〇 第参話『刀に魅入られた皇女』 -3
「――――ふふふ。月謝を取るどころか、駄賃をやって街に出ろとは、孫でも持ったつもりか頑羽よ」
置き去りにされた仔繰の叫び声を背後に、湧き出る笑いを扇で隠すこともなく、羅夸は頑羽を揶揄った。
頑羽は髭を撫でて何か思案していたようだったが、羅夸の言葉に苦虫を嚙み潰したような顔をして、手を下ろす。
「そこまで耄碌したつもりはありませぬが……。しかし、あの弟子のことを強く認めているのは確かですな」
「ほう。おぬしにそこまで言わせてしまうとは。あの野良犬の資質は本物ということか」
牛車の車輪が小石を踏み砕きながら、都の大通りを進む。その振動を身に受けながら、頑羽は深く頷いた。
「間違いなく本物でありましょう。あの者は、一度柔剣を受けただけで、その本質を言い当てました。儂はその才能を前にして、年甲斐もなく震えてしまいましたよ。あの者は、儂が教える刀の道を悠々と踏破し、さらにその先へと走ってゆく。儂はそんな気すらしております」
「ふふふ。なるほどのう。それは実に、実に楽しみじゃ」
頑羽の忌憚のない評価に、今にも舌なめずりでもしそうなほどに、羅夸の笑みは深くなる。
羅夸が上機嫌になり、それ以上何も言わなくなったので、頑羽はまた髭を撫でながら、物思いにふける。
思い出すのはちょうど十年前。頑羽はそのころまだ道場を持たず、しかし戦乱のころの実績を買われ、燦国の王家に、皇族の身辺警護のために雇われていた。
その日、幼かった羅夸は女中三人と馬車の引手、そして護衛の頑羽を連れて、春節祭の観覧の為に帝都の隣町へと向かっていた。
それは隣町を収める領主に通達していた公的な訪問ではなく、その街で有名な、夜に上がる大きな花火と色鮮やかな布で飾った祭車のことを羅夸がどこからか聞きつけ、どうしても見たいと駄々をこねた結果の遠出であった。
ゆえに、護衛は頑羽のみ。帝の息女が夜に隣町へと出かけるには、あまりにも心もとない人数であった。もちろん、来訪を伝えてはいないので隣町から迎えの使者が来るということもない。
とはいえ、都に通ずる大きな街道である。戦乱を超え、平穏を謳歌するこの燦国。そんなところで、何か起ころうはずもない。頑羽はそう楽観していた。少しばかりの居眠りをしていたほどだ。
しかし、それは大きな間違いであった。
ただの偶然だったのか、あるいは齢十にも満たない第九皇女を目障りに思った何者かの差し金か、春節祭の観覧へ向かった一団は、その途上で野盗の群れに襲われた。
馬を引く御者が弓で射殺され、止まった馬車に野盗どもが群がった。馬車の中には怯える女と老人が一人。それを見て、武装したならず者たちは舌なめずりしただろう。その中の一人が、最も手近にいた侍女を馬車から引きずり出そうと、右手を伸ばした。
――――瞬間、女を掻き寄せようとした右腕は切断され、宙を舞った。そして、痛みに叫び声をあげる間もなく、次はその者の首が飛ぶ。
そこからは、まさに刀神頑羽の千人斬りの伝説、その一端の再現であった。
頑羽に斬りかかろうとした者の刃は空を切り、斬り損ねたと知る前にその者の首が飛んだ。逃げ出そうとした者の身体は、背中から袈裟斬りに寸断され、戦意を失って倒れ込んだ者も、生かされることなどなく首を刎ねられた。
馬車を見下ろす崖上から幾度となく撃ち放たれた弓矢は一度も頑羽をとらえることなく、頑羽はその背丈の倍ほどの、ほぼ垂直と言っていい崖を、刀を握ったまま足で三歩の内に昇ると、瞬く間にそこにいた賊たちを切り刻んだ。
腰を抜かして、仲間たちの血だまりの中を這いつくばる最後の一人の首を躊躇なく刎ねると、頑羽は一度刀を大きく振るって血を落とし、静かに鞘に納めた。
まさに神業。春節の夜は、瞬く間に元の静けさを取り戻した。
「……は。儂もまだまだ、人斬りよな」
少しの間、夜風を浴びて身体から斬り合いの熱を抜くと、頑羽は羅夸たちの無事を確認するため、引手を失い立往生している馬車へと引き返した。頑羽は女中と幼子である羅夸を怯えさせることのないようにと、できるだけ身についた返り血を拭い取って、馬車の中を覗き込んだ。
――――その瞬間、頑羽の眼前に現れた羅夸の顔を、頑羽は今になっても忘れることができずにいる。
怯え、顔を伏せて震える女中たちを乗り越えて前に進み出てきていた羅夸は、その二つ眼を煌々と輝かせ、口元には笑みすら浮かべて、馬車の天幕の隙間から外を覗き込んでいた。まるで見たいとせがんだ春節祭の花火を見ているかの如く、あまりにも楽し気な表情で、頑羽が野盗たちを斬り殺すさまを見ていたのだった。
そしてそれ以来、羅夸は刀に魅入られた。