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-傾月-〈貳拾貳〉夢を追う夢 4  終わり

 

 ……


 夜は目の前で一瞬で昼になり、巨大な音が両耳にぶつかる。


 自分の部屋のベランダに立っている月璃は思わず目を閉じた。強い風圧が顔に襲いかかる。手に持つグラスの中の赤ワインは彼女の体にこぼれて、シルク生地のパジャマ、滑らかな肌、白皙な頬、瑠璃紺の髪を全て濡らす。


 純潔な少女に引っ掛かった血のように、汚す。けれど同時に少女の絶美を引き立せる。


 目を開けて、遠く離れた場所に一本の黒煙が天まで上がる。


『偽造した座標を命中、着陸プログラムを完成した』


 部屋の机の上にある漆黒の石版ーフェイク・サテライト・ポジショニング・システムから、無機質な声が聞こえた。


 月璃は無表情のまま空に上げたグラスを引いて、残りの赤ワインを一気に飲み干す。


「あなたの血なら、もっと美味しいと思っていたのですけど」


 少女はゆっくり微笑みを浮かべた。


「そうではなさそうね……お父さま」


 それは成年式での賓客たち、そして夏涼までも想像できなかった笑顔だ。戦慄する程の寒さ、けれど鮮やかで美しくて、血に染められた氷彫の薔薇のようだ。


 凄艶、絶美、同時に儚くて脆い。軽く触ると、この美しい笑顔は氷晶のように砕け散って、消えてなくなりそうだ。


 月璃は空いたグラスをベランダの欄干を超えて、遠方の黒煙に向ける。


 グラスはベランダから落ちる。


「おね……さん?」


 女の子の困惑した声は月璃の後方からした。


 後ろに、パジャマを着た日琉は手で目尻を擦り、眠そうな顔をしている。


「ごめん、起こしちゃった?」月璃は柔和な笑みに変わった。


 日琉は首を横に振って、そして少し目を見開いた。


「お姉さん……服が濡れた……」


 月璃が返事する前に、日琉はドドドと部屋に駆けて行き、数秒後にタオルを持って月璃の前に戻ってきた。


「あげる」彼女は月璃にタオルを差し出した。


「ありがとう。」月璃はタオルを受け取って、ゆっくり赤ワインで汚れた部分を拭いて、タオルを畳んで日琉の手に戻した。そして両手で彼女の肩を掴んで部屋の方向に向けて、軽く押す。


