-傾月-〈貳拾壹〉罪 4
……
どのぐらい経ったか分からないが、カロは鼻を突くような酸性臭を嗅いだ。彼の嘔吐物の匂いだ。
長い時間が過ぎて、彼はようやく意識が薄れる状態から目覚めて、嗅覚がもとの機能を発揮する。
嗅覚の次は聴覚。彼は気づいた。ある細やかな、ごそごそという変な音が彼の後ろから聞こえる。
長く時間膝をつき、手を地面についている姿勢になったので、彼は全身に筋肉痛を感じた。約半分の時間をかけて、彼はゆっくりと立ち上がった。
振り返って、後方、いつの間にか現れた巨大な白銀色の網がある。
『γ』、人型の紅雪種は網の真ん中に横たわっている。よく見れば、それは本物の網ではなく、縦横に交錯する白銀色の液体だ。この液体は周りの蠍の残骸から流れ出して、渓流が川に集まるように、地形の高低差を無視し、自動的に真ん中の人型の紅雪種に流れている。
カロが聞いた変な音は、この液体が流れる音だ。
銀白色の液体はカロが肉眼で見える速度で、ゆっくりと紅雪種の傷を修復する。
人型の紅雪種の隣に、斜めに王国制の軍刀が立っている。
この一瞬、カロは理解した。一体公爵が話した言葉、彼に選択を任せるというのは、どういう意味だったのか。
彼は『γ』にふらふらと歩み寄って、無意識のうちに、この軍刀を抜いた。
英雄の気まぐれで、彼に一度復讐の機会を与えた。
普段、例え背後から不意打ちを仕掛けようとしても、ただ1、2本の刀に突き刺されても『γ』にとって痛くも痒くもない。しかし今は、そうではない。
極限の回復状態に陥っているせいか?『γ』の身体の真ん中に、一個の橙色の光玉が光っていて、銀白色液体の輸送に伴って規則的に脈打っている。
それは『γ』の弱点だろう。何の根拠もないが、カロはそう確信した。もしあの光玉を破壊すれば、いくら『γ』でも回復できないだろう。
カロは両手を逆手にしてその刀を掴んで、光玉に向ける。
そして動きが止まった。長く、長く静止した。
どんなに両手に力を込めても、カロは刀を刺すことができず、関節がスタックしているようだった。
はっきりとわかっている。こんなチャンスは二度とやって来ないだろう。ナナのの仇を討つチャンスは、多分、今回しかない。
しかしカロは依然として刺すことができない。
これで、復讐と言えるのか?
脳裏に、この問題だけが自分を質問し続ける。
罪悪感を全く持っていない、単に機械で構成された『γ』を破壊する。それは、ナナの仇を討つのと言えるのか?
これはまるで、天災で家族を失った人が自然に復讐することを決心するようだ。紅雪種は人類にとって、天災の化身のようなものだ。
意味がない。カロの優秀とは言い難い頭脳でも、それが意味がないことを分かっている。
けど、だけど、そうしないと、理不尽な運命に対して、彼はまた、誰に怒りを吐き出す方がいいのか?
天災に復讐しても、それとも天災の化身に復讐しても意味もない、ただの自己満足に過ぎないんだろう。しかしもしこのような自己満足にしがみつかないと、カロは自分を正常に維持することができない。
もしそうしなければ、自分を許せない。
許せない、まともな別れを与えなかった、何も伝えなかった自分を。
許せない、心はナナに救われた、まだ何も報われたことのない自分を。
許せない、ナナが世界の隅で死んだ時、何も知らない自分を。
許せない、何も知らない、何もできない、この『無知無能』の自分を。
でも、軍刀を刺し下ろし、この無意味な復讐を完成したら、自分を許せることになるか?
カロは答えられない。
ようやく選択した時、カロは急に気づいた。自分は選ばれない。
しかし、彼は選ばれないけど、時間は、勝手に……彼の代わりに決定を下した。
「カ……ロ……さん?」
人型の紅雪種は気だるげに背筋を伸ばした。さっきの重傷のせいかもしれないが、服を構成していた部分は全て省略された。彼女は全裸になった。
まるでわざとのように、日差しを浴びて、邪念すら感じずほどの綺麗で健康的な小麦色の肌はカロの前で丸見えになった。だが、カロは相手に正常な男の反応を与えなかった。
彼は慌てて軍刀を握りしめて、人型の紅雪種の身体中央に向ける。
「う、動くな!」彼は叫んだ。声が吼えたように、悲鳴のように。
人型紅雪種はまず怪訝そうに彼を見て、そして目つきがどんどん柔らかくなる。
自分の見間違いではないかと疑うほどの、紅雪種に属するべきではないくらいの微細な目つきの変化だ。
「いいよ、どうせ死ぬなら、カロさんの手で死ぬほうがいい」彼女は軽い声で言って、唇を噛んだ。「けれどナナはまだ死にたくない。ナナは生きたい、カロさんと一緒に楽しく生き続けたい。今すごく苦しんでそうなカロを慰めたい」
カロは歯を噛み、軍刀を握った両手が震えている。そう、感動するセリフだ。しかしナナからこんな機会を奪ったやつの口から聞いても、皮肉しかない。
これを思うと、憎悪はカロの脳裏に再び燃える。カロは考え始めた。今なら、まだ間に合うかもしれない。『γ』が完全に回復する前に、彼女を殺す機会がまだあるかも……
サクサク……
そうしていると、彼らの後ろに新しい足音が聴こえてくる。
カロは驚いた。まさか公爵が帰ってきたのか?しかし振り返ると、来たのは金髪の英雄ではなく、白髪、顔に傷跡があり、全身がぼろぼろで、危うい空気が漂っている男だ。
「ちっ……お前か」白髪の男は口を開いた。
この男を見て、カロは体中に寒けが走る。
彼は先ほどもう一人の公爵軍将校と一緒に、帝国軍の中でカロを追い詰めてきた人物だ。
彼は全裸のナナを一瞥して、そしてカロを睨んで、不機嫌面で舌打ちした。
「お前、帝国軍の将軍である.......本陣で指揮せず、こんなところで隠れて女と遊んでいるのか?」
彼の顔がどんどん険しくなって、冷笑し、土から蜘蛛が残した金属の棒を抜き出した。
「ふん、お前は運が良いな。お前みたいクズ、普段、俺にとっては手を出す価値なんてちっともないが、生憎、俺は今すごく不快な気分なんだ。だから……死ね!」
余計な言葉を省いて、白髪の男は金属を構えて、踏み出し、迸った殺気が洪水のようにカロに襲ってくる。
カロが握った軍刀はカタカタと震えて、頭は真っ白になった。恐ろしすぎる殺気のせいで、彼は素人に最も起こりやすいミスをした。戦う時に目を閉じた。
しかし数秒後、予想した死は来てなかった。
ゆっくり閉じた目を開けて、目の前にあるのは、紅雪種の裸の背中だ。
さっきカロが公爵の前でした動作と同じのように、人型紅雪種は両手を広げて、白髪男の武器に向かって、カロを守った。
なにそれ?
