かたく)なに首を振った。

「使えねぇ大人だなっ」

ピクトグラムは朝岐に襲い掛かり、枯れ枝のような黒い指で(のど)を締め付けた。

視界が徐々に白んでくる。現実なら反撃もできるだろうが、朝岐の体は思うようには動かなかった。ピクトグラムの腕を必死に振りほどこうとするが、怒りに任せた若い力に太刀打(たちう)ちできない。

(ここで死ぬのか。他者の夢の中で…)

不吉な考えが頭を(よぎ)る。

でるろろぉぉん… でるろろぉぉん… でりどりりぃぃん…。

琵琶の音が、遠く地の果てから響き渡った。無限の平地に思えた闇は、ドームの様に反響する。

江渡の夢違えに用いたアイテムは、環が日頃彼の枕元で聴かせる琵琶のオリジナル曲だ。環が朝岐のスマートフォンに入れてくれたのだ。朝岐は曲を流しながら、夢に入定したのである。環に救われた気がした。

「あああぁぁ、うるさい!うるさいってんだよぉぉぉ」

ピクトグラムは耳を(ふさ)ぎ、大声で(わめ)き散らした。

左右にのたうち、焼けこげた皮膚は胞子のように飛散していく。

朝岐は激しく咳き込み、呆然とピクトグラムを見つめた。

でるろろぉぉん… でるろろぉぉん…。琵琶は一層強く、激しくかき鳴らされる。

空が割れるように、爆撃機が朝岐達の頭上に出現した。

(でかい)

危険が及べば、肉体が有無を言わさず『黄泉がえり』を起こす筈だ。

何も、起きない。

(まずい。まだ、夢の続きだ)

血が、肉が、地球の中心に向かって刺々(とげとげ)しく吸引され、霊魂は肉体を脱ごうともがく。

(これが死なのか。気の全てが一斉にひとところに集まって、肉体を捨てようとするのか)

朝岐は、夢違いで初めて、嗚咽(おえつ)した。

無性に『誰か』に会いたかった。

右腕を空に向けて差し上げる。

(銀河、長夜、咲子さん)

機体の腹が、ぎりぎりと開く。

焼夷弾(しょういだん)が一気に落ちた。

「あさき!」

むうが飛び起きて、朝岐の上へ覆い(かぶ)さった。

「むうっ」

朝岐は、高速で回転する、真っ白な螺旋(らせん)に吸い込まれていた。

降り注ぐ琵琶の音。時に(はじ)き、時に面を打ち、音の濁流(だくりゅう)へ朝岐を運んで行く。

(師匠…)

朝岐は、旋律に織り込まれた救いの帯に、身を(ゆだ)ねた。

(むう)

熊のぬいぐるみを抱えたまま、朝岐の胸で気を失っている。重さは感じられない。

「むう、起きろ」

声をかけると、かれはうっすら目を開け、あたりを見回した。

「あさき。ぼくらはどうなったの」

「どうやら、別の夢空間に逃れたらしい」

琵琶は、夜の海を歌っていた。

「かなしいおとだ」

と、むうはつぶやいた。

「ああ。悲しい音だ。けれど、力強い」

「うん」

むうは、熊のぬいぐるみにそっと頬ずりした。

「君は、江渡君の良心なんだよ」

「りょうしん?」

朝岐は頷いた。

「君は、僕を助けてくれようとした。ありがとう」

礼を言うと、むうは少しはにかんだ。

「行こう、このまま」

朝岐は、白い螺旋の流れに乗って、むうの手をしっかり握った。

(何もかも、捨ててしまえ、むう)

螺旋の終点に、扉が見えた。

朝岐は身構えると、思い切り肩で突破した。

ぱーんと破れた衝撃と共に二人は、夜の上空に放り出された。

飛行の風が、頬に痛い。

人の帰りを待つ、(おだ)やかな家々の明り。買い物客を迎える、店の明り。働く人々の灯す輝きが、眼下に広がっていた。

「むう。行け、君の家へ」

朝岐は叫び、むうの手を放した。

むうは頷いたように思う。

風に乗って、むうの姿が木の葉のように、夜街の中へ舞い落ちて行く。

(言語の習得。感情の統制。君は十分、成長しているよ。他者のことなど気にせず、まっすぐ帰るんだ)

むうのぬくもりが、朝岐の手に残った。

久しぶりに見る、空中遊泳の夢。誰の夢でもない阿摩羅識(あまらしき)で、朝岐は呟いた。

「江渡君。僕にも少し分かる。悲惨な事件のせいであっても、性の煩悩(ぼんのう)から解放された、静寂のオーラ漂う師匠の前で、己の汚さ愚かさが増幅されてしまう気持ちが。

自分にはこれがある、と胸を張れる矜持(きょうじ)が無ければ、とても眩しすぎて見つめ返すことさえできない。

君が師匠に勝てるものは、哀れにも腕力しかなかった。師匠を傷つけながら、君は君自身を罵倒し、ままならぬ自己評価に(いきどおっていた。親も弟妹もクラスメイトも、皆自分を嘲笑い、見下されていると思い込んで、君の心に、雨あられと焼夷弾を落とした。

君が自尊心のために死を選べば、人っ子一人いない腐臭に満ちた焼け野原で、降り注ぐ焼夷弾の恐怖に戦き、帰るべき肉体を失った現実に後悔するだろう。破損された肉体が腐敗のガスに膨れ、群がる(うじ)のザクザクと肉を食らう音を聞き、漸く骨になったところで再び同じ場面に戻る。嘆き(わめ)こうとも、救われる日は永遠に来ない。

他者を傷つけたまま死を選べば、君は君の見ている夢の中で死に続ける。何度も、何度も。

自分の名を忘れ、言葉を忘れ、のたうつ。

一度目覚めて師匠に謝罪し、琵琶を弁償してから再度、死を考えても良くないか、と僕は思う」


10

腕時計を見ると、止まっていた時刻が動き出している。

(三時半…夜明けまで充分時間がある)

朝岐は、眼下の街並みへ急降下した。

(師匠!)

