悪事の再帰性
世に悪の栄えたためし無し
みなさんこんにちは、ふりがなです。
今回のテーマは、悪事の再帰性。
再帰性というのは、「『「絵を描く人の絵」を描く人の絵』を描く人の絵を…」といった具合に、同じ構造を、繰り返す現象を指します。
サスペンス物では、このケース、よくあります。
殺人を犯し、殺人がバレないように、または、殺人がバレたので、殺人を犯し、更に、その殺人がバレないように、または、殺人がバレたので、殺人を犯し、更にその殺人がバレないように……。
この構造は、まさに再帰性と言える物です。
一見、リスクを積み重ねてるように見えますが、元となる犯罪のリスクによっては、元となった犯罪が取り返しのつかない罪な以上は、どんなに罪を積み重ねようが、もう構いはしない、といった心理が働くのです。
つまり、元となった悪事に対して、釣り合いの取れるだけ、悪事には再帰性が働くことになります。
『死刑になりたくて犯罪を犯した』
『生活が苦しくて刑務所に入れてもらいたくて犯罪を犯した』
世の中には時折、抑止としての刑法の目的に反する、こういった犯罪が起こりますが、悪事の再帰性は、正に刑法の目的に反した現象です。
一方で、悪事の再帰性には、歯止めとなる仕組みがあります。
殺人を犯しても、人にバレなければ? バレそうにならなければ?
そう、悪事の再帰性は、露見しない状態へと移れば、一端は停止するのです。
悪事が露見しない状態にするには、どうしたら良いのか?
通常、悪事は繰り返し行わなければ、露見する可能性は、どんどん低くなります。
あなたの犯した昔の小さな過ちを、周りの人は知っているでしょうか?
昔のことで、あればあるほど、露見する可能性は低くなりますよね。
一時的な犯行では、悪事の再帰性は、証拠を隠滅し、時が経ち、露見しなくなった時点で止まります。
一方で、それが、繰り返し継続しているような悪事なら、再帰性はどうなるでしょうか?
例えば、企業を例にすると、どうなるでしょう。
継続している汚職がバレないよう、行政への賄賂、情報操作、脅迫、果ては殺人へと、手を変え品を変え、伝染するように、悪事は社会へと、拡張拡大していきます。
それらの贈賄、情報操作、脅迫、殺人は、手法で言えば異なりますが、アナロジーで言えば、全て悪事ですから、実は、単なる悪事の再帰性として、定義出来る物なのです。
悪事がバレないように悪事を行い、その悪事がバレないように、悪事を行い、その悪事がバレないように悪事を行い……
一端は停止していても、一度悪事が露見しそうになれば、悪意に関係なく、悪事の再帰性は復活します。
――重要なのは、誰彼の悪意ではなく、既に起こってしまっている悪事その物なのである。
それらは、悪意に関係なく、再帰性によって、無秩序に社会へと浸透する。
さて、仮に再帰性のあるものを悪事と定義した場合に、それが、悪事に限ってない事に、気づく人が居るかと思います。
例えば、正義にも再帰性があります。
アナロジーからの観点で言えば、原理的に、何かしらの現状維持のためのコストを、悪事の再帰性と呼ぶ事になるので、正義や社会秩序も、再帰性を有していると言えるのです。
再帰性で有名な所では、投資家のジョージ・ソロス氏が居ます。
彼がバブルを説明する際に使う再帰性理論によると、市場は相互認識における再帰性によって、常に間違った株価を保っている。
それらは完全な再帰性ではなく、株価下落時におけるネガティブフィードバックによる閉じた再帰性と、株価上昇時におけるポジティブフィードバックによる開いた再帰性という、2種の再帰性がある。
ポジティブフィードバック側の再帰性には、際限が無いが、投資家側には限界がある、故に、株価は崩壊に至るという物です。
ネガティブフィードバックとは、元となった出力を、抑える再入力です。
対して、ポジティブフィードバックとは、元となった出力に対して、さらに出力を上げる再入力となります。
ネガティブフィードバックと、ポジティブフィードバック、それぞれに再帰性を加えると、ネガティブフィードバックの加わった再帰性は、時と共に出力が自然消滅していく形を取ります。
ですから、ネガティブフィードバックのついた再帰性を、『閉じた』再帰性と、今回は定義してみました。
これは、株価で言うところの下落局面です。
株価を相互認識する際、下落局面では、1株辺りの配当を下回る事は中々ありません。
ほぼ確定した利益が、認識の度に下落圧力を相殺していき、株価下落の勢いを弱めていくのです。
一方で、ポジティブフィードバックの加わった再帰性は、時間と共に、元となった出力が増え続ける構造を取ります。
ですので、こちらは『開いた』再帰性となります。
株価で言うところの上昇局面です。
株価の認識の際、上昇局面では、人はその根拠をトレンド、つまりは相互認識に求めます。
本来有りもしない確定しない利益が、株価の上昇圧力を生み、確定しない利益が、確定しない利益を呼び込み、株価は上昇していきます。
一般的に、悪事は、説明したネガティブフィードバック側の、閉じた再帰性の形を取ります。
これは、再帰性によって繰り返される後発の悪事は、元となった悪事と、完全に等価ではなく、よりバレにくい、軽い悪事へと移行していく事が多いからです。
最も、これには例外があります。
悪事が、ポジティブフィードバック側の再帰性を取った例も、過去になくなはないのです。
凄惨な結果となる事が多いのですが、割愛します。
皆さんで、実例が何かを考えてみて下さい。
では、仮に悪事ではなく、正義のために行った贈賄や情報操作、脅迫や殺人は、果たして正義となるのでしょうか?
