鷹殺しの末裔
「鷹を殺した狩人」の続編。
※流血・部位欠損や、人身売買についての記述を含みます。
苦手な方はご注意を。
──昔々、広大な森を壊し、そこに生きる様々な生物を殺し尽くした残忍な大鷹がおりました。
大鷹はずる賢く、狂暴で、周辺に暮らす人間たちはとても困っておりました。
そこに現れたのは一人の狩人。
彼は知恵を凝らして大鷹を退治し、やがて森に平和が訪れました。
めでたし、めでたし。
「あまりにもひどい。ひどすぎる……!」
「あーもう、良い大人がめそめそ泣かないでよ! 情けないったらないわ!」
口元を歪め、思いきり眉をしかめた嫌そうな顔で、少女──ユアンは迷わずハンカチを手渡した。
そしてお気に入りの、四隅に自分で小さな刺繍をした、普段使いより少し高級な生地のハンカチが、男の涙と鼻水ででろでろになっていく様子を見つめて、ため息を吐く。
国一番の大きな町、その中でも特に賑やかな繁華街では、良い年した大人が泣いていても気に留める人間は少ない。
一切こちらに注意を向けずに先を急ぐ人間が7割、ちらりとこちらに視線を向けるがすぐ意識から除外して歩いていく人間が2割、残りの1割は痴話喧嘩か修羅場かとわくわくした様子で、少し離れた所でこそこそ聞き耳を立てている。
基本的に自分の目的の方が大事だし、面倒臭そうな相手には基本的に関わり合いになりたくない。
誰もがきっと、その通りだと頷くだろう。
普段ならきっと、ユアンもその立場だった。
下らないことで父親と喧嘩して、家出のために倉庫から金目の物をかっぱら──持ち出し──事後承諾で借りて、質屋に売り捌──預け──いや、保管してもらっておこうと思ったところで、このよくわからない男に声をかけられたのだ。
最初は不審者かと思って警戒していたユアンだったが、なんとなく気が向いて、少しだけ話を聞いてみることにした。
そこから数分しか経っていないが、やっぱりこいつは変な奴だった、やめておけばよかったと後悔した。
「そんで、その昔話がなんでそんなに気に入らないわけ?」
「大きな鷹の昔話を知っていますか」と、最初に男はユアンに尋ねた。
請われるまま大筋を話すと、見る間に男の目に涙が溜まり、あっという間に決壊した滝のように滂沱と流れ出したのだ。
「その話が、実際に起こったことと明らかに変質していたので……」
ずび、と赤くなった鼻を鳴らし、男はこちらに向き直る。
雲ひとつない空のような青の短髪、真夏に輝く太陽のような金の瞳は切れ長で少し垂れぎみ、整った顔立ちと、平民には見えない優雅な所作。
濃紺の袴に、鳥の羽の模様をあしらった、黒から青、青から白へのグラデーションが美しい上衣。
一言で言えば美形だった。
さっきまで鼻水垂らしそうな勢いで泣いていたし、全然ユアンの好みではないけれど。
ユアンの好みは、なよなよせずしゃきっと男らしい、頼れる年上の男性だ。
間違っても、初対面の女の子の前でハンカチがぐっしょり濡れるほど泣くような奴ではない。
「あんた、その話の事実を知ってるっていうの? あたしの曾祖母さまだって知ってたんだから、相当昔の話のはずよ?」
半分は疑い、半分は馬鹿にしたような視線で、ユアンは男を見つめる。
男は笑って、言った。
「──ええ、よく知っていますよ。当事者ですから」
「……はあ?」
男はどう見ても二十代半ば、多めに見積もっても四十代までは行かないだろう。
曾祖母の時代に生きているはずがない。
馬鹿にされたのかと苛立ったユアンの声に周囲の人間がさっと距離を取った結果、ユアンと男は大海原にぽっかりと浮かぶ島のように目立っていた。
──そう言えば、美しい女性を前にお茶にも誘わないなんて、私としたことがお恥ずかしい。
ということで、改めてお茶でも如何ですかお嬢さん、奢りますよ。
にっこりと、爽やかすぎて逆に胡散臭い笑顔で言われた言葉に、ユアンは面倒臭がりつつも頷いた。
家出娘に散財は天敵なのだ。
奢りなら仕方ない、お茶だけと言わず、遠慮なくしこたま飲み食いしてやろう。
柔らかく煮た野菜を煮凝りに閉じ込めたような前菜と、赤茄子と一緒に煮込んだとろとろの鶏肉と、白身魚を薄い紙で包んで焼いて乳酪を落としたものと、新鮮な橙の実を絞った果汁を注文した。
店員にはドン引かれた。
あ、これデートとかじゃないんで。
