-傾月-〈貳拾〉膝枕の幻夢 4
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一体どんな勇気が、人を自分より数十倍も大きいサイズの化け物に直面しても、まっすぐに立たせるのか?一体どんな狂気が、窮地に追い込まれた時にまで、人に愉悦と悠然な微笑みを浮かべさせるのか?
カロは片膝をつきながら、【望遠鏡】で離れた場所にいる二人を見て、感心した。
いい言葉がある。狂気は伝染するものだ。そして今彼が見ている二人は、すでに交差感染で、狂気という疾病の末期症状なのだろう。この頭がおかしい人ばかりの戦場は、本当に常識人の自分に合わないとカロはますます思った。
強いて言えば、心のどこかで、カロはあの二人を支持しているのだ。何より、もう一方の異形の蜘蛛と対比すると、こっちは一応種が同じである人間だ。さらに人には、もともと弱者の側に立つ傾向がある。
勿論、この『弱者の側』はもう二度と乗馬しながら千軍万馬を率いて彼を追いかけてこないことが前提だ。
さっき追いかけられた状況を思い返すと、カロは未だに恐怖で身震いする。あれだけの距離を隔てても、彼は依然として二人の殺意、躊躇わず迷わず、真っ直ぐに混乱した戦場を突き抜けて彼へ射ってきた殺意を感じられた。
その時に彼は初めて人の本当の殺意を感じた。紅雪種の機械的な殺戮と違い、しかし同じように、人に簡単に鳥肌を立たせ、足元が定まらなくなった。
もし『γ』が用意した、彼を連れて逃げた銀蛇と彼を援護するための蜘蛛がなかったら、その状況は、恐らく凶が多く吉が少ないかっただろう。
紅雪種を率いた帝国の将軍として死ぬ?ふざけるな!わけがわならないにも程がある。
そう言えば、紅雪種……『γ』あいつは、今ちょうど地底であの英雄を探しているんだろう?
「カ!ロ!さ!ん!」
カチ、骨格と内臓が体の中で押し合って音が出る。後ろからきた強い衝撃がカロの意識はしばらく体から脱がれて、エンドリスに回帰した。
「カロさん?どうしたの?あああああああああ、カロさんが意識を失った。どどどどうしよう……仕方がない、とにかく服をぬぬぬぬぬぬぬがせる」
「クソやろ!何を脱がせてるんだ!」
意識を戻した後、目の前には、赤い顔をして喘ぎながら自分のズボンを脱がせている紅雪種がいる。
カロは怒鳴して、彼の上にまたがるナナを押し退け、行動で人間の尊厳と節操を断固として守る。
「お前一体何をしている?ナナ」
「仕方ないよ、ナナがうっかりしてカロさんを怪我させた。だから責任、そう、治療の責任をちゃんと取らないと」
「これがお前が俺のズボンを脱がせることと、どこが関係ある?ぶつかったのは腰だろう!腰!」
「ナナは引き風ノ人の先輩から聞いたことがある。もし腰椎をうっかりぶつけたら、下半身不随になってしまう可能性がある、だだだから……とりあえず責任を取ろうかな、なんて……」
「お前一体どこの責任をつもりだよ!」カロは怒鳴した。
「えへへへへへへ……」ナナは視線が泳ぎ、声がどんどん小さくなった。
ナナの乾笑い声が消えた後に、彼女の目にはすでに一切の感情を持っていなかった。
カロは舌打ちして、目の前の人はもうナナではないことを理解した。
「よけぇ??、人間、其方が我の視野で占拠した空間は、すでに我が許せる限界を超えた。」
「待って、『γ』、まず俺の体を見てくれ」
「……」『γ』は無表情で、再びシュールな角度で首を傾げて困惑を示す。数秒沈黙した後、抑揚をつけずに尋ねた。「我がもう一度模擬人格に切り替える必要はあるか?」
「……お前もかよ!」カロは額を押す。「俺が言いたいのは、俺の体に何かの異常があるかをチェックしてくれ」
『γ』は頷いて、目の中で小さい機械音を立て、瞳が細くして、下から上までカロの全身を見渡す。
何となく、全裸で蛇に舐め上げられていくかのようにカロは感じた。
「問題ない、内臓と骨格、一応正しい相対的な位置にある」
「……一応正しい相対的な位置に?」カロは生唾を飲み込んだ。
「……一応正しい相対的な位置に?」カロは生唾を飲み込んだ。
「其方の語意から推測すれば、具体的な事例を求めていると推定する。『一応正しい相対的な位置にある』、例えば、心臓は依然肝臓の上にある」
「……」
「また他の例が必要か?」
「……いや、十分だ」カロは顔を押さえ、『γ』が言った通りに立っている所から後退りした。人類を滅ぼそうとする種族に人類の健康状態を聞き、自分もおかしくなかったな。
『γ』は彼への視線を逸らして、遠くの何か企んでいるような二人を観察し始める。