カロの脳に最初思い浮かんだ考えは、この疑問だ。
武力のない自分と違い、もし人型紅雪種が本気になったら、多分数秒足らずの時間で目の前の白髪男を引き裂くことができるだろう。しかし彼女はそうしなかった。逆にわざと自分がしていた、意味のない行為を真似した。
......なにそれ?皮肉?
カロは予想した。次の一秒、人型紅雪種は振り返って、冷ややかで機械的な口調で彼にそういうかもしれない。『人類、先ほど其方がした行為を真似したが、我は依然として理解不能だ、一体、これは何の意味があるか?』
しかしカロの予想を超えて、人型紅雪種はただ両腕を震えさせながら前の白髪男を見つめて、强がりの震え声で話す。「カロさんを殺すつもりなら......まずナナを殺せ!」
カロは呆れた。おいおいおい、声までかよ、そこまで真似する必要があるか?
「そ、それと、カカカカカロさんはクズではないよ!」自分の話の信憑性を増やすためらしい、赤ちゃんと同じのように全裸なのに、人型紅雪種は自ら鋭い金属棒に一歩を踏み出した。
カロはぎょっとした。それは......もう模倣ではない。さっき、カロはそこまでしなかった。公爵に向かった時、彼はこんなに堂々として、凛としていなかった。
ふと、もう一つの可能性がカロの頭の中で思い浮かんだ。
今『γ』の様子は、まるで部族にいた時、『γ』は自分が本当のナナだと思ったのと同じだ。まさか……
……まさか公爵は、『γ』に何をしたのか?
カロが思考する間、白髪男は彼らを冷ややかに見る。
数秒後、彼は金属棒を捨てた。
「興醒めだ」
身を翻して数歩歩いた後、彼は突然に地上の砂石を強く蹴って、クソッと罵って、そしてだんだんと砂塵の中に姿が消えてゆく。
カロはホッとした。ナナは両手で自分の体を抱きしめて、膝をついた。
「うううっ……死ぬかと思った……本当に死ぬかと思ったよ……ナナは今、カロの愛の抱っこが必要だ……」
それを無視し、カロは自分の仮定を確認し始める。彼は呼んだら、必ず返事をする名前を喚ぶ。
「おい、『γ』、お前いたのか?」
「……ガンマ?誰のこと?」人型紅雪種は首を傾げて、そして急に目を見開いた。「も、もしかして……ナナがいるのに、カロは他の女と浮気してるのか……ひどい、ひどいよ……ナナはカロを助けたのに……ナナのことに全く関心を持たない……しかもすぐ他の女のことを言う。その女はそんなに大事なものなのか……うううっ……ひどすぎるよ」
沈黙しながら、カロは思い出した。英雄最後の言葉-君の選択に任せるという言葉を。
どうやってそれをしたのかわからないけど、英雄の気まぐれは、『γ』に『γ』としての記憶を消えさせて、再び自分がナナ本人だと思いさせた。
軍刀を捨てて、カロは自分の薄い髪を掻いて、ため息をついた。彼は上着を脱いで、作り泣きしているナナの身に掛けた。
「え?……どうしてナナは服を着ていないの?」カロの動作によって、ナナはついに自分の裸姿に気づいて、驚いた表情をした。「そもそもここはどこ……ナナはどうしてここにいる……え、えええええええ?……まさかナナはカロに睡眠薬を飲まされて………そそそそしてこの無人の荒野に連れて、ああああああんなことをされたの?……うううぅ……感動した、ナナは本当に感動したよ……カロさんは……ようやくナナの魅力を理解した……いたい!」
カロはナナの頭を叩き、彼女のくだらない妄想を止めた。
そして彼はナナに手を伸ばして、優しい声で話す。
「行こう、こんなところ、俺に……俺たちに似合わない」
夢であるものは、夢の中だけで考えればいい……知っている、彼はいつも知っている。
しかしたとえ夢でも、ただの夢と知っていても、目覚める勇気、それは彼にはない。