〇 第弐話『“一刀一斬”と”柔剣”』 -3
「もう一つは、呂燈から習った剣術の禁止じゃ」
「呂燈の剣術?」
「ああ。呂燈がおぬしに教えた剣術、“一刀一斬”は忘れろ」
頑羽は、こちらのほうが仔繰は嫌がると思っていた。仔繰の剣術は洗練された一つの極致に至っており、それを捨てることは、簡単ではないだろうと。そう考えていた。
だが、その予想に反して、仔繰はきょとんとした顔で、曖昧に頷いた。
「うーん。わかった」
「あの剣術は、普通ではない。一刀に全力をかける、自分のすべてを、その命すら乗せて人を斬る。あんなものは、儂に言わせれば剣術でなどではない。わかるか仔繰。そのような外道奇術を、儂の弟子となるもの、刀の道を極めようとする者が使うべきではないのじゃ」
頑羽は厳しい声で念を押すが、仔繰はよくわからないといった様子で、首をひねる。
「そういわれても、俺は別に、呂燈に直接教わったわけなじゃいし……」
その仔繰の言葉に、頑羽は自分の耳を疑った。
「なんじゃと? どういうことじゃ」
「だって、呂燈は俺に、何かを教えたりしなかったよ。俺は呂燈が無言で振っている刀を見て、それを真似て、同じように刀を振ってみただけだ」
なんの衒いもなく、平然とそう言って見せる仔繰に、頑羽は言葉を失った。
昨日の斬り合いで、仔繰が見せた剣術は、呂燈が振るっていたそれに限りなく近い、完成した“一刀一斬”であった。
「おぬしはあれを、見ただけで模倣しただけだというのか……」
ただでさえ、仔繰は齢十いくつで修めえる剣技の域を、遥かに超えた技量を持っているのだ。それを、直接の教えを受けず、ただ見ただけで身に着けたと言うのであれば、それはもはや天賦の才などと軽々に呼んでいいものではない。
頑羽は目の前に立っている小僧が、突然恐ろしい化け物に見えて、無意識に一歩後ずさった。
ただ、当の仔繰は、頑羽の驚愕を理解できずに、一層首を傾げた。
「ああ、そうだよ。……でも、あいつは俺を拾ってから、毎日毎日、日が昇ってから暮れるまで、ずっと刀を振り続けていたんだ。それを十年も見させられていたら、覚えないほうが難しいだろ」
さも当たり前のように、仔繰は言う。そんなわけがないと、頑羽は叫び声をあげたくなった。人から直接学ぶことなく、動きを見続けるだけで剣術を身に着けるようなことが当然であれば、頑羽の営む剣術道場など、とうの昔に潰れてしまっている。
「……仙才鬼才の持ち主とは思うていたが、その実、真に鬼の子であったか」
頑羽はひとつ大きなため息をつくと、わずかに震える手で髭を撫でた。
そうして心を落ち着けなければ、とても師の威厳を保てたものではなかった。いまにも冷や汗で木刀を取り落としてしまいそうで、頑羽は仔繰に気づかれないように強く握りなおした。
「……ならばこう言い換えよう。おぬしには、自分から先に斬りかかることを禁ずる」
もっともらしく言う師の動揺に気が付かない仔繰は、またもや首を傾げる。だんだんと、押し問答をしている気分になってきて、もういっそ、木刀で斬りかかってやろうかという気分になってきた。
「意味がわからないな。こっちから斬りかからなくて、どうやって相手を斬るっていうんだ」
「そこが儂の剣術の肝というやつじゃ。儂の剣術は“柔剣”という。相対する者より一つあとに刀を振るう。それが儂の剣術じゃ」
「後の先ってやつか? でもよ、後から動いて先に斬るなんて、そんなことができるほど相手と実力差があるなら、そんなもん後でも先でも、どうやっても切り殺せるってもんじゃねーか」
仔繰は苛立たし気に木刀をもう一度振った。それを見た頑羽は、続けようとした言葉を止めて、一つ咳払いをすると、木刀を真っすぐ、体の中央に構えた。
「見取りだけで“一刀一斬”を振るうような者には、百の言葉を尽くすより、一つの実演を見せたほうが早いか」
頑羽は一度深呼吸をすると、睨みつけるような鋭い目で、仔繰を見つめた。
「こい。仔繰。儂の“柔剣”を見せてやる」
「おいおい。今、先に斬りかかるなって言ったばかりじゃないか」
少し笑いながらそう言いって、仔繰は木刀を両手で握りなおした。そのまま後方に大きくそらして、構えたのは“一刀一斬”である。守りを捨て、ただ一刀の振りに全霊を注ぐ。それこそ、仔繰が呂燈から学び取った剣術の、唯一絶対の技であった。
「よいか、この一太刀が、おぬしの最後の“一刀一斬”じゃ」
「この技が師匠に破られたなら、そうするよ」
仔繰は大きく息を吸い込んだ。長い木刀の、その先端にまで意識を通わせる。頑羽の構えに対して、鋭く切り込む道を頭の中に描き出す。
昨日よりも、二人の距離は遥かに近く、地面は綺麗な板張りの床で、仔繰の踏み込みを邪魔するものはない。
「はっ!」
仔繰の呼気が頑羽に届く、その時には既に仔繰の体は頑羽の間合いの内にあり、その木刀は恐ろしい速度で頑羽の肉体へと迫っていた。
だが、刀神にとってはその神速の木刃も蝸牛のごとく遅い。頑羽は最小限の動きで、自らの木刀を仔繰の木刀の進む先へと置いた。
二つの木刀がとてつもない勢いで衝突する。地が揺れたかと思うほどの大きく鈍い音が、朝の道場に響き渡る。
仔繰は、頑羽が自らの刃を防ぐことは予期していた。鉄の刀ですら軽々と躱した頑羽が、こんなに遅い木刀をとらえられないはずがない。
ならばと、仔繰はさらなる斬撃を打ち込むつもりであった。一度防がれても二撃目を、それが防がれてももう一度。そうして数多の斬撃を打ち込み続ければ、いずれは一本、自らの刃が通る時があるかもしれない。あるいは通らなくても、年齢ゆえの体力で勝る自分が、いずれは相手の動きを上回るはずだ。仔繰はそう考えていた。
そう考えながら、第一打を打ち交わしたはずだった。
「…………は?」
それは一瞬の出来事であった。間抜けな声をあげる仔繰の体は、まるで昨日の再現のように宙を舞っていた。木刀は知らぬ間に手から離れ、頑羽の足元へと落ちていく。
「これが儂の剣術。その名も“柔剣”じゃ」