〇 第壱話『少年、刀神と斬り合う』 -2
荒れ果てた屋敷の中で唯一、綺麗に整頓されている大広間。そこで一心不乱に木刀を振り続ける男たちの前に、その老人、刀神と呼ばれる男、頑羽は黙って坐していた。
頑羽の鋭い眼光は男たちを見渡していて、時折、不意に立ち上がっては、弟子のひとりに素早く近寄り、力強く振り下ろされる木刀を横から手を出して軽々と奪い取る。
木刀を奪われた弟子は、肩を落とし、無言でその道場を去る。頑羽に認められなかった者は、そうやって道場から消えていくのだ。そして残された弟子は、自分がそうならぬように、一刀に力を籠め、また無言でそれを振り続ける。
そんなことを何度かくりかえし、そろそろ日も天頂に昇ろうかという時、頑羽がまた不意に立ち上がった。
弟子たちに緊張が走るなか、頑羽は一言、
「止まれ」
と言った。
その鋭い声に、弟子たちは一斉に木刀を振る手を止める。だが、頑羽はそこにいる何十人の弟子など全く見ていなかった。老人の視線は、弟子たちの向こう。屋敷の外の、荒れ果てた庭先に注がれていた。
「気配を消すのは得意だと思っていたんだけど、気づかれちゃったか」
その声に大勢の弟子たちは驚いた。弟子たちが誰一人として気が付かないままに、道場の庭に、一人の少年が立っていたのだ。
十代の半ばくらいだろうか、若々しいその顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。身にまとっているのは小汚い麻の着物で、足は裸足で泥だらけ。そして何より注視すべきは、その腰に履いている一本の刀。
飾りも塗りもない白鞘に収まっているその大刀は、ともすれば少年の身の丈よりも長いほどだ。少なくとも、その小柄な少年の腕幅では、とても引き抜けるようには見えない。
「一応確認するけど。おじいさんが刀神って呼ばれている人だよね?」
その問いに、頑羽は答えない。ただ、ゆっくりと弟子たちの間を横切り、少年の方へと進み出る。広間から外に出て、屋敷の縁側に立った。
弟子たちは何も言えずに、ただ、頑羽と少年の間に視線を彷徨わせる。
「儂の弟子以外、この場所の敷居を跨ぐことは許されぬ。おまえは弟子になりにきたのか」
「いいや。違うよ。弟子入りじゃない。俺は、あんたと決闘しに来たのさ」
大胆にもそう言い切った少年は、腰の大刀を思い切り引き抜くと、その切っ先を頑羽へ向ける。
自らの両腕を広げた幅よりも長い大刀を、どういうわけか引き抜いて見せた少年。それを見て、頑羽は目の色を変えた。
「ふ、ふざけるな! お前のようなガキが、お師匠様と決闘だとっ!?」
頑羽の弟子の一人が、少年の言葉に声をあげた。
「そうだ! お師匠様を誰だと思っているんだ!」「お前のような小僧では、相手にもならんわ!」
それまで黙っていた弟子たちは次々と声をあげるが、頑羽はただ一言、「面白い」と呟いた。
最も近いところにいた弟子の握る木刀を、その弟子本人にも気づかれぬ自然さで奪い取ると、頑羽は庭に降りて、少年の前へと踏み出した。
その様子を見て、少年に罵声を浴びせていた弟子たちは再び黙り込んだ。
老人と少年は、三刀身ほどの間を開けて向かい合った。少年が数歩踏み込んでその大刀を振るえば、十分に届きうる距離である。対して、腕一本分ほどしかない小さな木刀では、攻めるために大きな予備動作の必要な距離だ。
しかし、少年の細腕で、あのような大刀を振るえるわけがない。弟子たちはみな、そう思っていた。
「え。もしかしておじいさん。その木の模型で俺と打ち合うの?」
「戦乱の世ならいざ知らず、今の世で、しかも帝のおわすこの都で人斬りなどすれば、いくら儂でも処罰は免れぬよ。……おっと。貴様は遠慮することはないぞ。儂の首を落とすつもりで来るといい」
きょとんとした顔をする少年を前に、頑羽は木刀を自分の首に当て、トントンと叩いて見せた。その挑発に、少年は笑う。
笑って、足に力を込めた。
「そっか。じゃあ遠慮なく」
――――刹那、少年は刀三本分の間合いを、たった一歩で踏み込んだ。
今までの飄々とした態度からはとても想像できぬほどの踏み込みの速さと深さ。そこから繰り出される、躊躇なく頑羽の喉元を斬り裂きに行く剣先。風が轟と音を立てるほどの刀を振り切る勢い。少年が一瞬の間に起こした一連の動作すべてが尋常の技ではなかった。その場に居た大勢の弟子たちは、その瞬間、全く何が起きたのか理解できなかった。それほどまでに研ぎ澄まされた、目にもとまらぬ早業であった。
「おっと。危ないのう」
だが、頑羽はそれを軽々と避ける。わずかに身を屈めただけの、必要最低限の動きで少年が繰り出した全力の刃を避けると、恐ろしいことに、自ら一歩、少年の方へ踏み込んだ。
「動きは見事。じゃが、外した後のことを考えていない」
頑羽は木刀で、刀を振り切った後の、前傾姿勢の少年の右肩を突いた。
その力は、頑羽の持つ強大な膂力からすればほんの小突いた程度の物だったが、少年はつつかれた肩の一点から姿勢を崩し、頑羽の後方へと大きく転がって倒れてしまった。
「くっ」
だが、少年も倒れたままでは終わらない。ズキズキと痛む肩を庇いながら姿勢を立て直すと、大刀の柄を両手でしっかりと握って、正面に構え直した。
「ほお。利き腕の肩を強く打ったつもりだったが。それで刀を取り落さないのは素直に感心しよう」
そう言って、頑羽もまた木刀を構え直す。
今度は、先ほどよりももう少し遠い間合いで、二人は見合った。