また、正義の再帰性は、ポジティブフィードバック側の、開いた再帰性となるのでしょうか、ネガティブフィードバック側の閉じた再帰性となるのでしょうか。
結論として正義は、完全、もしくは開いた再帰性となりやすいようです。
これは、正義側には、歯止めとなる刑罰、リスクが限定されているか、存在しない事が多いからです。
正義による、贈賄、情報操作、脅迫、殺人は、歯止めとなる仕組みが無ければ、無限に拡張し『易い』という事になりますね。
では、正義と悪事を分ける境界線は、どこにあるのか。
言うまでなく、その境界線の一つとして『法』が挙げられます。
法は、正義と悪事を分ける一つの目安です。
よって、それ自体が曖昧な法や、曖昧な法の運用は、本来閉じた再帰性である悪事と、開いた再帰性である正義を、ない交ぜにし、恐るべき再帰性を有する悪事を発現させる事があるのです。
成文法と、法治主義、そして、人権の大切さが解るでしょうか。
国家には歯止めが必要である、この観点で言えば、立憲主義の大切さにもなりますね。
他には、悪事と正義を分ける境界線として、一方的な利益の搾取、または、不利益の押しつけが挙げられます。
成文法になくとも、この手の悪事は、正義には属していなく、また、再帰性をも有しているからです。
例えば、リーマンショックの原因となった金融商社の社員は、誰一人として刑事罰には、問われませんでした。
彼らの行った悪事を、考えてみましょう。
彼らは、積み上がる債権のリスクを知りながらも、自身のノルマのために、リスクに対して目をつぶり、不完全と知る金融商品を、市場に積み重ねていきました。
果たして、彼らの一般的な業務は、いったいどの時点から、悪事に変わったのでしょうか?
きっかけは、リスク、即ち不利益の出現です。
唐突に現れた不利益を、自身ではなく、社会や個人に押しつける時に、悪事と、悪事の再帰性は姿を現したのです。
情報操作、脅迫、贈賄、果ては殺人。
自らに降りかかる不利益を隠すために、悪事は拡大していきます。
実際、結果として社会に不利益を押しつけることとなった巨大な金融不安は、再帰性を省いたそれ単体でも、悪事以外の、何物でもありませんでした。
さて、ここで話は脇に逸れまして、税制の話になります。
政治の世界では、時折、利益相反関係間で、不利益の押し付け合いが発生します。
例えば、富裕層から見て、累進課税は、富裕層の不利益以外の何物でもありません。
これは、悪事と呼ばれる一方的な不利益の押し付けに該当しないのか、該当するのか。
該当しないのであるならば、何故該当しないのか。
そして、これらは不正義、または悪事でしょうか、もしくは正義でしょうか。
このような話を展開するのも、面白いでしょうね。
話を本筋に戻しまして、不正以外に、悪事の再帰性を止める方法は、あるのでしょうか?
有名な所では、他国で司法取引があります。
大きな悪事は、個人の意志では、その再帰性を止める事が出来ません。
司法取引制度は、悪事の再帰性に、個人の意志を介入する出口を設ける物なのです。
ジャーナリズムもまた、悪事の再帰性を止める物です。
もっとも、それ故に、悪事の報道に関わるメディアや、ジャーナリストが、悪事の再帰性の犠牲になるのですが。
歯止めの仕組みとなるこの二つに共通する概念が、『リスク』です。
リーマンショックの例でも出て来ました『不利益』=『リスク』です。
司法取引は、リスクの減免、ジャーナリズムは、割に合わないリスクの増大、リーマンショックの例では、突然現れたリスクとなります。
実は、これらのリスクによる再帰性の動きは、ソロス氏の株価の動きの説明と、非常に親和性が高く、ほぼ同じ物として説明出来るのです。
リスクがついて回るのなら株価下落と同じ閉じた再帰性、リスクがないのなら株価上昇と同じ開いた再帰性、現れるリスクに対して、社会がどのような立場を許しているのかで、再帰性は姿を変えます。
人は、不利益に敏感に反応し、それを防ごうとする。
不確定だが、ほぼ確実な不利益に対しては、回避したがる。
再帰性に対処するために作り出されたシステムが、法とも言えましょう。
そして、あらゆる悪事は、開いた再帰性となる事を許してはなりません。
私たちは教訓を得なければなりません、悪事は、必ずしも関わる人の人格に関係がある訳では無く、それ自体が、再帰性によって、必然的に積み重なっていく物だという事を。
そして、起こった悪事が、再帰性による物であるならば、それは、どのような質の再帰性によって起こったのかを、知らなければなりません。
倫理的な観点で言えば、何故、人を殺してはならないのか?
何故、善行は良くて、悪事を働いてはならないのか?
といった疑問に、悪事の再帰性は答えることが出来るでしょう。
善行には不利益がないので、再帰性はありません。
罰則やリスクのついて回る悪事、または、利益や不利益のついて回る悪事には、いずれかの再帰性があり、実行するには、罰則やリスク、社会不安となる悪事を、相応に積み重ねる必然性があるからだという事になります。
そして、悪事の再帰性の原理を知れば、歯止めとなる仕組みの創設は、より容易な物へと変化していく事でしょう。
この話を思いついたきっかけは、体制側が社会を悪い方向へと変容させる際に、真っ先にジャーナリズムを破壊するのに対して、民衆側は社会変革に対してジャーナリズムを必ずしも攻撃しない。
ジャーナリズムへの攻撃が真に戦略的に有用であるならば、ジャーナリズムは攻撃されるべきであるのに関わらず。
その非対称性の理由について考察した際に、単に民衆側が悪い事をしてないからだと気づいたらです。
何故ジャーナリストは犠牲になるのか?
悪事というものは必然的に積み重なる物であるからだ。
ここから、再帰性の発想へと至りました。
単に悪事には再帰性があるよねというだけの話を、読者向けに加工した物が本作となります。