「日琉、寝る時間だよ」


「お姉さんは?眠れないの?」日琉は振り返る。


「いええ」月璃は微笑みながら首を振った。「実は姉さんは起きたばかり」


「さっき寝てたの?」日琉はお姉さんがいつ寝てたのかという顔をしている。


 月璃はしばらく黙り込んで、軽く言う。「うん、綺麗で、長い長い夢を見た。けれど……もう終わった」


「綺麗な……夢?」


 月璃は顔を空に向けて、ベランダの外で、そっと舞い降りている銀青色の月光を反射する白い雪を眺める。


 彼女はつぶやき声で続ける。「夢の中で、寒霜城には夏があるよ」


「夏?」日琉は頭を傾げる。「でも……寒霜城には夏がない……秋と冬だけ」


「ええ、目覚めた後ついに思い出したの。寒霜城には夏がない」月璃は微笑んだ。


「お姉さん……変なの」


 月璃はまた沈黙した。彼女は頭を上げて、雪のように穏やかな表情で離れた場所の黒煙を凝視する。


 十数秒後、彼女は日琉の手を繋いで、再び温かい笑顔を浮かべた。


「寝よう、姉さんはそばにいてあげる」


「うん……」日琉は頷いた。




 月璃が側に付き添ってくれた後、日琉は素直に布団に入った。


 月璃はベッドの端に座って、日琉の柔らかくて小さい手を軽く握る。


「お姉さん、さっきの大きな音……またくる?」


「もう二度とないよ」月璃は首を振る。


「あの声に……起こされた……ちょっと怖い……」布団の中でいる日琉は頭だけを出している。


 月璃は指先で日琉の髪を軽く梳きながら優しく言葉をかける。「怖がらないで、あなたを傷つけることはもう……全てなくなった」


「お姉さん……」日琉は月璃を無表情のまま見つめたが、不安の色がその瞳に光っている。「……もう私から離れない?」


「……」月璃は唇の端で柔和な微笑みを描く。「……ええ、もう二度と離さないよ」


 彼女はもう日琉を二度と離さない。だって彼女は日琉の英雄だ。ただ一人のために存在する……英雄。


 それ以外、何も残さない。残す必要がない。


 そして、とっくに疲れたのかもしれない。ただ十数秒の時間で、日琉は浅い呼吸のリズムの中で寝てしまった。


 月璃は静かに彼女の無垢な横顔を見て、手のひらで少女からの温もりを感じている。小さい火が掌を焼き、冷たい手を温める。


 彼女はそっと手を離して、立ち上がって、机の前に歩いて座った。


 机の上に、二つのもの、開いたアイビス日記と石版が並んでいる。石版の上に青紫色の立体的な文字が空中で浮んでいる。こういう文字の名前がプログラムコードということは、今月璃はすでに知っている。そしてその中のロジックを大体理解した。


 彼女は右手でもう冷めたマグを持ち上げて啜りながら、左手で宙で文字を何度かタッチして、プログラムを閉じる。


「この味……」彼女は突然眉を顰めて、マグを眺める。例の茶葉なのに、なんとなく、馴染みのない味になった。


 そして顰めた眉を少しづつ緩め、彼女は何かを思い出したそうに、そうやってマグの底の茶殻をぼんやりと見つめる。数秒後、マグを軽くテーブルに置いて、彼女は呟いた。「茶を入れる人が変わった。なら茶葉も変えた方がいいかも」

 彼女はアイビスの日記に目を向けた。


 夏涼とともに翻訳した時に、まだ翻訳していなかった部分は、ちょうどさっき、全て完成した。


 月光を借りて、月璃は静かに日記をめくる。今回彼女は翻訳したテキストを紙の上に完全には書かなかった。隣の紙にあるのは少ない注釈だけだ。何しろ、誰かに見せる必要がもういない。


 完全に翻訳した後、上に記録されたのはある少女がもう二度と会えない恋人に対して最も純粋な、素直な思いだ。


 月璃はおもむろにページをめくり、日記の最後のページで止まった。


「本当に、愚かな少女ね」月璃は淡々と言って、日記を閉じた。


 日記と石版を持ち上げて、片付けるつもりが、一枚の紙切れが日記の後半から滑り出した。


 それはいつの間にか日記の底に挟まれていた紙切れだ。


 紙切れの上にある丁寧な筆跡を見て、月璃は動きを止めた。そのまま凍結されたように。




『月璃、早く休みましょう。

 また食事を忘れないでください』




 暫しの間、月璃は無表情で紙切れを見て、そしてそれを引き千切って、ベランダに出て、紙屑を手の中で風に吹かせていく。


「あなたも同じ愚かな人間なんだね、涼」あるのは、この嘲笑だけ。


 身を翻して、彼女は石版と日記を持ち上げて、つま先立ちしてそれらを本棚の最高層に置いた。それは幼い頃の彼女がどんなにジャンプしても、手に届かなかった場所だ。




 愚かな悲劇しか置かない場所。




 最後、彼女は日琉にまた床へ蹴られた布団を拾って、日琉に軽く被せる。愉快な笑顔を保ち、彼女は部屋を離れた。


 廊下で、様々な雑物を収納した木箱を持っていたメイドがちょっど月璃の方向に向かって歩いてくる。彼女は月璃と少し親しい一人のメイドだ。


「月璃殿下、ご無事ですか?さっきどこかで大きな音がしましたよ」メイドはまだ落ち着かない顔をしている。

 月璃は微笑みながら首を振った。


「あら、服が污れてしまっていますよ」


「大丈夫、今からお風呂に行くつもりから」


「……」メイドはふと一歩近づいて、月璃の顔をしげしげと眺める。「殿下、何かいいことがあったんでしょ?」


「ん?どうしましたの?」月璃は笑顔を保つ。


「機嫌がよさそうです」


「いええ」月璃は笑顔がもっと溢れる。「ただ、ようやくずっと苛立ちを感じさせられていたことから抜け出しました」


「えぇぇ~」メイドはクスクス笑った。「また、どこかのしつこい貴族にプロポーズされたんですか?」


 月璃は返事をせず、ただ微笑んだ。


 離れようとする時、月璃はまた振り向いて、メイドの手に持っている雑物箱を見る。


「これは?」


「誰かが倉庫の一番奥に置いたみたいなんです。用途はわかりませんが、一部は相当に貴重に見えますから、お掃除の前に他の場所に置いて、あとでもとの場所に戻るつもりです」メイドは少し困ったような顔で言った。


