-傾月-〈貳拾〉膝枕の幻夢 2
……
数百の馬は重厚な鉄甲を着て、銀色の光を反射する。前で率いている夏涼とオオカミも含めたら、924騎がある。寒霜城から離れた時、王国軍には2000騎があったが、今ではすでに半分以下になってしまった。
矢傷を簡単に応急手当した後、夏涼は全ての騎兵を率いて大隊を脱出した。
公爵は騎兵隊の指揮権を夏涼を渡した後、親衛隊をそのまま置いて、一人で、ずっと鉄蠍が湧き出す穴に飛び込んだそうだ。
公爵でなければ、総大将を一人で未知の敵の奥地に行かせるという情報を聞いたら、伝令兵が狂ったのか?それとも迷わず命令に従う親衛隊が狂ったのか?それしか思えないだろう。
もちろんもう一つの可能がある。全てが狂った。
この英雄が率いる、大陸最強と恐れられる部隊で、実際に一人の正常な人はいないかもしれない。
とは言え、公爵のこの手は大きな賭けであることを、夏涼には分かる。
公爵が穴に飛び込んでから、新しい蠍はほどんど這い出さなかったと聞いたが、
騎兵隊が戦場で銀蛇の数を抑えることがなく、英雄本人が勢いを上げることもないこの状況で、いくら残された歩兵大隊と親衛隊がどんなに勇猛であろうとも、銀蛇、弓矢、鉄蠍に挟撃された状況で、短時間で崩れる可能性が高い。
軍を率いた経験はないけれども、夏涼ははっきりしている。今遵守しなければならない行動法則は、騎兵隊の存在意味と同じだー速さ。
矢の擾乱を少しでも敵に続けられたら、この歩兵大隊は全滅するかもしれない。
しかし同時に、もし夏涼が焦って判断ミスをして、900騎で陣形を保つ5000名の歩兵の中へがむしゃらに突撃したとしても、それも全滅する。
夏涼は鉄甲騎と馬を疾駆する。後の突撃の効果を最大化するために、逆方向に帝国軍の弓兵との距離を引き離す。
約1.5キロまで距離を取った後、夏涼は手綱を引いて、手を上げて一つの丘に部隊を止めた。
矢傷のせいか?なんだか身の戦甲が異常に重たい。
「おい、なんだその顔色は、まだ槍を持てるのか?」オオカミは冷やかに言った。
「平気です、怪我したのは右肩、私は左利きです。それに、すでに他の人に『溯る』で少し治療されました」夏涼は首を振った。たとえ傷が再び開いても、彼の懐には将官以上だけが配分されている緊急用『生の月財』がある。
「では、やれ」時間と競走している状況は狼も分かるらしい。
夏涼は沈黙し、返事をしなかった。もう思考の暇などないはずだけど、離れた場所から見れば、帝国軍の陣形に少しおかしいところがあると彼は感じられた。
前の3列に長槍兵を置き、長弓兵は後ろ、重装歩兵は両側。
夏涼からして、中間部分が薄すぎる。その3列の長槍兵は威嚇の作用しか持たず、突撃されたら絶対に後ろの長弓兵を守ることはできない。このやり方と陣形、まるで全く兵法を知らぬ素人がしたようだ。
当然、この陣形は紅雪種に背後に操られている可能性もあり、帝国軍の長弓兵の筋力はあまりにも不合理すぎた。最悪の状況、帝国軍の5000人はすでに全員銀蛇に取り憑かれている。
しかしそれにしてもおかしい。この陣形の中に、彼は人間の意識のような存在をなんとなく感じる。
時間がない、やるかやらないか、すぐ決めなければならない。しかしもしこの前のようにまた何かを見落としたら、今よりひどい結果を招く。
思考、何か気づかないことがあるかを探す。
弓矢……銀蛇……鉄蠍……
「おい。」オオカミは催促した。
目を閉じてしばらく黙考した後、夏涼はようやく目を見開いた。
「オオカミ、私がこれから選択しようとするのは、この戦争の勝率をできるだけ上げる方法です……」
「なら、ためらう必要はないだろう」
「……けれど、私たちが生き抜ける可能性を上げる方法ではありません」夏涼はおもむろに話した。
オオカミは少し黙って、冷たく言った。「構わん、俺たちの指揮官として、お前はただ一つの原則を覚えばいい、俺たち公爵軍にとって」
彼は顔を逸らし、遠くの帝国軍を見据えて、歯を剥き冷笑した。
「……死に場所を得るのは、痛快なものだ」
