-傾月-〈貳拾壹〉罪 1
何もなかったはずの荒野は、今、すでに見る影もない。
巨大な蜘蛛は倒れ、無数の細長い金属残骸が、ばらばらに、別々の角度に地表に差し入れていた。
地面は穴だらけになって、蠍たちは蟻のように、黒土を割って出続ける。しかしこんな数の暴力を前にしても、彼らの目標は、ただ一人だ。
長刀は墨の如き、漆黒の光の弧を描き、男の周りに零す。
半径5尺内の9匹の蠍の上半身が一気に飛び上がて、薄い紫色の電流が滑らかな切り口の上に踊る。
もし人間ならば、この一方的にやられる状況で、とっくに戦意を失って、総崩れになるだろう。
しかし彼らは紅雪種だ。たとえ圧倒的な力が前にいても、彼らには恐れという感情はない。仲間の殘骸を踏んで、彼らは地下から湧き出し続け、機械的に受けた指令を執行する。
この指令は、攻撃指令でさえない。ただ、大きな動きで砂塵をあげて、指示を出した人を掩護するだけだ。
砂塵の掩護のおかげで、『γ』は公爵の視界の死角に沿って急速に走り、ばらばらの蜘蛛の残骸という金属の塊を遮蔽物として移動し続けて、体を隠す。
片腕を失ったので全体のバランスに少し問題が起こったので、今『γ』の走る最大速度は普段の74%しかないが、それでも普通の人間より5倍以上速い。
『γ』は1本の斜めに地上に刺された金属の塊の後ろに止まって、次のダッシュ機会を待つ。目標までにあと11メートルだ。『γ』にとって、力が完全静止から爆発まで、この距離なら、0.5秒で完走することが可能だ。
もし相手が尋常な人間なら、こんな高速の動きの前では、瞬きすらできないだろう。
だけど相手は『γ』の同胞と自称し、しかし群体思考ネットワークには登録されていない男だ。『γ』のデータベースの中で、名前以外、あるのは先ほど戦場の離れた場所で観察して収集した体の数値だけだ。そしてそのデータが完全に間違っていることは、『γ』はすでに体得した。
『γ』は左腕があったはずの、今空っぽの場所を見た。ただ一秒すらなかった交戦で、ただ一度の油断で、『γ』は左手を失った。
紅雪種にとって、『油断』というものは、一つの可能性でしかない。つまり、既存データベースに基づいた予測結果は現実の各数値とはあまりにもかけ離れているので、大幅に調整しなげればならない状況だ。
しかし、すでに一度データベースの数値を大幅に調整して、3つまでの標準偏差の誤差値範囲を推定したが、何故か分からないが、それでも『γ』は数万回脳内で模擬対戦した結果を信頼できない。
「これが人間のいわゆる……『嫌な予感』?それとも、『勘』と呼ぶべきか?」『γ』は頭を傾けて訊ねた。慣れたように、とある男の不機嫌な返事を待っている。
誰も返事をくれない。
カロはとっくに彼らの交戦区から逃げたので、当然、返事をしてくれるはずがない。
だから『γ』は無用な思考をやめて、思考の演算機能を二つの部分に分けた。一つは、身体の足の部分。
『γ』の足は変化し始める。褐色、少し肉感があり、柔らかそうな太ももは変形しつづ、膝関節がまるで折れたかのように折れ曲がる。わずか数秒で、むっちりとした少女の両足は強力な動物後肢に変わった。
足を改造した後、11メートルの距離、今、0.2秒すらいらない。
けれども、それでも足りない、ただそれだけなら、相手を倒すためにはまるで足りない。
だから、彼女は開放された演算能力を、全て二つ目の部分、群体思考ネットワークに投入した。
群体思考ネットワークを使って、『γ』は意識を既存の体から抜き出して、移転、戦場のもう一つの位置に再構築する。そこは、公爵に対して約90度の方位、数百匹の銀蛇が土の中で潜んでいる場所だ。
より高い権限で制御権を取得すると、『γ』の意識は数百匹の銀蛇に分散して、銀蛇の体が土の中で互いに絡みついて、螺旋に固定して、組織し部品化した。
それは、数百匹の銀蛇で模造された巨大弩弓だ。
先ほど観測した国王軍の巨大弩弓の構造と電磁加速技術を組み合わせて、『γ』は使い捨ての銀蛇製発射器を作った。