 中のものは多くはないが、さまさまな種類がある。透明な缶に浸す銀色の熊の手、觀月預言者用の小型占い道具、紅木彫のチェス、精緻な小箱……


 月璃は無意識のうちに手を伸ばして、小箱を持ち上げた。なぜかわからないが、彼女はそれが気になった。


 ゆっくりそれを開けると、中にあったのは、過去月璃に馴染みがあったアクセサリーだった。


「わぁ……」メイドは感嘆した。「この蝶の髪飾りはすごく綺麗ですね、もしかして……これ、全部黄金で作られたものですか?」


「……」月璃は呆然として立ったままでいる。


「……月璃殿下?どうかしましたか?」


 月璃は彼女をよそに、視線を小箱に向けた。小箱の上に、小さい木製ラベルがあり、数字が書いてある、797。

 雑物箱をあさって他のものも見ると、全部数字のラベルがつけられている。


 797、799、800、801、802、803、連続番号の中で、798しかない。


「それは……年度」月璃は小声で言った。


「年度?なんのことの年度月璃殿下は知ってますか?


「そうか……」月璃は軽く言う。「……真月曆797年、彼が髪飾りをくれたあの年だった。798がないのは、その年のプレゼント、翼竜のぬいぐるみは私が先にとっちゃったから……」


「……え?あれ?これらのものは殿下のものですか?」


「いええ」月璃は首を振る。「これは夏涼のものです。毎年用意したけど一度も送らなかった誕生日プレゼント」


「えぇ?」メイドは困惑した顔をする。「誰にですか?月璃殿下になら、毎年お送りになっていたんではありませんか?」


「……いや……月璃・アルフォンスへのものではなく……これらは……私のために用意したもの……」ぽつり、と、月璃は言った。


「月璃殿下?何かをおっしゃっいましたか?」メイドははっきり聞こえなかった。


 月璃は少し沈黙して、ふとメイドに甘い笑顔を見せた。


「なんでもないわ、お疲れ様、残りのものはもういらないですから、捨ててください」


 もし普段の月璃の柔和な微笑みが淡い白光を反射する月光石と言うなら、今この瞬間の月璃の笑顔はまるできらきら光っている眩しい宝石のようだ。


 メイドは唖然として【傾月】の珍しい甘い笑顔を見て、突然顔を赤らめて、頭を下げた。


 なぜ詩人は月璃をこの名前と呼んだのか、彼女はようやく理解した。この美しさ……本当に月まで落とすくらいのレベルだ……


 月璃はメイドの反応を見ず、髪飾りを手の中で握って、前へ早足で歩き出した。


 廊下に沿って移動しながら月璃は笑顔を保ち、通りがかりの全ての下僕たちに頷き、鼻歌を歌までも始める。彼女のいい気分に気づいて、他の人たちも笑顔を浮かべた。【傾月】の久しぶりの甘い笑顔は、葉を捲る涼しい風のように、どんなに鬱陶しい気分の人も、晴れ渡らせることができる。




 そして、月璃はついに風呂場に到着した。鍵である細長い木切れを引き下ろした後、煌びやかな風呂場は一瞬で一匹の蚊すら入れない密室になった。


 この風呂場は智の月財に記録されたデザインを使って作られ、公爵邸の一番贅沢なところだ。公爵の家族しか使用できないが、毎日のメンテナンスには大量の人力が必要だ。


 笑顔を持ち続け、月璃は鼻歌を歌いながら床の中央に穴が掘られた浴槽に歩いて、黄玉とヒノキで作られたスイッチを回転させる。




 じゃーじゃー......