覚えている。体が、意識が、環の阿頼耶識(あらやしき)の道を。

朝岐はたちまち桜吹雪に飲み込まれた。

地に足が着く。導く(ほお)の小舟は現れない。

朝岐は確信して、ざわつく桜の並木を走った。

今こそ、土蜘蛛と対峙(たいじ)しなければならない。

両手で花弁の仕打ちを抑えながら巨木の(うろ)を抜け、環の末那識(まなしき)(夢)に突入する。

静寂(せいじゃく)の闇が包み、眩暈(めまい)で態勢を崩した朝岐は、慎重に(かが)んで床のありかを確かめた。

すべすべとした板の感触に座り込み、耳を澄ませる。

自身の衣擦(きぬず)れさえたちまち吸収する漆黒(しっこく)

ぐずぐずしてはいられない。

「来い、膝丸(ひざまる)

刀の名を唱えると、朝岐の手にずっしり刀の重みがかかった。土蜘蛛退治に使用されたという、名刀「膝丸」だ。

(能の解説読んどいて、良かった)

血の流れを頭部へ送り込み、刀を握りしめる。

高校の体育は、柔道か剣道かを選ばねばならず、不本意ながら剣道を選択した。三年間素振りと面、小手、胴を、形ばかり教わっただけである。一年の時、筋が良いから剣道部に来いと誘われたが、断った。今更だ。

「土蜘蛛!」

朝岐は叫んだ。

大音声(だいおんじょう)に闇は震え、千に重なる漆黒の、薄絹(うすぎぬ)(とばり)が一挙に落ちる。

ぼんぼりの下に眠る環と、枕元に座してじっと覗き込む、土蜘蛛の姿が(あら)わになった。

土蜘蛛は、真っ赤な口から糸を吐き出し、環の細やかに残る、生への執着を吸い取ろうとしている。

朝岐は刀を抜き、黒光りする板張りの床を滑るように進むと、問答無用に切りつけた。

ざくっ。

手ごたえはあった。

土蜘蛛はふらつきながら立ち上がり、闇に消えた。

「待て」

ぼんぼりを手繰(たぐ)り寄せ、闇をかざす。

床に血の跡が点々と落ちている。

(逃がすかっ)

血の跡を追って襖を開けると、木道(もくどう)朝靄(あさもや)の中に続いていた。尾瀬の湿地に張り巡らされた、カラマツ材の木道に似ている。環の記憶か。

ぽつん、またぽつんと、彼岸花が白い靄を貫いて顔を出す。

(どこだ、奴はどこだ)

彼岸花は次第に増えて一面に咲き乱れ、朝岐の眼底を刺す。

一つが突然「らぁらぁらぁ」と歌い出した刹那(せつな)、朝岐は花の首を()ねていた。

シュッ。

茎からほとばしる血が、朝靄の上に赤い放物線を描く。

「これは、靄じゃない」

蜘蛛の糸が綿のように重なり合い、靄の顔をして彼岸花の群生(ぐんせい)に絡みついている。環の末那識(まなしき)が見せる、現世とあの世を繋ぐ花道。

朝岐は、蜘蛛の糸と赤い彼岸花が織りなす只中に、立っていた。

ゾクッ、ゾクッ、糸の波が動く。

(いる。土蜘蛛はこのどこかに)

傷を負って潜り込み、こちらの動向を(うかが)っているのか。

刀を握る手に、一層の力を()める。

「どこだ」

朝岐は(つぶや)いた。

土蜘蛛は花の群生に潜み、縦横無尽に張った糸の震動で、朝岐の動向を捉えようと意識を研ぎ澄ませた。一撃を受けた背中から、どくどくと血が噴き出る。

その一滴が、落ちた。

彼岸花がびくりと震え、小さなうねりが遥かに伝わっていく。

朝岐が振り返る。

群生がばくりと口を開け、土蜘蛛が宙へ跳ね上がった。

上空に浮かぶ土蜘蛛は、(しかみ)(おもて)穿(うが)たれた、小さな穴から青い光を放ち、朝岐めがけて弾丸を投げつけた。

間髪入れず切り落とす。

球体は(はじ)け、無数の小さな蜘蛛が飛沫(しぶき)の様に飛び散り、彼等の放つ糸が朝岐の視界を遮る。

土蜘蛛の繰り出す弾丸は、斬らずに避けても地に落ち、破裂した。

弾き出された無数の蜘蛛は、休むことなく糸を吐き出し、四方を蔽い尽くす。

(巨大な蜘蛛の巣か)

木道は消え、足元は綿のような蜘蛛の糸に置き換わっていた。

土蜘蛛は地上へ降りると、抜刀(ばっとう)した。

朝岐は刀を構える。

剣先を互いに向け、(にら)みあう。

距離にして五メートル。

いざっ。

N極とS極が引き合うように、二人は剣を交えた。

ぎんっと(はばき)のぶつかり合う音が、糸の壁に吸い込まれる。足元は心もとなく、巨大なトランポリンに居るようだ。体の均衡(きんこう)を保つのは容易ではない。

「お前は偽善者だ。口では死を否定しながら、お前自身は誰よりも死を欲している」

土蜘蛛はくぐもった声で言った。

「確かに僕は、長夜を失ってから腑抜け同然だった。職業柄、相談者には安易に死の選択をしないよう導いていたが、自分は彼女のいないこの世を激しく憂いていた」

朝岐は、土蜘蛛の切っ先から目を離さず答えた。

男女、夫婦、世間から見ればありきたりでも、朝岐にとって長夜は妻である前に、かけがえのない親友だった。


古い民家を改造した、昭和時代を彷彿(ほうふつ)とさせるカフェは、朝岐のお気に入りだった。店の壁は、()いたコーヒー豆の匂いが滲み込んでいた。流れる音楽はジャズ、クラッシック、静かなポップ。マスターの選ぶモーツァルトは演奏者にこだわり抜いており、特に今日は、店に足を踏み入れた時からモーツァルトのピアノ協奏曲第十一番が流れていた。このアルバムの最後が何番か分かっている。額に汗が(にじ)んだ。

「私の名前って、とっても変よね。明けることのない夜とか、夜通しという意味があるんですって」

「それで君の芸名は(あかつき)なの」

「そう。私、生まれてきて欲しくなかったのかと思った」

朝岐は首を振った。

背後に流れる十一番のとりわけ美しい旋律に、長夜は眉根を寄せ、目を閉じた。

自分もそうだ。モーツァルトは、命の芯に刺さる切ない旋律を散りばめているから、会話の途中ですら目を閉じて、音を拾いに行ってしまう。

「私の母の相手は、ご隠居さんだった。六歳の私を(ひざ)に乗せて、お父ちゃんがこんなお爺ちゃんでごめんな、最後の恋だったんだよって、話してくれた日のことを今でも覚えているの。がさがさとした大きな手、しわがれた声、真っ白な髪。この人は、残る命の全てをかけて母を愛してくれたんだって、子ども心に思ったの。私は母の働く花街で、三味線も踊りも当たり前に習って育った。母のような出会いのある場所に、興味があったんだと思う」

