〇 第伍話『奥義』 -5
「……おまえから見て、俺はどうだ? おまえは今日の試合相手のことも十分知っているんだろ?」
羅夸はこの一ヶ月の間、暇を見つけては頑羽の道場へと足を運び、師弟の稽古を眺めていた。つまり、仔繰の柔剣がどこまで上達しているかを知っているはずだ。そして、今日試合する嶽飛に関しても、その男の武術大会での活躍を見た羅夸が、直接武術道場の師範へと指名したという話である。
自分と嶽飛、両者の剣技を見ている羅夸ならば、それらを比較することができるはずだと仔繰は考え、問いかけた。
だが、羅夸の答えはその期待に沿うものではなかった。
「まず先に断っておくが、妾は、剣術は好きだがその才はからっきりだ。すなわち、おまえの実力や、嶽飛の実力を測る物差しを、そもそも持っておらん」
あっけからんと言う羅夸に、仔繰は肩を落とした。自信を付けてほしかったとまでは言うつもりはないが、少しでも御前試合に向けての手応え、あるいは指標を得ようとしたのだが。
羅夸はそんな仔繰の気持ちなどお構いなしに、言葉を続ける。
「とはいえ、全くおぬしに言えることがないわけではない。昔、頑羽は嶽飛の実力を目にしたときに言っていた。自分とて、敵うかどうかわからぬほどの才能だと」
自分はそれを聞いたとき胸がときめいたのだと、輝くような笑みを浮かべる羅夸に対して、仔繰はことさらに気持ちを沈み込ませた。それが本当なら、頑羽の剣技の、不完全な真似事しかできない仔繰には、敵うはずがないではないか。
再びガクリと肩を落とす仔繰を横目に、羅夸はゆっくりと言葉を続けた。
「しかし、その後にこうも続けておった。自分があと三十年若ければ、奥義の一つでもって必ず勝てると」
ハッと顔をあげた仔繰に、羅夸はにやりと笑って見せた。
「その顔。おぬし、やはり頑羽の奥義がどのようなものか知っておるのだな! 吾が何度せがんでも教えてくれなんだその内容を! それを見た者は既に斬られた者だけだと伝わる、柔剣の奥義を!」
羅夸は体を乗り出して仔繰に詰め寄った。この剣術に対する好奇心の塊のような皇女は、どうやら自身の知的好奇心の為に、仔繰にカマをかけたらしい。それに気が付いた仔繰は、憮然とした顔で腕を組んだ。
「……知らん」
「そう硬いことを言うな。吾はそれを知らぬまま死にとうない」
「大げさなことを言うな。おまえより先に師匠が死ぬだろ」
仔繰から奥義のことを聞き出そうと、顔を寄せる羅夸を片手で制しながら、仔繰はまた考えた。
頑羽は今朝、仔繰のことを侮っている嶽飛であれば、柔剣で勝てると言っていた。だが、羅夸に語ったところによると、頑羽が斬り合ったとしても、奥義である柔剛剣なくては難しいという。ではやはり、自分にはこの試合には勝ちの芽がないということではないだろうか。
「それにしても、やはり弟子であるおまえには教えていたのだな。本当にあの爺は、妾や嶽飛がいくら頼んでも、その詳細を明かさなかったのだぞ」
羅夸は仔繰から顔を離して、逆に牛車の外側の手すりに体を寄せると、そこに肘をついて顎を支えた。またもや皇女にあるまじき振る舞いだが、やはり仔繰は気にすることなく会話を続ける。
「……嶽飛って奴も頑羽の奥義を知りたがっていたのか?」
「ああ、嶽飛は吾と似たところがある。あやつは過去の剣豪たちのことを調べるのが趣味なのじゃ。吾と同じく、剣術に魅せられておる」
「それでも、師匠は教えなかったんだな?」
「ああ、そう聴いておる」
仔繰はそれを聞いて、ようやく胸の内にある不安が払拭されたような気がした。頑羽が自分にだけ奥義を授けてくれたというその事実は、仔繰にとって確かに自信となった。