一方、カロは沈黙で『γ』を見る。『γ』が彼のもとからしばし離れた目的は、あの偉大な英雄を処理しに行くためだった。そして今『γ』は完全無傷でここに戻ってきた。すなわち、あの英雄、多分もう……
けれど、戻ってきた『γ』を見て、カロはほっとしたような安心した気持ちを感じた。そして同時に、その気持ちを持っている自分にどうやって接すればいいのか、彼にはわからない。
あの英雄がいない上に、この戦争ですでに負ける懸念もない。いや、多分、最初から人間がこの戦争で勝つ可能性は万に一つもなかったんだろう。
この戦争の後、清掃を正式に始めるつもりだ。さっきの英雄のように、目の前で間も無く死ぬ二人のように、これ以後も、『γ』は数万、数十万人を殺し続けることを、カロは疑わない。
しかし、カロは一つわからないことがある。どうして今になって、『γ』は依然自分を殺さないのか。
これまでのことを経て、カロはすでに知っている。『γ』は『ナナ』ではなく、たとえ『ナナ』はどのような考えがあっても、決定権は『γ』の手にある。『γ』にとって、彼はただの一名の人間だ。ただの殺処分待ちの人間、何も特別でもない。
人間が紅雪種の考え方を憶測するなんて、そのこと自体は1種の愚かさかもしれないが、おもちゃ以外の何かの理由があるために、『γ』は彼をそばにいさせるのだとカロは何となく思う。
あるいは、彼はそう望んでいる。
なぜなら、この理由が本当に存在してこそ、彼には心の最も深い所の憎しみと怒りを晴らす一筋の希望がある。
彼はその理由を探し出したい。
「あれが……我々の母ーアイビス様が作りました……フェイク・サテライト・ポジショニング・システム……あのかた……一体、何を望んでいます?」
カロが思考している途中、『γ』は遠くの二人を見ながら、カロが全くわからない独り言を言った。
「人間、質問しよう……人間はいつも神の存在を仮定して、そうやって自分をこの世界に隷属させる。なら、人間は……神の思考と考えを憶測しようとするのか?」
カロは少しぼけっとして、ようやくこの問題は自分に向けられていることに気づいた。
しかしどう返事するか、彼も知らない。神学という上品ぶる学問に、普通の商人は興味があるわけがない。それに、紅雪種はいつから人間の神学を研究し始めた?
「傲慢だな、ただの被造物が、『あの人』の考えを理解したいとは」
この言葉は、当然カロが返事した言葉ではない。
カロと紅雪種は一斉に振り返して、後ろには、いつからそこにいるかわからない人物がいる。
明るい金髪、年と比べたら若いすぎる顔、全く戦場にいるとは感じられず、乱れのない身なり。
ミサ・アルフォンス公爵、王国の最強戦力は、今、 淡々とした微笑みをを浮かべながら近づいてゆく、その姿は、まるで自宅の庭を散歩しているようだ。
「我を尾行してきたのか?」『γ』は寒い声で尋ねた。
「はい、おかげさまで、面白いことを観察できた」ミサ公爵は微笑みを保ち、カロをちらりと見た。
「さっき、地下で『ミサ・アルフォンス』という人物を探した時、我は何の生体反応も捕捉しなかった……其方は、なに?」
「……『何者』ではない、『何』……か?」ミサ公爵は片側の眉を跳ね上げた。それは面白い問題だと思ったらしい。
そう言って、突然、一本の墨が公爵の右側に浮かび上がる。何が起こっているかをはっきり見える前に、『チッチャキ』の音が立ち、ミサ公爵の手はいつのまにか鞘に置いた。
だけどそれは抜刀の動作ではない……納刀の動作だ。
前触れもなく突然現れた巨大蜘蛛の一本の脚は上へ飛び上がる。長さ20メートルの巨大な金属棒は空中で回転し、陽射しを遮る。
もともと『光学迷彩』で公爵の隣に蟄伏していた巨大な蜘蛛の姿が浮かんだ。
不意打ちするつもりが逆に理解できない損傷を受け、片脚が無くなった蜘蛛は何の反応もなく、後続の追撃をしなかった。その現況を計算できないために生み出された停滞、カロから見れば、紅雪種特有の驚愕と言ってもいいかもしれないものだ。
折れて飛んだ蜘蛛の脚が落ちる。黒刀が再び鞘から抜かれて、黒い墨と化して空間で零し、公爵の頭上から落ちていく蜘蛛の脚を崩し書きをするかのように斬る。
墨の痕跡が消えた後、その蜘蛛の脚は綺麗に一段から数段に分れて落下して、一つ一つ公爵の周りの土に突き刺さった。
「私は『何』?」公爵は黒色の刃を二人に向ける。
刀は腕とともに180度回転し、公爵は腕の正面を示して、手首の上には『Ab』の紫のおかしい刻みがある。
公爵は『γ』に暖かいとも言える笑顔を見せた。
「同じアイビスに作られたものとして、強いて言えば、私は君の一番下の兄弟だな」