蜘蛛の脚の残骸という金属棒を台座に固定し、絡みつく銀蛇の弦を締めて、エネルギーを集めて、平行のレールに電流が躍る。
力が銀蛇の潮流の中で一時渦になって、一気に開放された。
土砂が爆裂し、金属棒が瞬射された。
灼熱の金属の塊は暴虐な白光と化して、大地を切り裂き、道にいる全ての敵を飲み込み、超音速で目標へ撃つ。
それは現存する文明のどんな武器よりも速くて、より単純的な、より強大で暴力的だ。
しかし、絶対の黒、光まで、斬殺する。
黒刀を横に一閃する。白光が両断されて左右に飛んで、残りの蠍を一気に吹き飛び、地面に2本の十数メートルにおよぶ、底の見えない黒い溝を掘る。
規格外の武器が、0.1秒もない時間で、より規格外の武器に簡単に圧倒された。
しかし『γ』が狙ったのは、まさにこの一刀が終わる瞬間だ。
黒墨と白光が衝突した刹那、意識が本来の肉体に戻った『γ』も、もう一つの方角から動いた。
変形の强力な後肢で地面を蹴って、11メートルの距離を一瞬でゼロにして、四指を揃えて公爵の首に刺す。
公爵はすぐに『γ』の奇襲に気づいた。しかしいくら人間の肉眼を超えた刀を振り回す速度を持っても、瞬間に金属棒を斬った刀を引き戻すことができない。
刃を転向する間も無く、公爵は漆黒の刀身の横面で首を守る。
すべて、『γ』の予想通りだ。
どんな鋭くても、どんな硬い素材で作られた刀でも、横面に衝撃を受けた刀は折れるしかない。『γ』の予測で、彼女の手はこの極薄で重量がなさそうな刀を貫いて、公爵の首以上を切り飛ばそうとする。
次の一秒、『γ』の残した腕は徹底的に消えた。
切断されてもなく、分解されてもなく、溶けられてもなく、文字通りに……消えてしまった。
そうやって、彼女の腕はその刀に陷没して、物質的に消えてしまった。
墨で描き、『γ』の左膝以下を切り離した。『γ』は自動的にバランス機能を発揮し、四肢で最後に残された右足で膝をつく。
普通の血より色の薄い体液が大量に流出している。しかし『γ』はそれを処理しなかった。ただ首をあげると、公爵と目が合う。
「切断ではなく、消滅だな」『γ』は突然口を開く。「この刀は摩擦力を無視することができて、常に超高速で振るうのは、実際は物を切断ではなく、ほぼ単分子の刃の表面で触れるものを全て消滅するためだ。なるほど……我は、また『油断』をしていたようだ。」
「この『吞月』が何をしたのかを理解できるのは、200年の間、君一人だけだ。」公爵は相変わらず微笑みを保つ。
「光すら飲み込んだ。だから刀身が真っ黒になる……しかし我は二つの情報をつなげて考えなかった。古典物理のエネルギー保存則をも突破できる状況は、たとえ数億個の予測の中でも、最低の可能性に置かれた。」
「これが人類と紅雪種の間の差別だ。君は、感性が足りない」
「……」『γ』は少し黙って、頷いた。「我は感性が足りない」
「最後、何か言いたいことがあるか?」
「この戦争は、其方によって作られたものか?」
「おお?なぜそう思う?」
「我のデータベースに項目を追加し、偽りの指令を偽造できる人は、そうそう多くない」
「気づいたか?君の思考は想像以上に優れた進化を遂げた。そう、全ては私が画策したものだ。だから君に私が苦労して準備した舞台を台無しにされるわけにはいかない」公爵は微笑んだ。「もし君も数年かけて、ようやく素晴らしいトランプタワーを完成させたとしたら、最後お楽しみの部分、破壊の仕事を他人に任せるわけない、そうだろう」
「目的は……なに?」
「私の目的はなにか……」公爵は頭を傾ける。「……間も無く消滅される君には、どんな意味があるか?」
「……わから……ない……今このような……無意味でも……知りたい思考経路は……多分……人間の好奇心でしょうか……」『γ』の言葉が途切れ途切れになって、機械音で声を混ぜた。
公爵は『γ』の目を凝視し、観察し、数秒間沈黙した。そして、
