マギカルナティカエコノミカ
私が金色のステッキを頭上に掲げると、先端にあしらわれた三日月から放たれた光が辺り一面の夜の闇を照らし始める。先ほどまで新月の夜の闇に身を隠していた黒い大きな狼がその姿を露わにして、戸惑ったように低く唸った。
輪郭こそ狼の物だが、その頭の側面にはあるべき二つの目がなく、代わりに額に当たる部分に巨大で歪な緑色の瞳が一つ浮かび上がっているのだった。私は一つ大きく息を吸い、まるで舞台の上の俳優のように高らかに叫ぶ。
「たとえ太陽が沈んでも、月の光が闇夜を照らすっ! 月明かりの魔法少女、ルナ!」
前は言うたびに恥ずかしがっていた前口上にも、随分慣れたものだと思った。
私はそのままステッキを持った右手の腕を反時計回りに一回転させ、黒い狼を眼前に見据える。狼の方は様子を窺うように、こちらに一つの目を向けたままその場をしばらく徘徊していた。が、やがて痺れを切らしたのか牙をむき出しにして躍りかかってきた。
対して私は、それに合わせてステッキを振りかぶりながら一足後ろに飛びのく。そして先ほどまで私の頭があった空間を影の顎が噛み裂いたのを確認してから、渾身の力を込めて相手の頭を打ちぬいた。
どの生物にも似ていない悲鳴を上げて、それは黒い影が形作った輪郭全てを歪ませる。それと同時にステッキが纏っていた光が狼を包み込み、一層まばゆく輝いて──光が消えた後には、その残滓を纏って煌めく小さな袋付きのロリポップがひとつ置かれていた。
私は一つ息を吐いて、地面に落ちたロリポップを拾うと後ろを振り返る。明るくなった路地裏には私以外にもう一人、小学生くらいの少年がその体を縮こませながらこちらを見ていたのだった。超常的な現象に出会ったことへの怯えがありありと顔に浮かんでいる彼に向かって、私は笑いかけて見せる。
「もう、大丈夫だよ」
手にしたロリポップの袋を裂いて少年に渡す。彼はおずおずと何も言わずにそれを受け取ったが、それに口をつけた瞬間その顔に驚きの感情と笑顔が浮かぶ。それを見て、私も笑顔になった。
「今日のことは、みんなには秘密だよ。誰にも言っちゃいけないの。だけど……」
「どんなに暗い夜でも、必ず私が照らすから!」
私の名前は夢月ハカナ。火継第一高校に通う高校一年生。
そしてもう一つの顔は、この街を影で守る魔法少女なのだ。
私はとある廃ビルの屋上から、火継街を見下ろしていた。十分すぎるほどに明るい、上弦の月が出ている夜だった。
学校指定のセーラー服のままで、スマホを片手に夜の街を眺めるのは、日常と非日常が偏在しているようで私は好きだ。点滅する信号機の小さな緑色、家々から漏れる黄色い光、渋滞する車のテールランプの群れ。間近で輝くスマホの画面からは、最近話題の音声認識人工知能のイメージキャラクターである猫の顔がこちらを見ていた。
少し傾いた半分の月を仰いで、私はふと呟く。
「魔法少女の力って、どこから生まれてるんだろう?」
すると右手のスマホから小さな電子音が鳴って、少年のような合成音声が答えを返してきた。
『みんなの夢を力に変えているのさ』
「夢を?」
『非現実を信じる心だよ』
スマホが音を発するたびに、アイコンの猫が表情を変えながら口を動かす。
この猫はスマホのアプリに擬態した、魔法少女のパートナーなのだ。自分のスマホからおかしな声が聞こえ始めたときは、本当に驚いた。
彼ら(かどうかは不明だが)は魔法少女の管理者のような存在らしい。昔は猫そのものや妖精の姿をとっていたことが多かったが、現代に合わせて姿を変えたと言っていた。
『ボクたちが存在することで、キミたち魔法少女は人々の心をエネルギーに変えることが出来るんだよ』
「それって、ナイトメアシープを倒すために?」
ナイトメアシープ。影から生み出されたような、謎の存在。私たち魔法少女が戦っている相手だ。
『そうだよ。奴らは人々の夢を食い荒らして成長する。もしも彼らがはびこったら、世界は終わってしまうかもしれない』
「そのために、私たちがいる」
『そういうことさ、ハカナ』
笑う猫のアイコンが表示されると同時に、その画面が小さく振動した。
『そう言っている間に、またナイトメアシープの反応だ! ルナ、頼むよ』
「任せて、アダム」
私は立ち上がると、右手を天に突き出す。紺色のセーラー服が、どこからか現れた光に包まれて、金色の衣装へと変貌する。
そうして私はまた、夜の街に飛び出した。
今日も、誰かの笑顔を守るために。
「最近、ナイトメアシープも出なくて平和だよね」