「狩人は、ちょうど貴女と同じ、金色の髪に紫の目をしていたんですよ」
カラン、と氷が溶けてアイスティーのグラスが鳴った。
お腹いっぱいになって食後の満足感に酔いしれながら、ふーん、と適当に相槌を打ち、デザートの桃の砂糖漬けが乗ったショートケーキにフォークを突き刺す。
「鶏肉と魚と、確か、桃も好きでした」
ケーキの欠片をぱくりと口に含むと、クリームの甘味の後に桃の香りと砂糖の甘さ、最期に僅かに残った果物特有の酸味が口に広がった。
美味しい、けれど食べづらい。
どうしてこの男は、あたしがケーキを食べるのをじーーーー……っと見つめているんだろうか。
いや、今思えばケーキの前、前菜も肉も魚も、食事中はずっとこんな顔をしていた気がする。
とても嬉しそうに、僅かに細められてこちらを向いている金色の目。
まるで小さい子供や動物や、そういう微笑ましい何かを見ているかのように。
「狩人さんに似ています。流石子孫ですね」
「ごっふぉおっ!!」
ちょっとパサついたスポンジがいい感じにガッツリ喉に引っ掛かり、乙女にあるまじき失態を演じてしまった。
げっほげっほ、ぐふ、げほん! と死にそうな咳で喉の違和感を排除し、アイスティーをぐびぐびと飲み干して、だぁん! とテーブルに叩きつける。
「おや、気管に入ってしまいましたか。淑女としてあまり誉められたものではありませんが、気にせずとも大丈夫ですよ。私にとってはそんな貴女も可愛らしい」
「誰のせいよ!」
「私と一緒にお茶をするという緊張に堪えられなかったなんて、初々しくてちょっとイイですね」
「ちがう!」
髪の毛を掻きむしって大暴れしたいくらいの衝動を胸の内に押し留め、深呼吸を何度か繰り返して、ようやくユアンは落ち着きを取り戻した。
少なくとも表向きは、なんとか。
「……で、なに? あたしが鷹殺しの狩人の? 子孫? ですって?」
「はい」
「なんでそんなこと断言できるのよ」
「匂いで」
「わかるかぁッ!!」
表向き平静を繕うだけでは足りなかったらしい。
ケーキとアイスティーを横に避けてから、左手で頭を抱え、テーブルに突っ伏すと、ふと空いた右手が暖かいものに包まれた。
「……うん。やはり、同じ匂いだ」
視線を向ければ、まるで騎士が姫君の手に口付けするように恭しくユアンの手を取った男が、
──すんすんと鼻を鳴らしていた。
「あんたは犬かッ!!」
咄嗟に右手を振りかぶり、すぱぁん! と小気味良い音を立て、男の後頭部を叩いた。
一瞬、絵姿で見た騎士様みたい、とドキッとしたのが自分で許せない。
男はそのままの勢いでテーブルに顔面を強打した。
鼻が潰れて残念な顔になれ、と半ば本気で考えた。
「やれやれ、お嬢さんは恥ずかしがり屋さんですね。手が触れた程度であんなに赤くなるなんて」
「なってない」
平素より五割増しで冷たさを感じさせるユアンの声音だが、男にとってさしたる問題ではないようだ。
繁華街の雑踏に溶け込んでたまにきょろきょろと辺りを見回しては、興味深げに頷いたり、口元に手を当て何事かを考えたりしながら、その合間にユアンを揶揄う。
はっきり言って、胡散臭い笑顔も中途半端な敬語も潰れなかった顔面も、そろそろ付き合うのが面倒臭くなってきた。
元はと言えばこの男が勝手に話し掛けて来ただけであって、ユアンがこの男に付き合ってやる義理などどこにも持ち合わせてはいないのだ。
──よし、撒こう。
決意してしまえば、行動は早い。
男が胡桃の入った焼き菓子の露天を冷やかしている隙に、ユアンは目に入った裏路地へと身を滑り込ませる。
そもそも父親と喧嘩したその日のうちに蔵から金目のものを持ち出し家出を決行するくらいには、ユアンは決断力も行動力も備わっているのだ。
考えなし、無謀、短気。
こういう行動を起こす人間を、きっと世間ではそういう呼び名で呼ぶのだろうけど。
「──ぐっ、てめぇ、放せっ!!」
不意に裏路地の曲がり角の奥から、争うような物音と、少年の声が聴こえた。
反射的に声の方へと近付き、しゃがんで角の向こうを覗き見る。
そこには、薄汚れた十四~五歳の少年が、後ろ手に縛られじたばたと踠く姿があった。
その奥に、平民にしては身なりだけ立派な、態度はその辺りのチンピラと然程変わりない男が三人。
……人拐いか!