旋律が過ぎると彼女は目を開けて言い、ほうれん草とベーコンのキッシュを口に入れた。

「私が七歳の時、父は七十八歳で亡くなった。父の書斎に並んでいた仏教の蔵書で、初めて長夜の意味を知ったの。ショックだった。永遠に続く果てしない煩悩(ぼんのう)の闇って、酷い名前じゃない?って」

朝岐はすぐに反応できなかった。彼女の呆れた顔に、見惚(みと)れていたからだ。

「煩悩なんて、人間が人間である限り無くなりはしないよ。きっとお父さんは、煩悩の先に見える灯明(とうみょう)になって欲しいと、願ったんじゃないかな」

口が勝手に動く。彼女の名前が悪い意味だなんて、同意できない。

「そう言って貰えると、嬉しい」

長夜は朝岐の光だった。思い切って折原睡尾(おりはらすいび)との夢の研究を語ると、彼女は素晴らしい才能だと言ってくれた。変人扱い怖さに、誰にも話さなかったことだ。

「私には五歳年下の弟がいたの。喧嘩もしたけれど、夜は仕事、昼間就寝の母に代わって、私が世話を焼いていたから可愛くて可愛くて、いつも彼が私の中心だった。母のいない不安な夜も、彼が埋めてくれた。その弟が、風邪をこじらせてあっけなく死んでしまったの。わずか三歳だった。私の心臓は(こお)ったわ。時間も凍った。突然一人ぼっちの、暗い夜になった。あの子の好きだったおもちゃがこそりと鳴ると、すぐに飛び起きて、帰ってきたんじゃないかって探し回った。私は中学生になっても、弟に会いたくて仕方なかった。母との意見の対立、学校での立ち位置、進路のことにもがいて、毎日が出口の見えないトンネルみたいだったから。四六時中、彼の居るところへ私も行きたいと願っていたのよ」

長夜は、遠い目をして言った。

「十四歳の時、弟の夢を見たの。とうとう会えたと思って、抱きしめて泣いた。弟は死んだ時のままだった。私の物を自分の物だと言い張ったり、食べたいお菓子じゃないって駄々をこねたり、少しでも(いさ)めると、足をばたつかせて泣きわめいていた。三歳なんだから当たり前よね。私、弟は明るく優しい所にいて、会えたらきっと(なぐさ)められるって思っていたのよ」

彼女が少し笑う。

「好きな人が、素晴らしい所にいて欲しいと思うのは自然なことさ」

朝岐はいつの間にか、彼女の手を握っていた。

「私、弟のわがままにすっかり苛々(いらいら)させられて気づいたの。幼いままじゃ駄目なんだ。幼児は天使でも純粋でもない、自己中心の(かたまり)なんだ。生きて、大人にならなくちゃって」

長夜の声が(つや)やかに響いた。

「目が覚めると、死んだ弟はちゃんと私の中の歴史になっていた。会いたいと思うことは二度となかったわ」

「十四歳で気付けるなんて、君は(すご)いよ」

朝岐が呟く。

「成長するって、(けが)れることじゃないもの」

―生きて知らねばならぬことがある―

二人同時に、D・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』の一節が口をついて出た。

ふふふ、はははっと笑い合う。

「新潮文庫?伊藤整(いとうせい)伊藤礼翻訳(ほんやく)の」

朝岐が尋ねると、彼女はうんうんと頷いた。

彼女の顔が眩しくて、目頭が熱くなる。

「長い夜に月が現れたね」

「あら、そうね。月彦さんだものね」

理解してくれる唯一無二の人。

店内のBGMが、朝岐の愛するピアノ協奏曲第十三番を奏で始めた時、今しかない、と決意した。

「結婚しよう」

朝岐はプロポーズした。二十歳だった。

結婚してから、密かに好きだった音楽アーティストが偶然一致していることを知り、舞い上がった。二人でアルバムの鑑賞やコンサートを楽しんだ。音楽だけでなく、作家、映画、漫画に至るまで、好みのピースが次々と(はま)った。

朝岐は奇跡を見ていたのだ。

好きだった作家の本をインターネットで見つけると、これどう思う?読んだ方がいいかな、などと口をついて出た。応答のない(ばく)とした部屋に、彼女がいないことを新しく知る。

同意して欲しい。

意見して欲しい。

アイディアを与えて欲しい、彼女の声で。

朝岐は長夜を失ってから、かつて愛していた本を、音楽を、半分以上捨てた。

あんな人はいない。二度と出会えない。この国を(くま)なく歩いたとしても。

朝岐はしゃくりあげながら部屋の中を巡回し、死にそうにない自分を呪った。

彼女がこの世を去った時点に、後ろ髪を打ち付けたままだ。

(人は、失ったものの空けた穴に次々と喪失感を放り込み、膨張した穴に自ら飲みこまれてしまうのだろう)

街で見かける微笑ましい恋人達、仲睦(なかむつ)まじい夫婦、若者達の楽し気な声は、(しゃ)のかかった向こう側だった。

彼女の忘れ形見がいなかったら、朝岐は物も食わずにやつれ果て、この世を去っていた。


最愛の友は、命さえ左右する。

「大人にならなくちゃ、と言った彼女が逝き、僕は孤独地獄を彷徨(さまよ)っていた。師匠の琵琶を聴くまでは」

朝岐は、ぐらりと震える土蜘蛛の肩を見逃さなかった。

刀の切っ先が(わず)かにぶれる。

「師匠の琵琶は、地下に流れる無明(むみょう)(えぐ)り出す。ほら、聞こえないか、『壇ノ浦』が」

朝岐の、二つ目の夢法が発動した。

寸時(すんじ)(おびただ)しい死が生まれる戦場。環は、水底に沈む無名の哀れな魂を黒檀(こくたん)(ばち)()き上げ、輪転させる。肉体が数珠の一つとなって、円を描きながら天上へ(いざな)う。