「……よし」
仔繰が一つ頷いて御前試合に挑む決意を新たにしたとき、二人を乗せた牛車は一度大きく揺れて、やがてゆっくりと止まった。どうやらいつの間にか、牛車は四金城にたどり着いていたらしい。
「では、ゆくぞ、仔繰よ」
羅夸に急かされるまま、仔繰は牛車を降りた。初めて入る皇帝の居城の豪奢なつくりに、きょろきょろと周りを見渡していると、何やら厳めしい顔をした大男が、両腕を胸の前で組んだ奇妙な格好でゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
「おや。罫徳殿。貴殿が出迎えてくれるとは思ってなかったぞ」
「どこの馬の骨とも知れぬ小僧が御君の坐す四金城の回廊を歩くのは、いかに羅夸様と頑羽がいるとはいえ、不安でしてな」
その男、皇帝武芸指南役及び武芸処総取締官という役職を持つ男、罫徳は、牛車から降りてきた二人を見て、小首を傾げた。
「おぬしが噂の小僧か。ふむ……。おや、頑羽はどこだ?」
仔繰は、目の前に立つ偉丈夫を見上げて、わずかに身震いした。一月前、刀神頑羽に挑んだ時も、全く持って怯むことのなかった仔繰だが、罫徳という男に対しては、一目見ただけで自分でも驚くほどに恐れを抱いた。それほどの剣気、気迫を持つ男だった。着物の上からでもわかる鍛え上げられた肉体は、とても頑羽と同年代の剣士とは思えないほどだ。
罫徳と仔繰は、お互いを睨みつけるように視線を交わした。罫徳は値踏みするかのように、仔繰は相手の視線に負けまいとして、二人は黙ったままそこに立ち尽くした。
それは、あるいは仔繰と頑羽、師弟の出会いをも超える因縁の出会いであったかもしれない。燦の国の歴史を変えるほどの意味を持つこの二人の男の出会いは、しかし、皇女が割って入ったことによって、その場で何かが起きることはなかった。
「頑羽のやつは母屋の鍵がどうとか言って、少し遅れるとのことだ。彼奴ももう年だと、そこな弟子と一緒に笑ってやったわ」
二人の間に漂う不穏な空気をこれっぽっちも感じることのできない皇女は、四金城の敷居の中だと言うのに、堪えられずにくくくと笑う。
仔繰は助かったとばかりに罫徳から視線を外し、羅夸に向き直った。罫徳もまた、同じように羅夸に向き直るが、その表情は、仔繰を睨みつけていた時よりもはるかに険しくなり、眉間には大きく皺が寄っていた。
「羅夸様。いまなんと……?」
「どうした罫徳殿。何か頑羽に用でもあったか?」
そんな形相の罫徳相手でも、羅夸は特に臆した様子がない。何事かと不思議そうに首を傾げながら、罫徳と仔繰を交互に見た。仔繰もまた、罫徳が何を気にしているのかわからず、首をすくめる。
そんな二人を前に罫徳はしばし無言で何事かを考えていたが、一度ちらりと仔繰のほうを見ると、言葉を続けた。
「いえ。実は……。嶽飛もまだ来ていないのです――――」
その言葉を聞いた瞬間、仔繰の身体は駆けだしていた。今来た道を引き返す。確信があるわけではない。その嶽飛という男に会ったこともない。ただ、仔繰の中で育ての親の死に様と、刀の師が鍵を忘れたと言って引き返した姿が重なった。
「仔繰!」
少し遅れて羅夸も仔繰の後を追いかける。そして、さらに後から罫徳も、大股な歩幅で歩きつつ羅夸を追いかけた。
「主上の居城でそのように走るのは、ひどく無作法ですよ。羅夸様」
「そんなことを言っておる場合か!」
二人がそんなことを言い合っているうちに、あっという間に仔繰の姿は見えなくなった。