カッ、と一瞬で頭に血が上りかけたが、静かに息を吐いて押し留めた。
このまま策もなくのこのこと出ていったのでは、ユアンも捕まって売られるのが落ちだ。
この町では人身売買は厳しく取り締まられていて、この辺りに住む人間なら人身売買をしようなどと愚かなことは考えない。
人を売らねば生きていけないほど困窮している住民には町から援助が得られるし、人拐いや受け渡しが行われそうな見通しの悪い裏路地などは優先的に役人が巡回しているし、人身売買に関わった者は平民でも貴族でも容赦なく厳しい罰則が下される。
もちろんどれだけ援助があっても、たくさん人員を割いても、巡回をしても、罰則を厳しくしても、それを上手く潜り抜ける奴もいるし、町の外からやってくることも多い。
それでも、親から引き離される子供や売られた先でつらい思いをする人が少しでも減るように努力するのだと、身近にいる頭の固い説教好きな役人がよく愚痴っている。
ユアン自身も人身売買は大嫌いだ。
人を買う奴も、物のように売る奴も、売るために連れ去る奴も──
──千切られて擂り潰されて、死んでしまえばいいのに。
「うるせえ」
「いっ……!」
ゴッ、と、とても鈍い音がユアンのいる所にまで届いた。
一人のチンピラの手には棍棒が握られていて、その先が僅かに赤く染まっている。
少年はこめかみから血を流して地面に転がった所を他のチンピラに蹴られ、腹を庇うようにくの字になったまま動かない。
命に別状はないだろうが、そこは今、ユアンに関係なかった。
──うん、よし、ぶちキレたわ。
家出するために、最低限少しだけでも自分の身を守れるようにと家から持ってきた短剣を構える。
「これは風の精霊の祝福を受けている。きっとお前を守ってくれるだろう」と、去年、十八歳になった日に父親から貰ったものだ。
──巡回の役人が来るまででいいから、ちゃんと守ってよね!
神頼みも精霊頼みもしたことはないけれど、精一杯祈るようにして、ユアンは短剣の柄を握り締める。
……すると。
「はいはい。言われなくても、ちゃあんと守ってあげますよ」
ふわり、と優雅に服の裾をはためかせ、何処からか男が顕れた。
青の髪が風に揺れる。
「誰だ!?」
「役人か」
「こいつの知り合いか?」
チンピラ三人が思い思いの予測を口にして、男を見る。
少年に棍棒を突き付け男を睨む者、ナイフを構えるもの、逃げ場がないかと辺りを見回す者と、反応もそれぞれ。
連携や意思の統一は、あまり上手くできていなさそうだ。
「おや、この御時世に拐かしですか。なんとまあ、趣味の悪い」
青髪の男は上衣の袖に口元を隠してこっそり笑う仕草をしたのだが、目が明らかに蔑むときのそれだ。
全然隠れていない。
「うるせえ、優男が!」
ナイフを持ったチンピラが、怒鳴りながら男に向かって走り出した。
直線的な動作はわかりやすいのだろう、男は難なくするりと振り回されたナイフをかわし、すれ違い様、ナイフを持っている方の手首を、ちょん、と指先で撫でた。
撫でただけに、見えた。
そして次の瞬間、チンピラの手首から先が、ごとりと地面に落ちた。
「ぎゃああああっ!! おれの、おれの手がぁぁあっ!!」
チンピラの絶叫が響き渡る。
血飛沫が裏路地の壁を、地面を染める。
生臭い臭いが辺りに立ち込める。
ユアンは走り出した。
チンピラの元へ。
そして、今日一番の大声で、怒鳴った。
「──うるっさい!! 騒ぐなぁッ!!」
お前が一番うるせえよ、とチンピラ三人は思ったが、口に出しては言えなかった。
「さっさと手首拾って! ああもう遅い! あたしが拾う!」
「水用意して! 綺麗なやつ!」
「こことここ、水で流して! 丁寧によ!」
「ここ固定して!」