夏涼はキョトンとして、首を傾げてオオカミの顔つきを観察した後、失笑。
「同意ですね」
オオカミは唇の端で軽蔑を示し、鼻を鳴らす。
「フン、どうせお前は、お前の姫さまの懐中で死にたかったんだろう」オオカミは皮肉を忘れない。
それに対して、夏凉はただ答えずに少し笑った。
ある問題に、答えは必要ない。
手綱を持ち上げて、夏涼は900余り騎に振り向いた。
目の前には、汚れて、疲れきってしまった一つ一つの顔。
ふと、夏涼はあの男を思い出した。あの男は一生で軍隊と国に振り回された。しかし、彼の息子はまるで何も教訓が得られなかったかのように軍隊に入った。唯一の違いは男は生涯一兵卒、息子は初戦で王国で最も有名な最強騎兵隊を率いている。
運命とは、時に皮肉なものだ。
男が言った通り、彼は確かにより価値のある人間になったが、このような形で価値があっても、素直に嬉しくなれない。
遺伝かも知れないが、夏涼は自分は将才があるとは思わない。自分を卑下してではなく、正しく評価したからこそ、そう判断した。参謀としてはいいかもしれないが、軍を率いる席には向いてない。
彼は人々が心から憧れ、背を追いかける、そういう人ではない。
そんな真実な人じゃないから。
たとえあの【月からの小さい悪魔】が軍を率いても、彼が率いるよりはマシだろう。彼女なら、多分豪気に馬鞭を振って、敵を指しながら威風堂々とこう怒鳴るだろう。『野郎ども!聞け!私が勝利をお前らにもたらす、だからお前らがやるべきのは、前へ進め死ぬがよい!』
当然、彼は月璃ではないが、彼も彼のやり方がある。
「全軍聞け」
夏涼は甲冑に掻き傷と血の跡だらけ、狼狽ぶりの900余り騎を見渡す。
英雄の精鋭というより、今の彼らは角を失った雄鹿のように、覇気を失い、目の中には希望と自信がない。
まだ死んではいないが、心は既に恐怖の化身に折れていた。
夏涼は目を閉じて、深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。
では、開演しましょう。
老夫婦の前で、いい息子を演じたように、
邸の人たちの前で、いい青年を演じたように、
灼蘭と老貴族の前で、いい博徒を演じたように、
新しい仮面を被って、目を開いた後、夏涼は開幕の最初の言葉をゆっくり発する。
……
「この戦いが終わったら私は、あの方に求婚します」
騎士たちは沈黙した。誰も目の前にいるの、夏涼・カースィフォリナという任命されたばかりの若い将官が何を言っているのかわからず、顔には依然として自分が生きていられるのを自分すら信じらないような粛然たる顔がある。
「この場の全て人はさぞかし私のことを知っていますでしょう。断言しましょう、私がプロポースするとしたら、君たち、東境の騎士たちが最も憧れ、夢の中でしか幻想できない【傾月姬】は、絶対に喜んで承諾するでしょう」
若い将官の声は澄んで、穏やかである。それに対して、騎士たちは困惑と不満しか持っていない。
困惑したのは、なぜ戦局を左右するこれほど重要な突撃の前に、無関係の私事を話す?
不満なのは、死の前に、この坊ちゃんは何を見せびらかしているのか?
だから彼らは沈黙を返事とし、無数の視線は細い釘のように若い将官に浴びせる。
それでも、指揮権を得たばかりの、見た目は20代前半くらい臨時の将官、
夏涼・カースィフォリナは、悠然として微笑んだ。
「そんな狼狽した表情をするな。もっと喜んでくれませんか、この場にいる全員、生きていれば、私たちの結婚式に招待される資格があります」
挑発の態度でもなく、自慢の表情でもなく、ただ……淡々と事実を述べる。
燃油をかけていた藁の山にマッチを落とすかのように、彼の言った言葉を信管?として、騎士たちの怒りが点火され、一瞬で燃え始める。
えらそうにすんじゃねえぞ!この野郎!誰が先に吼え始めたのかわからない。
死ね!
俺を誘う?お前の結婚式をぶっ壊させるためか?
新婚初夜、俺様が先にヤッてやる!当然、お前の童貞をな!