死の境界と現実は相容れない。環の琵琶は世の無常を、無上の音で語るのだ。

(なぐさ)めない、(いた)わる言葉もない、淡々と死に様を弾じる。

修復の途上にある朝岐の心に環の音が降り積もって、死を先延ばしする所以(ゆえん)が芽生えた。新しい習い事、新しい音楽、新しい人との出会いが、まだ生きていようか?と(ささや)く。

糸の波は、琵琶の音色に合わせて激しくうねった。

哀切な旋律の(うち)に、人の生死を冷静に見定める非情な(ばち)さばきが、環の心情を赤裸々に映す。

土蜘蛛は『壇ノ浦』に、黒い(かずら)を揺らした。

「ええいっ止めろ、(やかま)しい」

と叫ぶ。

環の『罪』から具現化した土蜘蛛は、罪を断罪する(まご)うことなき『義』の刃を、朝岐に向けた。

土蜘蛛は正眼(せいがん)に、朝岐は八双(はっそう)に構え、間合いをはかる。

半径七メートルの領域に踏み込むと、土蜘蛛は宙を飛び、頭上から刃を振り下ろした。

(速い)

正義を(まと)う土蜘蛛には、侵入者を排除し、道を踏み外した者を罰する大義名分がある。

土蜘蛛の放つ真っ向の一撃は重く、刀を持つ手が衝撃で(しび)れる。刀と刀のぶつかる音が、朝岐の体に切り裂くような激痛を与える。土蜘蛛は容赦なく、ぐいぐいと押してくる。膝丸の刃は既にこぼれていた。

土蜘蛛が袈裟懸けに刀を振った。

眼前にざっ、と赤い紗が飛び散る。左肩から右脇腹にかけて斬り裂かれた。ほとばしった液体が、額から頬へ流れ落ちる。

朝岐はよろめき、土蜘蛛が間髪入れず斬り上げる。咄嗟に受けた(つば)の、鈍い音が響いた。

左前腕(ぜんわん)から、血が(ほとばし)る。防戦一方だ。

(剣道の試合をしているんじゃない。これは生きるか死ぬかの真剣勝負なんだ)

軽く跳躍して重力と共に襲い掛かる土蜘蛛を必死で受け止めると、面の下の荒々しい息づかいが聞こえた。最初に与えた朝岐のダメージが効いてきたらしい。

「しんど、そう、だな」

朝岐が言う。

「お前、もな。背後を襲う、卑怯者め」

土蜘蛛が返す。

「お前は師匠の弱みに付け込んで寄生し、内部から崩壊させようと目論む魔物だ。正攻法など必要ない」

朝岐は下から祓うように斬りつけられながら、同時に鳩尾に一撃をくらった。刀を握る手が、己の流す血でぬるぬるする。

膝丸は限界だった。

身体をくの字に折って、後退った。息ができない。

「母親の犯した罪を、体に刻んで生きねばならぬ不遇が、平然と他者の死を願う腐敗を育てた。誰よりも清廉に生きねばならぬ筈が、本性を現した。母親が犯した最も重い罪は、赤ん坊の内に殺さなかったことだ。許してはならぬ。生きてはならぬ。死こそが唯一の浄化方法だ」

土蜘蛛は鋭く冷たい眼光を放った。

「罪、本性、そんなものどうだっていい。僕が稽古に行く、いつものように師匠がいる。会いたいと思えば会える平凡な日常を、この僕が、失いたくないんだ。師匠を死なせようとするお前に、僕の日常を奪われてたまるか」

朝岐は土蜘蛛に体当たりし、態勢を崩した隙を衝いて刀を、水平に振り払った。

土蜘蛛は糸を吐き、するりと上空へ逃れる。

(僕は土蜘蛛の獲物か。粘る横糸に足を取られてもがく、虫と同じだ)

視界は大方白く潰れ、見えなくなってきている。

脳は、氷点下の滝が氷柱を作り、かろうじて細い流れを保っているかのようだ。

勝機を探す。

(そうだ)

土蜘蛛が攻撃すると、足元が固くなるのを感じる。今はやわやわと波打って、心許ない。

(ならば)

朝岐は、朦朧とする意識を鼓舞し、思い切り跳ね上がった。

(思った通り、良い弾力だ)

朝岐の重みで綿状の塊は、想像以上に沈み込む。反発力は大きく、朝岐は弾みを利用し、更に高く()ねる。

血が吹き出ようが、ふらつこうが頓着ない。

(重くなれ、もっともっと重くなれ。僕は巨石だ)

朝岐は唱えた。

跳躍の度、上下動は深く朝岐の重みを受け止め、ついにあっと声を出す間もなく蜘蛛の巣を破って、彼岸花の群生へ仰向けに落下した。

『壇ノ浦』は消え失せ、ちぃぃぃぃという音が耳に響いた。

静寂(しじま)の音だ。

子どもの頃、留守番を頼まれて一人ぼっちになった途端、聞こえてきた不快な音。家族と反りが合わずとも、人の集団に依存していると思い知らされた、屈辱の音だった。

折角姿を隠せても、これでは気配がだだ洩れだ。

(戦場では、それに耐えかねて飛び出す兵が、死ぬんだ)

慌ててはならない、と己を励ます。

眼前に刀を握り、仰向けに倒れたまま膝を立て、巣の破れ目を凝視した。

彼岸花はこそとも動かず、垂れた一筋の糸さえ揺るがなかった。

土蜘蛛は、天井に張り巡らせた巣の中で、意識を保とうと、頭を振った。朝岐に斬られた背中から、生気が失われていく。環の義である以上、義に反した環を死へ導かねばならない。ここで消滅するわけにはいかないのだ。

土蜘蛛は耳をそばだて、朝岐の消えた地上へ眼光を照射した。

人工で作られた林には、生命の息づかいが聞こえない。微生物の、落ち葉を分解する小さな音さえしないと言う。無音は空気を壁にする。後四五分、否二分も続けば、発狂しそうな重苦しさだ。

仰向けのまま身を潜めた朝岐は、多量の出血が背に流れて行くのを、まざまざと感じた。意識が遠のく。

(だめだ。しっかりしろ。僕は、土蜘蛛の鬼神と対峙した物語の武者ではない。僕の意識がここで粉砕したら、どうなる)

疑心が湧く。

朝岐は素早く否定した。

(これは師匠の夢だ。師匠が僕を殺す筈がない)