ある日の夜、私は自室から明るく輝く満月を上げながら呟いた。
街は平穏そのものだった。満月は夜の闇を、まるで太陽のように照らしている。部屋の時計の針は九時を指していた。
「この平和が、ずっと続けばいいのにね」
『……うん、そうだね』
スマホからはいつもの通りの合成音声が流れる。が、それがいつもよりも遅かったよう
な気がして、私は机の上のスマホに目をやった。
「どうかしたの、アダム?」
『なんでもないんだ、ハカナ。……ただ、こう長い間ナイトメアシープが現れないことなんてなかったからさ』
『普通』のことが信じられないって、怖いだろう? アダムの声はそう言った。
それで不安になっているようだ。アダムとは親しい仲ではあるが、やはり私たちとは違う存在なのだと思わされる時がある。今がそうだ。人間の平和を脅かす存在がいないことが、悪いことであるはずがない。
「大丈夫だよ、アダム」
私は彼を元気付けるために明るく声を出してみせた。
「何も起こらないに越したことはない、でしょ?」
『そうだと、良いんだけど』
どうにも煮え切らない様子の彼に内心でため息をつきながら、私は部屋を見渡す。時計
の針は先ほどと全く同じ時間を示していた。
「あれ……電池切れかな?」
明日取り換えよう、という私の言葉に、アダムは何も返さなかった。
『どうなっているんだ!』
突然に大きな声が響いて、私は驚いて身をすくませた。
「ちょっと、お母さんに聞こえちゃうって……」
アダムの存在が親に露見することよりも、私は彼がこんなに大きく、感情的な声を出したことが何より恐ろしかったのだ。
何が起こったのか聞くより早く、彼は言葉を続けていた。
『ナイトメアシープが、いない……この街だけじゃない、世界中でだ!』
「それって……ねえ、どういうことなの? ナイトメアシープがいないのは、良いことじ
ゃないの……?」
それはこの前から、彼が気にしていたことだった。
私には、彼の不安の理由は分からない。ただ、彼が何かを隠していることには、流石に気が付いていた。
「ねえ、アダム……ナイトメアシープって、何なの? 魔法少女は、みんなを幸せにする仕事じゃなかったの……?」
『ああ……そうだよ。魔法少女はみんなの幸せのためにいるんだ。いつまでも夢を信じられるように、そのためにいるんだ』
スマホの画面に映った猫は、口を一切動かさずに答えた。少なくともその言葉には、嘘はないように思えた。しかし、彼を純粋な気持ちで信じることは出来ない。それが何より悲しかった。
「ねえ……アダムの言う夢って、何なの?」
「……人の幸せのために、必要不可欠なものだよ」
それからは、二人とも何も話さずに夜を過ごした。どこかで怪我人が出たのか、救急車のサイレンが近くを通り過ぎて、だんだんと低くなって消えた。
この前電池を換えたはずの時計は、未だに九時を指していた。
新月の夜。私は廃ビルの屋上で、どこか憂鬱な気分を抱えていた。
ナイトメアシープは未だに現れない。それは良いことのはずなのに、最近世の中には辛いニュースばかりが流れている。工場での事故や、犯罪……近頃のアダムの態度もあって、私は言いようのない不安に悩まされていたのだ。
まるで、自分が当たり前に信じていたものがひどく頼りないものだと分かったかのような感覚だった。
何度目か分からないため息を吐いた時、
『ナイトメアシープは』
突然アダムの声がした。
『必要な存在だったんだ』
「ちょ、ちょっと待ってよ……それって、どういうことなの?」
慌てて私が問いを投げる。それを言い終わるか言い終わらないかのうちに、アダムは先を続けていた。
『いいかい、ハカナ。世の中を動かしているモノっていうのは、現実の象徴として当たり前にあるように思えて、実はひどく不可思議な存在なんだよ。それこそ魔法少女よりもね』
「世の中を、動かしている……?」
『けれどなくしては人間社会は、この世界は成り立たない。不安定なソレを維持するために、見えないけれど大きな力が働いているんだ。それが魔法少女であり、ボク達であり、ナイトメアシープなんだよ』
その語り口はとても難解なものだったが、分かったことがあった。ナイトメアシープの絶滅は、この世界にとってとんでもない大事件だったということだ。
『魔法少女が人々の幸福を作り出しているのは本当だ。人々の信じる心を力に変えているのも本当。ただ……ナイトメアシープは、人々の幸福を脅かす存在じゃない。必要なエネルギーを生み出す存在だ』
