〇 第伍話『奥義』 -3
仔繰はその技の名を呟いて、立ち上がろうとする。だが、手と足ががくがくと震えて、またすぐに尻もちをついてしまった。全身が脱力して、まるで生まれたての動物の赤子のように、地べたに這い蹲った。
「な、なんだこれっ……?」
困惑する仔繰に、頑羽は手を差し出して、その身体を力強く持ち上げ、道場の床に座らせた。
「この技は、通常の柔剣とは比べ物にならないほどの精密な力の操作を必要とする。そのため、完全な形で成功しなければ、全身に途轍もない負荷がかかり、今のおぬしのように立ち上がることも困難なほど疲弊する。ゆっくりと呼吸しろ。落ち着けば、自然と身体も動くようになる」
仔繰は言われた通りに呼吸を整える。その間に、頑羽は奥義についての講義を続けた。
「柔剣とは、本来は相手の力だけを考え、直前まで自身の刀は静止しているという条件で行う。しかし、剛柔剣では、自ら直前まで相手に斬りかかるという動作を加えている。それが、この技が奥義たるゆえんであり、今のおぬしがそうなっている原因でもある。こちらから斬りかかり、刀が打ち合った瞬間には、柔剣の力の移動へと動きを切り替える。あまりにも至難の業、そうそうできるものではない」
頑羽は一度話を止めて、庭の裏の井戸へと出て行った。そこで桶に水を汲み、道場の中へと持ってくると、それを茶碗に掬って仔繰に差し出すと、また講義を始めた。
「儂とて、この長い人生で、それを完全に成功させたと言えるのは三度のみじゃ。命の取り合いの場で生まれる極限の緊張と集中でのみ、儂は剛柔剣を放つことができた。この老骨となった身では、恐らくもうそれを成すことはできんじゃろう」
それほどの技であると、頑羽は言う。
「おぬしも既に気が付いておるように、柔剣は、打ち合った瞬間の衝撃が強ければ強いほど、それを反す難度も飛躍的に上がる。そもそも、一撃に全てを掛ける一刀一斬とは相性が悪すぎるのじゃ。一刀一斬から剛柔剣に繋げることは、できぬとは言わぬが、仙人となって千年の修行が必要であろうな」
頑羽は最後に冗談めかしてそう言うと、立ち上がり、床に落ちた二つの模擬刀を拾い上げて、鞘に納めた。
「それにしても、儂が柔剣を構想するまで十年。会得するまでに十年。そして剛柔剣に至るまで十年。……おぬしは一月で、いったいどこまでたどり着く気じゃ」
「いやいや。俺は数十年の積み重ねを経た師匠に教えを受けているんだから、師匠より早く成長するのは当然だろ。むしろ一からこの恐ろしい剣術を作り上げた師匠のほうが、はるかに凄いよ」
ようやく身体の感覚が戻ってきた仔繰は、茶碗に残った水を少しずつ飲みながら、心の底からそう言った。自らの才能というものをいまいち理解できていない仔繰の中では、それが真理なのだろう。
「……そういうところも、末恐ろしい小僧じゃ……」
頑羽はそう独り言ちると、自らも心を落ち着けようと、自分の茶碗にも水を掬い、飲んだ。
「命の取り合いの中の、極限の緊張と集中が必要か……。俺にそんなときが来るのかな……」
「何を言っておる。そんな時は、来んほうがいいに決まっておろう。おぬしはこの天下泰平の世に生きておるのじゃから滅多なことをいうな」
それゆえに、本来頑羽には剛柔剣を教えるつもりなかった。だが、それを仔繰に言ってしまうと、恐らく、愚直に刀の道を修めんとするこの愛弟子は反発するだろうと思い、頑羽は口を噤んだ。仔繰もまた、座ったまま黙り込んだ。しばしの沈黙が、道場の中を満たす。
仔繰は道場の天井を見上げ、剛柔剣について考えていた。自分があの一人遊びのような動きで思いついたことは間違っていなかった。しかし、それを対人で行うのは、考えている以上に難しく、身に着けることは不可能に近い。
それを成すには、どこかで命の取り合いと呼べるほどの斬り合いを迎えなければならない。そして今、自分には、本気の斬り合いをしたい相手がいる。育ての親を斬り殺した、どこの誰とも知らぬ者が……。
「おい! 頑羽! 仔繰! 迎えに来たぞ!」
仔繰の思索の時間は、玄関から聞こえてきたその大きな声によってかき消された。仔繰と頑羽はお互いに顔を見合わせて、師弟仲良くやれやれと首を振った。
バタバタと廊下を駆ける音がして、道場の襖が大きく開かれる。
「準備はできているか! 吾は今日を夢に見るほど待ちわびていたぞ!」
果たしてそこにいたのは、やはり羅夸であった。その皇女は、言葉通り期待を込めた視線を仔繰に送り、仔繰は呆れ果てた視線を羅夸に返した。