彼らは公爵麾下の最も精鋭で最も凶悪である鉄甲騎だ。長期間あの公爵に陶冶されていたので、彼らも紀律と効率を求めるが、決して命令をおとなしく受け入れることしか知らず、階級と命令を至上とする愚かな正規軍のような部隊ではない。
強者至上、このような価値観こそ、彼らが向かうところ敵なしの要因。
公爵が彼らを制御するのは、相応しい力を持っているから。今、何の実績もない奴がこんな態度で彼らに接するなんて、彼らから見れば、死に急いでいるとも言える。
もし彼らが前に突撃したら、五秒も必要とせずに、面前の傲慢の若者を引き裂くことができる。
「どうせ君たちはもともと戦場のために生まれ、死を見ること帰するが如しの公爵軍でしょう。君たちなら、例え戦場で戦死しても、死に場所を得たと思うでしょう。しかし私は違います。君たちの価値のない命と比べたら、私の命はもっと貴重です」
騎士たちの喚き声と怒鳴り声がどんどん激しくなる。しかし彼らの前のおっとりとした顔の男は依然として、全く気にせず火に油を注ぐかのような発言を続ける。
なぜかわからないが、彼は吼えていないのに、騎士たちの喧騒は彼の声を覆うことができない。
「私なら、このような荒野に死ぬのはごめんだ」彼は高い声で宣言し、顔には傲然がある。「どうせ死ぬなら、私は東境第一の美人の膝枕で死にたい」
若い臨時的な将官はここでちょっと口を閉じて、静かな視線で全ての人を見渡す。
「そうではありませんか?」
翠色の瞳に、揺るぎない意志が映っている。その意志は戦場にまるで相応しくないように、剛毅でもなく灼熱でもなく、逆に、それは流れる水のように、そよ風のように、しかしどんなに棒を空中で振っても、向きを変えることはできない風のようだ。
夏涼・カースィフォリナと目を合わした騎士たちは、頬にあの風に吹き抜けて、期せずして一緻し、焦りを静めた。
ただ一言の問い返しで、ただ一人の諦視で、
怒りを煽られていた、王国で乱暴と知られた公爵軍鉄甲騎は一斉に静止し、沈黙する。
沈黙、そして思い出した、それぞれのまだ生きたい理由を。
「言っとくけど、誤解しないでくれ」夏涼はゆるりと微笑んだ。「例え君たちが必死に生き抜いて、姫さまの部屋の前に並んでも、君たちが姫さまに膝枕される順番は廻ってきませんよ」
騎士たちは哄笑する。
眼前の若者の傲慢さを受け入れたのではない。
が、少なくとも、生死の前に談笑するこの度胸は、無数の死の淵を乗り越えてきた彼らにとって、嫌いではない。
「言いたいのは……」彼は急に笑顔を収めて、冷徹、審判をするような目で騎士たちを見る。「心の中ですでに命を放棄した人は、死に場所を得る資格はありません」
笑い声は、すぐ止まった。
「あれは、ただの選択の余地はない人たちが、自分の放棄にいい名前を冠して、自分を楽にするために自らを欺くことです」
あまりにも独断的な結論だ。
しかしその場にいる、年齢が若い将官のふた回りも上の老兵たちは、誰も彼に反論しなかった。
戦場に長く居たからこそ、彼らには深く理解できる。多くの若い兵士たちは死を見ること帰するが如しの境地に達することに憧れる本当の理由を。
なぜなら、この言葉にしがみつかないと、死ぬ時、どれだけの遺憾に直面しなければならないのか分からない。
「私は死にたくありません、この場の全ての人より死にたくありません。死を見ること帰するが如し?笑わせるな、あの方の愛顧を受けれるなら、誰が死にたいと思いますか?」若い将官は左手を握る。
「もしこのような私が、自分も命を放棄しますと言ったら、君たちには矛盾しか感じられませんよね」
「だが、それは私は生きたい理由を抱きながら、自分で選んだ選択です」
若い将官は手を伸ばして、さっき脱出したばかりの煉獄の方向に指を指す。
「あの紅雪種たちを見てください」
「あれらの破滅を象徵するバケモノの中で、銀蛇は人間の尊厳と意志を無視し、気高い戦士を人形として操り、お互いに殺し合わせます。巨蠍は人間を虫のようにに見なし、鋏で絞殺、尻尾で刺殺、体で圧殺してきます」
指の方向を変えて、間も無く向かっていく煉獄の方向を指す。
「あの帝国軍を見ろ」
「帝国軍に陥落した地域は、どうやって扱われるのか、知らないはずがないでしょう。身長が馬鞭より長い男を全て斬殺。老人たちは生きたまま積み重ねられて燃油をかけて処分します。残された女と子供を半分活かせて慰めものにします」
「もし私たちが敗れたら、もし私たちはここであいつらを止めなかったら、紅雪種と帝国軍たちは王国の第一防線ー寒霜城に長駆直進します」
「戦場は私を怖がらせます」
「紅雪種は私を怖がらせます」
「死に直面することは私を怖がらせます」
「しかしそれらより……守りたいものを守れないことは、もっと私を怖がらせます」
「このような恐怖を消すために、我が姫さまを守るため、私は殺します。恐怖を持ちながら殺します。生きるための理由を持ちながら殺します。相手は帝国軍だろうと紅雪種だろうとも構いません、迷わず殺します」
彼は槍を高く上げ、天を指す。
「もし天が私を止めるつもりなら、この槍、天さえも貫けえええ!」
彼はもう話をしない。翠色の瞳の中には迷いがなく、ただ、『君たちは?』と質問している。
全て人は沈黙し、何の声もない。
静止する、だが普通の静止ではない。
血が無数の血管の中で脈動し、鎧の下、筋肉の下で澎湃する。
心臓が胸の中で震盪し、感情が魂の中で沸騰する。
巨大な音が突然に爆発し、兵器の叩く声があちこちから鳴る。
それは騎士たちの彼への答えだ。
言葉はもういらず、若い将官は長槍を下ろし、その代わりに拳を上げて、馬の方向を変えて再び帝国軍に向けて、攻撃の合図をした。
同じ時、数百人の殺意は矢のように前に飛んでいく、罵りと怒号が天地を震えさせる。
喧騒の極に、腕を振り下ろす。