「痛いのなんて当たり前でしょ、我慢しなさい!」
チンピラ三人は怒鳴られながら、てきぱきと傷の処置をする目の前の少女を眺めていた。
緩く波打つ淡い色彩の金髪と、葡萄みたいな紫の目。
見るからにいいとこのお嬢ちゃんだが、手当ての手際が良すぎる。
そして年頃の少女ならば見ただけで卒倒しそうな“人間の手”を誰よりも先に拾い上げ、汚れを落として傷口に当て、手のひらを翳した。
するとどうだろう、切り落とされたはずのチンピラの手首は、キラキラと降り注いだ光によって、ぴたりと元通りにくっついたではないか。
「すげえ!」
「嬢ちゃん、あんた癒し手か!?」
「ありがとう、ありがとう……!」
癒し手とは、魔力を癒しの力として行使できる人間の中で、ある程度能力の高い者を指す。
魔力を持つ者は人類の半分ほど、そして魔力を癒しの力として使える者はその半分ほど、更に怪我や病気の回復手段として使えるだけの能力を持つのが更にその半分だ。
喜びや興奮、物珍しさと好奇心で沸き立ったチンピラ三人の頭を、ユアンはその辺に落ちていた棍棒を拾ってそれぞれ一回ずつ、思いっきりぶっ叩いた。
「「「いってぇえ!?」」」
「調子乗ってんじゃないわよ! あんたらが何をしたか、あたしちゃんと覚えてるんだからね!」
ふん、と鼻息荒く言い放つと、気まずげな三人を無視して、倒れたままの少年に駆け寄る。
チンピラ三人は押し黙ったまま、しばらくユアンを見つめていた。
少年を後ろ手に縛っていた縄は、鋭い刃物で切られたようにばらばらと地面に落ちていた。
少年は肩につくかつかないかの黒い髪で、ぼろぼろの衣服から覗く手足は痩せ細って今にも折れそうだ。
一番目立つこめかみの傷に手を翳しながら、少年の怪我を調べていく。
「怪我は、えーと、こめかみと、お腹と、他にも擦り傷……」
見つけた傷の全てを癒しきる頃には、ユアンはへとへとだった。
くらりと眩暈のする頭を押さえて、ゆっくり立ち上がる。
「縄は私が切っておきましたよ」
青髪の男が得意気に言うのを見て、イラッとした勢いに忠実に、ユアンは脳天に手刀をお見舞いした。
「いっ……!!」
「あんたもあんたよ! あんなちんけなチンピラに、あそこまでやる必要ないでしょ!」
頭を押さえて、青髪の男が蹲る。
俯いているせいで表情は見えないが、少し肩を落としているように見えた。
「……でも、助けてくれてありがとうっ」
怒った口調のまま礼を言えば、青髪の男は顔を上げ、へにゃりと相好を崩して笑った。
それから騒ぎを聞き付けた役人がやってきて、簡単な事情聴取をしてからチンピラ三人を連行して行った。
少年は怪我は治したが栄養失調による衰弱が進んでいて意識が戻らないため、医者の元に搬送されるらしい。
その後、後日改めて出来事の顛末を事情聴取したいと言われたり、少年の搬送に付き添ったりで、結局は家出するどころではなくなってしまったユアンは、仕方なく口うるさい父親のいる家に帰ることにした。
家に戻ったら同僚から連絡が行ったのか、家の前で待っていてくれたらしい父が、いつも通りの顰めっ面を僅かに綻ばせて「お帰り」と言ってくれて、不覚にも少しだけ、うるっときてしまった。
母はユアンが幼い頃に亡くなっていて、今は父親と二人で暮らしているが、ユアンは父と血の繋がっていない。
母を喪い路頭に迷って、人買いに売られそうになったところを保護してくれたのだ。
別の相手と結ばれた母にずっと片想いをしていて、母が亡くなったと聞いてすぐにユアンを捜してくれたのだと教えてくれたのは、役人にしてはちょっと口の軽い父の同僚だ。
自分の本当の父親は、生きているのだろうか。
生きているのなら、自分と母を置いて一体どこに行ってしまったのだろうか。