 白色鉱石で彫刻した牡鹿の口から、水が流れ始める。


 月璃はスイッチを回転させ続けて、水の流れを最大にした。風呂場ですぐ水蒸気が立ちこめる。


 彼女は黄金蝶の髪飾りをつけて、素足で巨大な浴槽に踏み入れる。


 爪先は軽く水を踏んで、腕をゆっくり振る。


『星空のステップ』という短い曲の鼻歌と伴って、彼女は広々とした風呂場でひらひらと舞い始めた。


 独りで、月璃はもともと二人必要の舞を軽快に踊る。ぼんやり現れる蒸気と煌びやかな壁は深い霧に包まれた久遠の王国にいる錯覚を人に与えて、そして少女の潤んだ瞳が、古城で最も明るい黒真珠だ。


 純金で作られた蝶の髪飾りは霧の中で微かな光を輝き、彼女の動作に連れて薄い蝶羽を振動させる。


 それはまるで、この歌はもともと一人一蝶に属する舞のようだ。


 蒸気は蔓延し、蝶は舞う。


 すべて、幻夢の如く。


 短くて儚い夢の中で、月璃はただ踊って踊って、踊り続ける。


 一途一心、敬虔に、神に捧げる曲を踊る。


 時間が経つに連れて、軽い鼻歌の声はどんどん小さくなり、喧噪な水音と水を踏む音にかき消されゆく。


 少しずつ、少しずつ、月璃は自分の歌声が聞こえなくなる。


 踊りは突然途切れ、彼女は止まった。




 歌も止まった。




 今回、彼女はなじみの曲を歌い終わらなかった。


 月璃は浴槽の真ん中に立ち止まり、水煙が瑠璃紺の髪の毛を頬と首に乱れて貼り付けさせた。彼女は全身の服がビショ濡れになり、体をまっすぐにして、背中が踊る時にあるべきの優雅な弧度を保つ。


 じゃーじゃーと流れている水の中で、月璃は笑顔を保つ。


 俯いて、下の池を見つめ、笑顔を浮かべている自分を見つめる。


 それは完璧と言える笑顔だ。傾城傾国、傾月までと呼ばれた顔は大量の練習の上に繊細なコントロールを可能にした。少し曇った笑顔とか、輝くような笑顔とか、この中性で完璧な笑顔は、見る人に自由に自分の理想を貼り付けさせられる。


 けれど月璃自分だけが、その顔に、何も見えない。




 まるで、他人の顔。




 手を上げて、彼女は蝶の髪飾りを乱暴に引きはがす。


 突然力を失って落ちる両膝は水に浮いている笑顔を徹底的に破砕して、雫となって飛び散らせる。


 彼女は無表情で、唇が青くなるまで噛み、両手で蝶の髪飾りを握りしめて左胸の前に置いた。それは過去二人で約束した手振りだ。互いに会話ができない時のメッセージ。


 ゆっくり、ゆっくりと、彼女は頭を下げた。




「ううああああああああああああああああああああああああ……」




 数年を隔て、少女の涙はもう一度霧中の晨星と化す。


 かつて、壊れやすくて最も貴重な宝物を扱うように、おそるおそる、彼女の涙を拭った指先は、今回、現れなかった。




 ……




 アイビス日記、月璃が翻訳した断片:


 この数年は依然として幻の日々だ。そして君も依然として私の隣にいない。


 知ってるか?ここは本当に太古の童話のようだよ。私は今一人で丘の上に座ってる。緑色の大地、青色の空、遠くから吹いてくる風は草の淡い匂いがする。


 へへ……ここまで読んで、君はまた私の修辞技法は悪いと言いたいんだろうね。


 アカシック、ここにいる私は、毎日楽しかったよ。心残りのない幸せという目標に向かって日々に努力してる……言いたいのは、それだけ。


 だけど、日々が楽しくあれば楽しくあるほど、心のある部分は悲しくなる、君がいないから。


 この土地に落ちてから、五年をかけて、私はようやく既存の科学技術でフェイク・ポジショニング・システムと衛星ネットワークをハックできるタブレットを完成した。


 そしてあれからまた五年、私は依然としてプログラムを起動する勇気が出せなかった。


 怖いから、自分に残ったわずかな時間で、君の果てし無い時間を縛ることを。


 ここは素晴らしい世界だ。


 この素晴らしい世界で、君はきっと素晴らしい人と巡り合うでしょう。


 その人は、私じゃなくても大丈夫だ。


 アカシック、私たちの時間はすでにずれた。


 長い長い夢から覚めた後、君はまだ私のことを思い出すの?


 もしそうなら、私はここでずっと君を待ってる。


 たとえそれは、生と死の境界線を隔ても。             

  』



 《1巻》 終わり


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