深く息を吸い、鼻からゆっくり息を吐いた。早鐘の鼓動が平時にかえっていく。

沈黙が重くのしかかる。巣の破れ目から見える空が、紫に染まった。

ずしっ。

(来るっ)

朝岐は、(つか)を握る指に力を籠めた。

土蜘蛛は、朝岐の落下した裂け目へ、轟音と共に襲って来た。

朝岐は迷うことなく(めん)を打った。

パンっと、(しかみ)(おもて)に入る。

面は二つに割れ、ぱらりと落ちた。


11

「お父さん、お父さん!咲子おばちゃん、お父さんが目を覚まさない」

いつまでも起きて来ない朝岐を、不審に思った銀河は蔵を開け、異常な気配を察知した。

どんなに激しく揺すっても、朝岐は目覚めなかった。

銀河の大声に駆けつけた咲子は、朝岐の鼻に手をかざした。

「きゅ、救急車。救急車!」

咲子は震える声で(きびす)を返した。

「どうしよう、咲子おばちゃん」

銀河は腰が抜け、蔵の中にへたり込んだ。

間もなく朝岐邸に救急車が到着し、近所中が騒然となった。

駆け付けた安藤さんが、へたり込む銀河を抱きかかえて蔵から連れ出してくれた。

「大丈夫、お父さんは大丈夫」

安藤さんは銀河の頭を撫でた。「待ってよう、ここでおじちゃんと、な」


『人間の半分は、魚だった時を覚えてる。どうやら自分も覚えている組らしい』という設定で、朝岐は冬の海を、悠然と潜っていた。

水深二十メートル程か。

(寒くないし、こんなに泳げる)

朝岐は、爽快な気分でくるりと回る。

イルカの群が、沖を目指してやって来た。彼等は仲間のように朝岐の両脇へ回り込み、一緒に沖へ行こうと誘ってくれる。

(がんばりまーす)

と、朝岐は手を大きく振って、イルカの後を追った。

海は、分厚いガラスのように見えたが、イルカたちは美しい曲線を描いて跳びながら、容易く波を越えていく。

若いイルカが、朝岐の背をつついた。

遊ぼうと誘う。

(うん、遊ぼう)

朝岐は若いイルカの背びれに捕まり、時速三十キロの愉快なスピードを楽しんだ。わざと体を左右に揺らし、朝岐を振り落とそうとふざける。他の若いイルカも合流だ。追い抜き追い越し、泳ぎの巧みさを競う。

(僕の足も、一役買ってる)

笑が込み上げた。

イルカ達は遊びながら、タコやイカを見つけて丸飲みする。

(さすがにあれはできないな)

朝岐は背びれに捕まりながら、イルカ達の食事に目を細めた。食べたいと思えないのは、自分がまだ人間で、もっとうまい食べ方を知っているからか。焼きイカ、天ぷら、リング揚げ、八宝菜。

(おい、おい、おい)

皆で作る、楽しい食事風景が頭を過った。

イルカがぐいんと頭を下げた。他のイルカは追随しない。

(沈んで行く)

水深何メートルなのか、朝岐には分からなかった。イルカが再び首をもたげると、海面へ向けてぐんぐん急上昇した。時速五十キロは出ている筈だ。

海が割れる。

イルカは五メートルの、とびきり美しいジャンプを決めた。朝岐の体は、黎明の空へ放り出された。

(飛んでる。楽しい)

朝岐は、睡蓮の花の中へどすんっ、と落ちた。


「死んじゃうかと思った」

銀河が半泣きで言った。

「救急車を呼んだんですよ」

咲子さんも涙ぐむ。

「救命士さんに、ただ寝ているだけだから、そのうち起きるって言われても、気が気じゃありませんでした」

心配してくれる銀河と咲子さんが、しみじみ有難い。

「いやぁ、ごめんごめん」

朝岐はまる二日眠り続けた。覗き込む二人の目を見ると、夢の中でイルカと遊んで最高に楽しかった、などとは口が裂けても言えなかった。

ぐっすり眠ったおかげで、疲労はすっかり取れていたが、さすがに初めの一歩はふらついた。体重も五キロ落ちていた。

朝岐は、土蜘蛛との闘いとイルカの夢を書き記すと、咲子さんの用意してくれた朝食を平らげた。

目覚めてから一週間して、朝岐は黒沢邸を訪ねた。出迎えた環の(まと)うオーラに、一筋のオレンジが見える。

(十分じゃないか)

と思う。

いつものように稽古をする。いつものようにお茶を頂く。互いに夢のことは一切触れず、『チベットの死者の書』を環に進呈し、夜露の首輪は大切に保管した。

江渡の夢も、環の夢も、朝岐一人の中に(たた)まれる。

環が潜在意識で死を願っていたとしても、発動が遥かに先送りされるなら、それでいい。

朝岐は暫く夢違えを控えようと決め、大学・専門学校の夏期講習、研究会に勤しんだ。

八月のお盆は毎年銀河と、熱海に眠る伯母と長夜の墓参りへ行き、花火大会を楽しむ。

「あ~あ、花火を見ると夏休みも半分だ」

花火の合間に、屋台で買ったじゃがバタを食べながら、銀河が嘆いた。

「お父さんは、ツクツクボウシが鳴くと、焦ってたなぁ」

「それ、ぼくもわかる。読書感想文まだやってないや」

「銀ちゃん、去年も言ってたね」

「来年も言うよ」

「そっか」

朝岐は笑った。

人は去る。自分も銀河もいなくなる日が来る。宇宙の歴史を思えば、一瞬の花火と同じだ。

屋台の「光る金魚」をゲットしようと躍起(やっき)になる銀河に、朝岐も参戦して二匹手に入れた。早勢(はやぜ)子規(しき)のお土産だ。家で待つ咲子さんには「黒きんつば」を買って、家路に着く。

人の一生が一瞬の花火でも、今は確かに生きて、感じている。

来年もまた、と朝岐は空を見上げた。

お盆が過ぎると、世間は気の抜けたように日常へ戻った。

環が高等学校卒業の認定試験に合格したことを知ったのは、九月に入ってからだ。

「おめでとうございます」

朝岐が言うと、環が照れたように少し笑った。

「お茶ですよ」

深園(みその)が呼ぶ。

「認定試験のことでしょ。秋は文化祭で忙しいから、夏の間に決めたかったのよね。凄いよね。宮来(みやこ)おばさんも大喜びして、お寿司でお祝いだったの。ふふふっ」

深園は我がことのように喜んでいる。

環の中に明瞭(めいりょう)な目標がある証拠だ。高校卒業を認定されれば、音楽大学への進学も視野に入る。環は既にプロだが、新しい音楽の境地を開く、絶好の学びになるだろう。