別に、今の父親との暮らしに不満があるわけではない。
しかし、一度芽生えた疑問と興味が、すぐに消えるわけでもない。
直接父に聞けるわけもないし、それなら自分で捜しに行こうと思ったのだ。
事件の翌日、ユアンはそんなことを考えながら、父に頼まれた蔵の掃除を行っていた。
分厚くて重たいばかりに思える稀少本を虫干しして、何に使うのかわからない道具類の埃を柔らかい布で丁寧に拭う。
「……あ、久しぶり、母さん」
奥へ奥へと進んでいくと、母の姿絵が置いてあった。
この絵の中では穏やかな淑女のように微笑んでいるが、実際は快活に笑う元気な人だった。
何か悪さをしようものなら、「アホか!」と小気味良くすぱーん! と頭を叩かれたものだ。
「掃除、掃除……んん?」
ふと、目についたのは、姿絵の隣に置かれていた大きな刀掛け。
そこに掛けられていたのは、少し緑がかった真鍮色の大鎌だった。
柄の丈はユアンの身長ほどもあり、刃渡りは肩から指先を伸ばしたくらい。
そして口金の辺りには、手のひらに収まる程度の美しい桜色の珠が嵌め込まれている。
「……なんか、綺麗」
この大きさでは農作業に使えるわけがない。
となれば、これは戦うための道具だ。
町の外にいるという魔物を屠るためか、はたまた人の命を刈り取るための物か。
しかし、どうしてもこの大鎌は武器に見えなかった。
「それの名前は、アヴィヤエ、と言います」
聞き覚えのある声が、背後から聴こえて振り返る。
「貴女の母君が使っていた物ですよ」
空のような青い髪、太陽のような金色の目。
顔に浮かんでいるのは、爽やかすぎて逆に胡散臭い笑み。
慇懃なようでいて、揶揄うような口調。
──間違いなく、昨日会ったあの男だった。
「あんたが勝手にいなくなるから、あたし昨日説明が大変だったのよ」
「それは失礼しました。私も心苦しかったのですが、やむを得ず」
眉を下げて申し訳なさそうな顔をしたって、すぐに許せるものではない。
少年を拐おうとしたチンピラ三人は、大人しく集まってきた役人に捕まってくれた。
しかし少年の意識は戻らないわ、辺りに血飛沫は撒き散らしているわ、その割にはその場にいる誰にも大きな傷が残っていないわで、役人は大慌てだった。
幸い、父の知り合いでユアンのことを見知っている人間が中にいたので、傷がないのは癒し手による治療の結果だと理解してくれたが、そもそも辺りに血飛沫が舞うほどの怪我をさせたのは誰か、ということになった。
護身用の短剣を持っていたせいで、ユアンは危うく“自分で相手を斬り付けておきながら治療する、ちょっと頭のおかしい癒し手”だと思われてしまう所だった。
本当に危なかった。
勿論、チンピラ三人は青い髪の男がいたと証言してくれたし、ユアンの証言とも食い違いはなかったので事なきを得たのだが。
「……そう言えば、あんたどうしてここにいるの?」
ざり、と砂埃を取りきれていない床が靴底に擦れる音が響く。
そして今更ながら、男は何処から顕れたのか気になった。
この床を歩いてきたのなら、間違いなく足音や床の軋みで音がするはず。
蔵の扉は閉まったまま。
あの蝶番は錆びてしまっていて、開けるときにすごく大きな音がする。
「──あんた、何者?」
「名前はラオイン。貴女を大事に想うだけの、しがないただの精霊ですよ」
ふわり、と優しく頭を撫でられて、男の上衣の袖が視界を遮る。
それを振り払って前を見れば、もうそこに男の姿はなかった。
「……精霊……?」
狸に化かされたように呆けたまま、心配になった父が呼びに来るまで、ユアンは虚空を見つめ続けていた。
─終─
読んで頂き、ありがとうございます!
一言でも、一行でも、心に残る文章があれば幸いです。