〇 第参話『刀に魅入られた皇女』 -1
翌日のことである。
仔繰はまた頑羽の作ったあの味気ない朝食を食べると、自分から率先して道場へと入り、壁に掛かった木刀を一本ずつ丁寧に布で磨いていた。何を言うこともなく、板張りの床に座して、ただ磨く。仔繰はその静寂を、修行に入る前の精神統一の場とすることにした。
だが、二日目にして、その静寂を破る者がいた。
「頑羽! 頑羽はいるか! いるなら返事をせい! 頑羽!」
道場屋敷の正門から聞こえてきたその大きな女の声は、ドタドタと足音を立てながら、全く遠慮なく敷居を跨ぎ、道場の中へと入ってきた。
仔繰の横で、道場の床を濡れ布巾で拭いていた頑羽は、それまで無表情だった顔を歪めて、眉間に皺を寄せると、大きくため息をつきながらゆっくりと立ち上がった。
「頑羽! おい、なんだいるではないか。いるなら早く返事をせんか」
頑羽が大部屋から玄関へと出る前に、その声の主は足早に部屋の中へと入ってきた。仔繰は木刀を拭きながら、声のほうへと顔を向ける。
女は、その高圧的な物言いとは裏腹に、背格好は小さく、年のころも、仔繰とそう変わらないほどの女子であった。
腰ほどにまで伸びた髪は毛先を綺麗に切りそろえられ、また髪油で艶やかな光を帯びている。手には朱色の扇を折り畳んで持っており、そのやや華奢な身を隠す着物は豪奢なもので、皇族のみ纏うことの許された文様である、六翼金龍の刺繍が袖口に縫い付けられていた。
ただ、そんな文様の意味など知らぬ仔繰は、毎朝の静かなはずの時間にうるさい女が来たと、頑羽に習うように眉間に皺を作って女を睨みつけた。
師弟をそろって不快顔にした皇族の女は、しかし素知らぬふりで道場の中を見渡し、仔繰に目を止めると、まるで虫籠の中の蝉を見るようにじろじろと視線を飛ばした。二人は一瞬睨み合うような恰好となるが、すぐに頑羽が仔繰を隠すようにその間に立ちふさがった。
「本日は、このような場末の道場にどのようなご用件で」
頑羽は両手を合わせて深く首を垂れた。
皇族への礼節など知らぬ仔繰にとって、自分の師である頑羽が、孫ほども年の離れた小娘に頭を下げるのは、見ていて気分のいいものではなかった。だが、仔繰が何か口を挟む前に、女のほうから頑羽の肩を扇で叩いた。
「おい。やめろ頑羽。おまえが吾にそんな礼をするな。顔をあげろ」
頑羽はそれを受けて顔をあげる。女はそれをみて一つ頷くと、扇を広げて自分の口を覆いながら言葉を続けた。
「用件ならわかっておるであろう? おまえが弟子であった貴族豪族の倅たちをみな破門して、どこから来たのかもわからぬ野良犬を拾ったという話だ。おまえの勝手に武芸処総監督官殿はたいそうお怒りだぞ」
何が面白いのか、女は口元を隠す扇の向こうで、ホホホと隠しきれない笑い声をあげる。貴人としては無作法な振る舞いであったが、頑羽のほうもそれに対してため息を吐いた。通例であれば、皇族の前でため息など、その場で斬首されてもおかしくない無礼だが、頑羽はこの少女がそんなことを気にする人間ではないことを知っていた。
「聴聞会を開くそうだ。四金城の武芸総郭に集まれと。使者を送ろうとしていたので、吾が代わりに来てやった」
「あなたが使者の代わりなどと……。帝陛下が知れば卒倒しますな」
頑羽の小言は耳に入らなかったのか、女は何も言い返さなかった。代わりに、その華奢な腕で頑羽を押しのけるようにして一歩前に進み出ると、頑羽の後ろでいまだ何も言わずに、ただひたすら木刀を磨いている仔繰に目をとめた。
「ふーむ。頑羽に見初められる者とは、どのような豪傑かと思えば、思ったよりも貧相な小僧だのう」
その視線と言葉に、仔繰はとうとう我慢できなくなって立ち上がった。女の顔を指さして、頑羽に尋ねる。
「おい。なんなんだこの女」
仔繰に顔を指さされた女は、また扇で口を隠して笑った。
「ホホホ。吾を知らぬか」
「仔繰、失礼だ。やめろ」
頑羽は努めて神妙な顔を作ると、仔繰を戒めた。普通であれば、この仔繰の行いもまた斬首されるような非礼である。
「このお方は、帝のご息女だ」
「帝の? 娘?」
それがどれほどの意味を持つのか、捨て子であった仔繰には特段理解が及ばない。だが、対する女は、それを誇るように、着物の袖口に縫い付けられた六翼金龍の刺繍を広げて見せた。
「そうじゃ。吾こそ、燦国第四代皇帝・阿緯帝の子にして、第九皇女羅夸じゃ」
ふふんと鼻を鳴らす皇女に対して、仔繰はただぽかんと口を開けるだけだった。