暇を告げると、深園が玄関まで追いかけて来て、「環ちゃんの徘徊(はいかい)が止まったの。人に戻ったって感じ」と朝岐に囁いた。

深園が笑い、朝岐も微笑んだ。

木犀もくせいが町中に香り、銀河の運動会が終り、秋の彼岸も無事に過ぎる。

十月半ばの正午、朝岐は焼き鳥をぶら下げた見吉を自宅に迎え入れた。環の夢違えを依頼したのは見吉だ。結果を聞く権利はあったが、彼は一度も教えてくれとは言わなかった。

「先生の家は本当に落ち着く。実家に戻って来たようだ」

と言って、庭を眺めた。

安藤さんが、趣味でやっている菊の懸崖(けんがい)を持ち込んで、秋の庭を(いろど)る。(じつ)は作りすぎて、置き場所に困っただけなのだが。

銀河と咲子さん合作のキャットタワーでは、てっぺんで早勢(はやせ)がのんびり眠っていた。すっかり家猫の体で、咲子さんが定期健診にも連れて行く。昨日銀河に洗われた子規(しき)も同様に、置きっぱなしの段ボール箱の中から、見吉をじっと見つめていた。

「先生、環の様子が少し明るくなりました。ぐっすり眠れているようです。本当に有難うございました」

と、見吉が言った。

「お役に立てて、幸いです」

朝岐が返すと、見吉はふうっとため息を()いた。

「ひょんなことでね、先生。八千代のことを耳に(はさ)んだんです」

「八千代さんのことを」

朝岐は、見吉の為に()っていた生わさびの手を止めた。

咲子さんが吟味(ぎんみ)して買ってくる、(まぐろ)の刺身は絶品だ。小売店で買うらしい。店の解凍術が余程長()けているのか、口に入れれば止まらなくなる美味さだ。大手のスーパーに押され、技術を持った店が(すた)れていくのは寂しいが、息子が後を継ぐと聞いて安心した、と咲子さんは喜んでいた。

重い話になりそうだと察した朝岐は、まずは腹ごしらえをしましょうと言って、刺身を勧めた。

見吉が一切れ口にすると止まらなくなり、二人はしばし刺身を堪能(たんのう)した。

子規がやって来て、鼻をくんくんとテーブルを見回したが、ちょっかいは出さないと分かっている。

見吉が鮪を、小指の先程の大きさにちぎって、鼻さきに持っていくと、子規はぺろりと口に入れた。ぺちょぺちょと微かな音がする。

大の男二人が目を細め、子規の様子を見ていると、いつの間にか早勢が子規の後ろで順番を待っていた。

今度は朝岐が鮪をやると。食べ終わった二匹は、テーブルの下に丸まった。

「先生、八千代のことですが」

鮪に満足した見吉は(はし)を置いた。

「はい」

「僕は先日まで、小田原で仕事をしていたんです」

朝岐はまだ、見吉の仕事をよく知らなかった。貰った名刺は、社名と彼の名前が記載されていただけだ。心理士の性なのか、本人が言わない限り尋ねなかった。

秋山啓子(けいこ)さん秋山聡(さとし)さんという姉弟の、コーヒーショップ兼心療内科のプロデュースをお引き受けしましてね、弟さんがコーヒーショップ、お姉さんが内科担当というので、コンセプトを踏まえた店にしようと回を重ねて会っているうち、お姉さんの口から偶然、八千代の名を耳にしたんです」

朝岐はほう、と膝を乗り出した。コーヒーショップと心療内科。面白い組み合わせだ。

「間違いないのですか」

「ええ。黒沢八千代で間違いありません。彼女の写真を見せたら、面影がはっきり残っていると断言しました。八千代は五歳位の頃、親族の家に、一時期預けられていたらしい。近所に住んでいた六歳年上の秋山女史は、やちよちゃんと呼んで、よく遊んであげていたそうです」

写真で見た八千代が、さっと蘇った。深淵に根付く、狂気の導火線。あの強烈な印象は、遡っても薄まるものではない。

「おっと」

子規が突然見吉の膝に飛び乗り、丸くなった。

見吉は微笑みを称え、子規の背中を撫で始めた。秋山女史の話を聞いた衝撃がまた、波のように打ち付けた。


リフォームの作業中に一息つこうと、バリスタの秋山聡が声を掛けた。

特にコーヒーに詳しいわけでも、こだわりもない見吉は、香ばしい匂いに全身が休憩モードに入っていくのを感じた。

秋山女史は、始終穏やかな笑みを浮かべており、弟の指示する様子を眺めている。

「見吉さんどうぞ」

聡が見吉の前にコーヒーを置く。

出て来たコーヒーカップを見て、店のベースをブラウンにして良かったと思う。焼き締めたカップの落ち着いた色見が、店のインテリアに溶け込んでいる。

「ああ、良いですね。コーヒーの味が引き立つようだ」

コーヒー豆を言い当てることはできないが、一口飲むと、香りが鼻に抜け、喉元を滑らかな液体が心地よく落ちて行った。

職人たちは気になるのか、休みながらも目が作業中の仕事に泳いでいる。中断より続けたいのだ。早々にコーヒーを流し込むと、甘いお菓子を少しつまんで立ち上がり、作業を開始する。

「私達邪魔ね」

秋山女史と見吉はカップを片手に、入店してすぐ右手の、医院へ続く階段を上った。

元からあった建物なので、木材だが土足で上がる。秋山女史は階段を気にしていたが、踏み(づら)の幅も蹴上(けあげ)の高さもバリアフリーは十分だった。見吉は、踊り場から途切れた手すりを、追加しただけである。

