〇 第陸話『刀の道』 -1
「いまごろ羅夸様はご立腹であろうな、嶽飛よ」
南区道場の大広間。一月の間仔繰と修行したその場で、頑羽は嶽飛と向かい合っていた。その右手には既に刀が握られている。
「……羅夸様に嫌われるのは、少し残念ではありますよ。あのお姫様とは、多少ながら馬の合うところがあった。私を見出してくれた恩もある」
対する嶽飛は刀を腰の鞘に差したまま、抜く素振りも見せない。奇妙なほど落ち着いていて、その様子からは、ここに何をしに来たのかも測り切れない。
「なぜ、おぬしはこのようなことをするのだ、嶽飛よ。珀台殿を斬ったのも、呂燈を斬ったのも、おぬしなのか」
「……ええ。その通りです」
頑羽の追及には、素直に頷いた。
「ご存じかもしれませんが、私は、北方の田舎で生まれ育ちました。偶然にも祖父が多少剣を使えたために、それを習いました。そして、まあ。紆余曲折あって、羅夸様や頑羽様に見初められて、今の地位にいます」
「……それがどうした。おぬしの人生など。興味はない」
張り詰めた剣気を放つ頑羽の冷たい言葉に、嶽飛は乾いた笑い声をこぼした。
「ははは。そうでしょうな。しかし、私はあなたの人生にこそ、興味があった。いいえ、あなただけではない。数多の剣豪、剣聖。四十年前の戦乱の時に生きた。つわもの達にこそ」
嶽飛はまるで演説するかのように両腕を掲げた。頑羽が数歩踏み込んで刀を振るえば、瞬く間にその身体は寸断されるであろう。だが、頑羽は動かない。刀を構えたまま、まるで木像のようにそこに静止している。
それは、あるいは頑羽の最後の意地のようなものかもしれない。頑羽は嶽飛が刀を抜くまで、自ら斬りかかろうとは思っていなかった。
「私もまた、羅夸様と同じように、それに魅せられました。過去の文献や軍記を読み漁りましたよ。頑羽殿、珀台殿、馬芹殿、死神と呼ばれた男。……そしてそれに没頭すればするほど、同時に悲しくもなったのです。私が求め、恋焦がれたものは、はるか過去の出来事。そして私に与えられたものは、平和になったこの時代で、生死の絡まない、まがい物の剣術を道楽として金持ちのガキに売るだけの、くだらない剣術道場」
嶽飛の言葉は熱を帯び、その手がゆっくりと腰に下げた刀の柄に伸びて行った。
「わかりますか。頑羽殿。私は生まれる時代を間違えたのですよ。私はあなたがたのように、殺し合いの中にこそある、本物の刀の道を歩みたかった!」
嶽飛は叫び声をあげながら刀を抜いた。
瞬間、頑羽は飛び出した。一呼吸の間すらなく嶽飛との間合いを詰める。その勢いのまま、流れるような動きで、握りしめた刀を横一線に振るった。
あまりにも極まった動き。並みの剣士ならば、いや、どれほどの達人であろうとも、刀を抜いた直後にそれに対応することはできないだろう。
「はあ! やはりあなたは素晴らしい!」
だが、嶽飛はその刃を止めた。引き抜いた直後の刀でもって、頑羽の渾身の一撃を受け止めて見せたのだ。そしてなお、演説のような言葉を続ける。
「あなたが生涯を掛けて編み出した剣術。柔剣。それを幾人もの剣術家たちが批評しているのを読みましたよ。曰く、無敵の剣術だとね」
頑羽は嶽飛のその言葉を遮るように、再度鋭く薙ぎ払った。しかし、嶽飛はまたも涼しい顔でそれを受け止める。頑羽はすぐに刀を引き、一度距離をとった。
「しかし、実際にあなたと共に戦場にあった者たちだけが書き残している。“刀神”頑羽の真に恐ろしい技は、無敵の剣術にこちらが攻めあぐねているときに斬り込んでくる、攻めの刃であると」
頑羽は何も言葉を返さずに、斬撃を重ねた。袈裟、逆袈裟、正眼、突きからの切っ先をずらしての足斬り。圧倒的な手数でもって、相対する嶽飛を斬ろうとする。だが、嶽飛はそれらすべてを受けきった。
「……くっ。“心眼”の嶽飛とは、よく言ったものよっ……!」
再度身を引いた頑羽は、ゆっくりと呼吸を整える。
嶽飛の強さはひとえにその眼力の良さである。視野は正面を向きながら真横を視界に入れるほど。そして動きを捉える力は、宙を自在に飛ぶ蠅を瞬間的に指でつまむことのできるほどだ。
それこそが、無敗無傷の武術大会優勝を成し遂げた、嶽飛の持つ、他に並ぶ者のいないであろう能力である。
嶽飛は攻め手を止めた頑羽に対して、不用意に攻め込むことはしなかった。頑羽の刀を全て受け止めたことに満足するように一つ頷くと、なおも言葉を続ける。