「君の意志を認めろ、返事します」彼は頷いて、軽い口調を止める。「朽ち果てる前に、もう一度アイビスに会う……それが私の目的だ」
「……」『γ』はしばらく黙り込んだ。「そう……か……たとえ……お母様……それを一度も……望んでないとしても?」
「創造者の思考から抜き出す。それこそは、私たちが魂をもらえる唯一の道だ。残念ながら……君にはもうその機会がないな」公爵はおもむろに刀を上げて、『γ』の体の中央、演算核心の位置にに向ける。「おやすみ、『γ』」
「止めろーーー!」
巨大な石が公爵に投げられた。公爵は黑刀を使わず、一歩後ずさりして躱した。
『γ』は両目を見開いた。初めて、彼女は人間の方法で驚きを示した。
先ほどから今まで、公爵に会ってからのことは、いかなる基準においても、異常事件と言ってもいいだろう。
しかし今この瞬间、『γ』の目の前には、今まですべての異常を合わせても、さらに理解できず、演算能力を超えたことがある。
『無知無能』の人間は、息を切らしながら駆けてきた後、彼女の前で立って両手を広げた。まるで……公爵から彼女を守るように。
「ここは普通の人間が干渉できる戦場はないぞ」公爵は静かに事実を話す。
「ああ……知っているさ。英雄とか化け物とかのお前たちと比べて、自分がどんなに弱小……どんなに無力ってことも、俺、自分が一番わかるよ」知っている。こんな弱い者の空威張り、相手にとって何の意味もないことを。しかし体が震えても、カロは依然として公爵から目を逸らさなかった。「だけど……それでも……黙ったままこいつを殺させるわけないだろう……俺……俺は……こいつと……まだ何も決着をつけてない」
「おお?それで、どんな決着をつけたい?」公爵は面白そうな目で彼を見る。「君たちの茶番を演じ続けるか?それとも、自分の手で彼女を殺すつもりか?」
「俺……俺は……」怖くて、感情が高ぶる。同時に、言葉を紡ぎ出せない。
自分すらわからないもの、正しい言葉になって伝えきれない。
「君が求めているのは……ただの、『湖月』みたいものだ。それでも、そのために命をかけたいか?」公爵は目を細めて、刀をカロの首に当てる。「まして、誰でも、命をかければ、必ず命に相応しい、結末を変えるチップを手に入られると思うか?」
「それでも、俺は……俺は……」カロは目を見開いて、だけど頭の中で知識があまりにも足りないので、高ぶる感情をかっこいいセリフにできなかった。彼はただかろうじて体を支えているが、無様に全身が震えている。
話すらうまくできないカロを眺めて、公爵は黒刀を鞘に収めて、おもむろに前に歩き始める。
カロの広げた両手がまるで引きつれらるかのように、歯と共に震える。
しかし公爵の視線はもう二度とカロに向かなかった。まるでカロが存在していないように、彼は平然と前に歩く。
「どけ」
耳元で軽い声で話された言葉なのに、カロの周りの重力はまるで急に数倍増強したかのように、彼の不屈を簡単に押し付けて砕く。
気合いで支えていた足が耐えきれなくなって、彼は膝をついて、両手を地につけて、嘔吐した。胃の内容物を全て吐き出した後、体が本能的に足りない酸素を補充するので喘ぐような呼吸をする。
公爵はさりげなく彼のそばに通り過ぎた。カロは両手に力を込めて、短い爪で地を抉って、手のひらの中に深く食い込ませた。首が木のように硬くて、振り向いて後ろで起こることを見届けることができない。
できない、勇気がない、したくもない。
ただ灰色の土壌と自分の嘔吐物をじっと見ている。焦点が合わない。
同じ、また同じだ。
部族から脱出したその夜のように、彼は再び自分に似合わないことをした。
強がり、そして、何も変わらない。
弱者の付け焼き刃、結局、何もを変えることができない。
短い時間で、公爵は歩いて戻ってきた。
今度、カロとすれ違う時、彼はふいに止まって、カロの肩を軽くたたいた。
「君は私の尊重を勝ち取った。だから彼女をどう処置するか……君の選択に任せる」
その言葉を残して、彼は両手を後ろで組みながらゆっくりと離れた。