アンティークな扉を押すと、受付のカウンター前に、サロン風の応接セットが現れる。

見吉と秋山女史は、そこへ各々座った。

下のコーヒーショップと違い、明るい光に満ちている。

「秋山さんは、ご実家も病院なんですか」

見吉が尋ねると、彼女は首を振った。

「いいえ。医者は私だけです。両親はとても驚いていましたが、特に何も言われませんでした」

「また、どうして医者に」

見吉はつい尋ねた。

「そうですね」

秋山女史は天井に視線を移し、再び見吉に戻した。

贖罪しょくざい、でしょうか」

「贖罪?」

「子どもの頃、近所にくろさわやちよちゃんと言う子がいたんです」

「くろさわやちよ」

見吉は驚いて聞き返し、恐る恐る黒沢八千代の写真を見せた。

「あ、そうです。大人になっているけれど、間違いありません。やちよちゃんだわ。五歳の子なのに人生の悲しみを既に知っているような、ちょっと暗い雰囲気で垢ぬけた、綺麗な子でした」

秋山女史は言い切って、写真を暫く眺めた。

「見吉さんとご関係があるんですか」

「ええ、少し」

「じゃあ、お話するのはやめておきます」

「いえ、彼女はこの世にはいない、是非お聞かせください」

「え。亡くなった?」

彼女は驚くと同時に、ほっとしているようにも見えた。

「やちよちゃんは、近所の家に一時期預けられていた子でした。奥さんの方の親族らしくて。いつもやちよちゃんが一人ぼっちで俯いて外にいるから、学校の帰りに声をかけて、遊んであげていました。おやつを出したら、物も言わずにもくもくと食べるんです。余程おなかが空いてるんじゃないかって、母が余計に出してあげたくらい。そこのお家、ちょっと問題のあるお家だったんです。一人目の奥さんは、真夜中に裸足で追い出されて離婚。二人目の奥さんは心を病んで離婚。三番目の奥さんだったんです。旦那さんがよく大声で怒鳴っていて、母もご近所の人も怖がっていました」

秋山女史の話を聞いただけで、見吉は八千代が哀れに思えた。

「寒い冬の日に、私は嗚咽(おえつ)しているやちよちゃんを見つけて、どうしたのって声をかけました。やちよちゃんは私を見ると、真っ青な顔でぶるぶる震えだしたんです。寒いの?おなかが空いてるの?なんて、私は呑気に言って隣へ座ろうとしたら、やちよちゃんのスカートの奥からくるぶしにかけて、血が流れていたんです。どうしたのよ、怪我をしたの?って尋ねても、やちよちゃんはただしゃくりあげて泣くだけ。慌てて母を呼んで、家に入れてあげたんだけれど、母は急いでやちよちゃんを別の部屋に連れて行ってしまったんです。母はやちよちゃんを手当てした後、恐ろしい顔で、誰にも喋るな、と言いました。私は子ども心にも、触れてはならないと(さと)って口をつぐみました。今なら、やちよちゃんが性的暴行を受けたと断言できます。その日は家で寝かせてあげて、翌朝奥さんが迎えに来ました。やちよちゃんが母から離れようとしないので、母が奥さんに耳打ちしたら、奥さん青ざめて、やちよちゃんを抱きしめたんです。母が暴力のことを言ったんだと思います」

見吉は息を飲んだ。今まで一方的な想像しかしていなかった彼女の、知られざる過去だ。

「犯罪ですが、近所で地区のことを色々やってる人だったせいで、母も奥さんも何も言えなかったんだと思います。こういうのって、二重に被害を受けるし、子どもの嘘だと言い逃れできるし、立証は難しいんです」

秋山女史は、唇を噛んだ。

「私はずっと、やちよちゃんがどうしているか気にしながら過ごしていました。一週間位経った頃、親戚が経営する養豚場から「子豚を見に来ないか」という連絡を貰ったんです。私はやちよちゃんを誘い、二人だけでバスに乗って出かけました。少しでも気が晴れるといいなって、思ったんです。バスの中でやちよちゃんが歌を歌うと、乗客の大人たちが上手だねって、とても喜んでくれました。「からかさの骨はばらばら 紙や破れても 離れ離れまいぞえ 千鳥掛け」とか…普通の子どもが歌うような歌じゃなかった。やちよちゃんがにこにこしたので、私も嬉しかった。救われたような気がしたんです。養豚場へ着いて豚小屋に行くと、ツンと消毒の匂いが立ち込めていました。グレーの作業着に黒い長靴を履いた叔父が「ちょうどいいところに来たね」と笑いながらいきなり、金切り声で抵抗する子豚の後ろ足を掴んで、引き上げました。子豚が怖がっていることは明白でした。固唾(かたず)を飲んで見ていると、叔父は剃刀(かみそり)で、子豚のお尻の左右を縦に切って刃先を差し込み、中から丸い玉を(えぐ)り出しました。玉は、既に何個も入ってる鍋に放り込まれ、「醤油で煮て食べるんだよ」と言われました。雄豚特有の行動や臭みを無くすために、豚の睾丸を取り出すんですって」

彼女は話しながら眉をしかめ、両手で口を(おお)った。

「私は茫然(ぼうぜん)と立ち(すく)んでしまいました。驚きと緊張で汗びっしょり。やちよちゃんを見ると、じっと叔父の作業を見ていました、無表情で。私は今でもあの光景が目に焼き付いています。酷い目に遭わされたやちよちゃんに、見せるべきではなかったと今でも後悔し続けています。数日後、やちよちゃんはいなくなっていました。お母さんが迎えに来たのかもしれません。幸せになっていてくれればと祈っていましたが、そうですか、亡くなっていたんですね」

秋山女史は俯いた。


見吉は、秋山女史から聞いた話を朝岐に語った。

「僕はぞっとしました。勿論秋山女史には、八千代が何をしたか話ませんでしたが」

と見吉は言い、しばしの沈黙が流れた。

朝岐は拳を握った。

小さな女の子(十三歳未満)に、性的な暴力を奮う男たちは、小児性愛障害ペドフィリアと呼ばれている。己を加害者と思っておらず、犯罪者として逮捕されるのはほぼ、氷山の一角だ。彼等は少なくとも週に二~三回の犯行を、人知れず十年以上は続けるのだ。運良く逮捕できても、出所したらまたやろうと思っている、深刻な性癖である。