「エネルギーを? それじゃあ……」
『人の生きる世界は、いくつもの絶対に不可欠なもの、言うなれば前提が重なり合って出来ているよね? 愛とか希望とかじゃない、もっと現実的な話だ』
「前提……? 電気とか、水とか?」
『まあ、それもそうだと言えるね。非常にミクロな視点に立ってみれば。とにもかくにも言えるのは、みんなが常識だと思っていることが存在しているのは人々の信心によって成り立っているってことだ』
アダムの口調には、この前見せたような怒りとか、或いは悲しみとかの感情が一切感じ取れなかった。ただいつもより、難解な言葉が並んでいる。それが何を意味しているのかは、分からなかったが。
恐らくこの世界について核心的なことを言っているのだろうが、パニックと恐怖のために、私はほとんどその意味を理解できていなかった。
『ボク達の仕事はね、その前提を維持することなんだ。キミたち魔法少女はナイトメアシープを殺す、究極化された善悪の対立構造の上でね。それを見た人々は、夢を信じるようになる、その夢を使って、また魔法少女はナイトメアシープを殺す……』
「ま、待って! 殺す、って、そんなこと……」
『気が付いていなかったのかい? まあ、そうだろうね、それもまたボク達の仕事だ』
相も変わらずの淡々とした語り口が、私の内心に恐怖を生み出していた。
『まあ、話を続けるけどさ。そうやって信心を循環させて、世界を成立させていたんだ。ところが時代を追うごとに、人々の世界が抱える前提は膨れ上がった。ボクたちの予想を遥かに越えた速度で、人々が信じなければいけないことは増えていった』
「そうして……どうなったの?」
『知っているだろう? ナイトメアシープが居なくなったのさ。もう世界中のどこにも居ない。絶滅したんだろうね』
絶滅。その言葉の重みに、そしてそれに魔法少女としての自分が関わっていることに、私は吐き気を覚えた。画面の中の猫は、そんな私に構う様子はない。
「だから、その……」
『人間社会の前提が、その拠り所を失って崩壊を始めるんだ。……まあ、じきに分かるよ。不可思議を信じることが出来なくなった人間の末路は』
「不可思議を……な、なら! 私が、ルナがみんなの前に出て行けば、みんなその、不可思議を信じてくれるようになるんじゃない!」
私は慌ててスマホを置いて、いつものように変身のポーズを取る。月のない夜空に右手をかざし、そのまま反時計回りに回す……が、いつもはやって来る筈の光が現れない。上に掲げた右手には妙な感覚が伝わってくる。
恐る恐る手を降ろすと、そこには一振りの血塗られたナイフが握られていた。
『魔法少女の魔法の本質は、世界を維持するうえで生み出される犠牲を正当化するための偽りなんだ』
私は声にならない悲鳴を上げて、それを放り捨てる。
『ボク達はそれを隠し、キミ達はそれを知らない。そうやって、世界は回っていたのさ』
廃ビルごと、地面が大きく揺れたような気がした。
新月の夜。あの日から、一週間経ったのだろうか。
世界は未だに、新月の夜のままだ。
『君たちの住む世界の常識は、元々は空想そのものだったんだよ』
スマホは持っていないはずなのに、頭の中にアダムの声が聞こえる。私は廃ビルの屋上から街を見下ろしていた。全てが失われつつある街を。
『はじめ、人類は平らで動かない地面の上に暮らしていた。より人類にとって都合がいい地動説が提唱され、浸透し、そちらの方が人類にとって“あたりまえ”になるまではね』
私はまだ、ナイトメアシープの絶滅が何を意味するのか理解していなかったのだった。
信心を手に入れる術が無くなって、ありとあらゆる原理は崩壊した。
その一つが、地球の自転と公転。
『社会を動かすシステムは、その重要な要素は、オモイコミによって作られているのさ。一度そのオモイコミが覆ってしまったら、もうおしまいだ。信じる物を失った社会は成り立たない』
「ねえ……アダム」
声が届いているのかは分からなかったが、私は問いかけた。
「誰が……悪者だったの? 人々? あなたたち? それとも……私たち?」
『それは……分からないな。誰が悪いかなんて言えないだろう? まあ、一つ言えるとし
たら、このシステムそのものが、いつか──』
眼下で大きな爆発が起こって、彼の声をかき消した。
もう世界は、何も信じられない。神も仏も、魔法少女も。
ねえアダム、幸せって何なのかな? 私は声に出さずに問いかける。
返事は帰ってこなかったが、私には彼の答えが分かる気がした。
それはきっと──