黄色い線の内側までお下がりください
彼女が変わった人だということに気がついたのは、いつの頃だったろうか。
付き合う前は、そうでもなかった。ボブカットで丸眼鏡を掛けている美人。同い年なのに大学内では敬語で接してくれる丁寧な人。そんなイメージだった。
それが、告白されて付き合ってからイメージが変わっていった。心配性、というのだろうか、それとも嫉妬深いというべきだろうか。たびたび彼女は僕に言った。
「ねえ、死なないでね。他の女性と関わらないでね」
どうしてそんなことを言うのだろう、と思った。他の女性と関わってほしくないというのはわかる。浮気をされたらどうしようという不安は、多くの男女が思っていることだろう(それでも口癖のように相手に言う人は少ないだろうけど)。
問題は「死なないでね」の方だ。死ぬだなんて大げさだとは思うけど、人間はいつ死ぬとも限らない。心配だと思うことがあっても不思議ではない。それでもたびたび口にするのは、はっきり言って心配し過ぎだと思う。
それでも彼女はたびたび口にし、さらには悪化していった。それは一緒にデートをした時の帰り道。駅のホームで電車を待つための「5号車乗車口」のラインの前に並んだ時のことだった。
「ねえ、そんなホームの端に立ってたら危ないよ。真ん中に行こ?」
そう言った彼女は僕の右手を引っ張り、ホームの中央まで連れていった。
「大丈夫だよ、そんな簡単に落ちたりなんかしないよ」
そう言ったが、彼女は青ざめた顔で反論した。
「でも! この間ニュースでやってたよ! ホームから人を突き落として逮捕された人がいたって。そういう人がいるかもしれないんだよ!?」
心配し過ぎだよ、そう言おうと思ったけど、彼女の勢いに押された僕はなにも言えなかった。
彼女の不安は死ぬことだけにとどまらなかった。それは、僕が妹と買い物に行ったことを話した時だった。
「なんで? あのね、私は妹さんに嫉妬してるの。羨ましいよ、だってあなたのことを昔から知ってるわけでしょ? 一緒にいる時間だって私より長いんだよ。そのうえデートにまで行くなんて」
僕はうろたえながら震える声で言った。
「デートなんて大げさだよ。普通に買い物に行っただけだよ」
それでも彼女の怒りはおさまらない。
「なに? 言い訳するの?」
勘弁してくれよ……と思いながらも、いい加減面倒になった僕は謝った。初めて怒りを見せた彼女に恐れを感じたというのもある。
「わかった、わかったよ。ごめんね、そのぶんお詫びにデートするからさ」
「その返事もおかしいよ、適当にあしらってる言い方でしょ!」
もう彼女の機嫌は治らない。説教のよう一方的な会話は20分近く続いた。
その後もたびたび僕に怒るようになり、時にそれは喧嘩にまで発展した。
「友達とどこに出かけてたの?」
「誕生日に私以外の人からプレゼントを受け取らないでね」
「あの店員さんと楽しそうに話してたけど、あれなんだったの? おかしいよね。そんなにあの人がかわいかった?」
もううんざりだった。どうしてこんなことになったのだろう。もう何度目からわからない彼女の発言に、僕は言い返した。
「わかった、そんなに心配なら、こんなに喧嘩するなら、もう別れよう」
「あ……あ……」
青ざめた彼女は何も言えなくなったようだった。
「別れようよ、そしたら嫉妬することもないでしょ?」
「嘘……」
呆然と立ち尽くす彼女を置いて、僕は立ち去った。
それからしばらく、彼女からはなんの連絡も来なかった。
どうでもいいさ、と思っていたが、悪いことをしたという罪悪感と最悪の場合自殺したのではないかという不安を抱えてしまい、電話を掛けることにした。そして何よりも、まだ彼女のことが好きだったから。
「電話、掛けてくれたんだ」
彼女の第一声はこれだった。
「うん……ごめんね。あんなこと言って」
「ううん……私の方こそごめんね。あんな風に言われたら誰でも怒るよね」
「……」
「……」
お互いに気まずい沈黙が流れたが、意を決して僕は言った。
「あの、仲直りするためにさ、一緒にまたデートしない? 行きたいって言ってた美術館のルノワールの展示とかどうかな」
「あ……、ほんと? ほんとにいいの? 一緒に行ってくれるの?」
「うん、僕も仲直りしたいから。それに、まだ君のことが好きだから」
「うん……うん! 私も好き! 好きだよ!」
「ありがとう。うん、僕もだよ」
3日後、僕たちは上野の西洋美術館にいた。手を繋いで美術館を周った僕らはこれまでのように楽しく会話をした。彼女が怒ることはなく、まるで付き合い始めた時のような雰囲気が流れて僕は安心しきった。
駅のホームではさらに嬉しいことが起こった。僕と手を繋いだ彼女は帰り道、駅のホームの真ん中ではなく、「1号車乗車口」のラインの前に立ったのだ。
「あれ? 死んじゃうことが怖いんじゃなかったの?」
「うん、あんまり心配しても仕方ないかなって」
照れ笑いを浮かべた彼女は、これまでと違っていた。よかった、本当によかった。彼女も反省して変わったんだなと実感し、安堵感に包まれた。これで彼女とうまくやっていけるんじゃないか。
その時、スピーカーから女性のアナウンスが流れた。
「まもなく1番線に大宮行きの電車がまいります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください」
「それにね」
と彼女は小さく言った。
「一緒にこのままいればさ、他の人にあなたを取られることもないしさ」
青いラインが入った電車が音を立てて向かってくる。
「一緒に行けば、死ぬことを心配しなくて済むよね」
彼女が笑顔を浮かべて僕の手を引く。
引っ張って、引っ張って、彼女の脚が黄色い線を越えた。