傷ついた幼い八千代に、追い打ちをかけた豚の去勢。

「先生、就学前に見た強烈な出来事が、八千代の猟奇的な行為の、源だったのではないでしょうか」

見吉は(しぼ)り出すように言った。

朝岐は大学の講義で聞いた、アメリカの殺人犯の例を思い出した。特異な殺し方だったため、解明を試みた事例だ。生れたばかりの頃まで記憶を(さかのぼ)って漸く、乳児期、両親が毎日のように、ホラー映画に興じていたことが明らかになった。ホラー映画と実際の殺人行為は結びつかないが、特異な殺害の仕方が明確に犯人の記憶に残っていた。講義を聞きながら朝岐は、乳幼児の記憶を(あなど)ってはならない、と肝に銘じたのだ。

「彼女は今でも、子豚の鳴き声とあの光景が忘れられない、と言っていました。そうでしょうね、なんて、相槌を打ったけれど、正直背筋が寒くなった。きっと僕は、真っ青になっていたでしょう。不運なタイミングとしか言いようがありません」

養豚場の人は、できるだけ良い価格で買ってもらうために必要な、いつもの作業を行ったに過ぎない。

朝岐は、見吉とは別の身震いに襲われた。

残酷な仕打ちを受けたばかりの八千代の目に、どう映ったか。

復讐(ふくしゅう)の代用。

(彼女が、哀れに鳴き叫ぶオスの子豚達の睾丸が抉り出される場面を、男から受けた恐怖、怒り、屈辱、悲しみを晴らす代用、として深く脳に刻んだとしたら)

朝岐の手が、急激に冷たくなった。

(十数年後、成沢竹男(なるさわたけお)の一言で狂気の導火線に火が点き、爆発した)

タンブラーの氷が、溶けてからりと鳴った。

びくっと顔を上げた朝岐の目が、見吉の目とぶつかる。

八千代との奇異な因縁に思いを()せ、ひたひたと自分達二人の、人生の後ろをやって来る、環の足音が聞こえた。


夏が跡形(あとかた)もなく消え、木々が眠りにつこうとしている。

朝岐は信号で止まると、車窓を眺めた。

冬になろうか秋でいようか、迷う空気が鼻孔をくすぐる。

昔のことなど普段は思い出しもしないが、空気に混じる草木の匂いで、切り取られた情景がふっと浮かぶ。

どれも、他愛(たわい)もない出来事ばかりだ。小学生の頃、授業中に指名されても答えられず、皆に笑われる茶色い目をしたアイ君がいた。彼はいつも長いまつ毛の奥に寂しげな光を宿し、教室の片隅に生きていた。

朝岐の通った学校では毎年二月の末に、凧揚げ大会を開催する。俄然I君は、皆に凧作りを指導して回った。クラスを仕切る、硬派な少年達すら教えを乞い、尊敬を一身に受けていた。窓を背に、凧作りの不得手な女の子達の間を(めぐ)る、彼の姿が生き生きと輝いてた。

(自分のことじゃないのに)

誇らしく思ったものだ。

朝岐は、I君がどうしているか、他のクラスメイトがどうしているか、思いを巡らせた。それぞれの人間性は、今に生かされているか。安定した生活を送っているか。親しく話したこともない彼等を観察していたお陰で、妙に親近感を覚えるのだ。

中でも折原睡尾は、ことあるごとに思い出す。彼が居なければ、今の自分はない。

皆息災であることを祈りながら、朝岐はアクセルを踏んだ。

黒沢邸に続く道に入ると、稲の刈り取られた田園が広がる。枯れたカヤの中から、スズメの群が一斉に飛び立った。

朝岐と環は、頂き物のお裾分け、音楽CDや本の貸し借り、を名目に、稽古以外でも顔を出す仲になった。

今日は、新見(にいみ)南吉(なんきち)の詩集「墓碑銘(ぼひめい)」を(たずさ)えている。

英宝社から昭和三十七年初版、昭和四十八年増刷され、鈴木幸生(さちお)氏が装幀(そうてい)した版画の表紙絵は、力強くも(うつ)とした海芋(かいう)が描かれていた。伯母から継承したものだが、朝岐お勧めの一冊である。

車を降り、周囲の草木を眺めながら黒沢邸の玄関に近づいて、足を止めた。

黒い電動アシストの自転車が、玄関脇で日差しを浴びている。

少年達の声が、小春風(こはるかぜ)に乗って漏れて来た。

「ずるいな。俺は包丁で()いてるのに、そっちは自動皮剥(かわむ)き器かよ」

「僕は指を怪我するわけにはいかないからね」

前掛けをした環が縁側に座り、奥の少年に言った。

朝岐は、玄関横の垣根からそっと庭を覗く。

「手を休めずに」

と環は言って少し(あご)をあげ、少年を見ながら得意そうに自動皮剥き器を回す。

「ちぇっ。何個あるんだよ」

少年は、フランスパンのような細長い足で胡坐(あぐら)をかき、柿の皮を不器用に剥いている。

「五十個」

「うへぇ」

少年はてらいもなく声を上げた。

明らかに環が主導権を握っている。

江渡(きみと)君かっ)

むうの面影が残っていた。

(目覚めたんだ)

自転車の主は彼に違いない。口をわずかに(とが)らせ、単純な皮むき作業に熱中する横顔に、皮膚病の跡はなかった。

朝岐は急いで空を見上げた。旅客機の白い機体が音もなく横切っていく。

夢の中で夜の上空を彼と飛び、君の家へ行け、と言った自分の声が残っている。

朝岐はそろりと後退(あとずさ)った。

必死で口を(おさ)える。抜き足差し足で車に乗り込み、ドアを閉めると声を出して笑った。

環のツンとした黒猫のような態度。

不平を並べながら、ボルゾイ犬のように従っている江渡。

笑わずにはいられなかった。

(本はまた次回にしよう)

二人の作業を中断させるのは忍びない。朝岐はエンジンをかけると、のろのろと黒沢邸を後にした。

口の中に、食べてもいない干し柿の味が広がった。いつか稽古の後のお茶うけに、食べることができるだろう。



参考文献


ズバリ的中 夢占い事典 単行本 – 1994/3 武藤 安隆 (著)

夢分析 新宮一成著 岩波新書

夢は神様さまからの最高のシグナル 坂内慶子著 コスモ21

夢分析入門 鑪幹八郎 創元社

夢判断 外林大作 カッパブックス

夢事典 美堂春彦 講談社



カバー装幀・挿絵 梅田貴冬


最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

文中に出てくる夢と、心理学における夢分析とは一切関係ございません。

すべては作者の心の赴くまま、思考のまま描かせて頂きました。


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