-傾月-〈拾玖〉傍観者 2
……
「わわわー、これはキツイね…」少女は悲鳴した。
「……」男の目じりがぴくぴくと痙攣した。
「うあああああ〜あの人の上半身が飛んでる!飛んでる!」
「……」ぴくぴく。
「上から見れば、銀色の蛇たちがあちこちで蠢いている。きもい」
「……」ぴくぴく。
「ねね、こっちめっちゃ高くて怖いよ……」
「うるさい!静かにしろ!できないなら蜘蛛の上から降りろ!」カロは自動焦点の【望遠鏡】を下ろして、怒鳴った。
「ううう……カロさんは自分で悪い指揮をしたのに、ナナに八つ当たりするなんて、ひどいよ」人型の紅雪種、またはナナと呼ばれた少女は目尻をこすり、泣き顔をしている。
現に、二人は最も巨大な氷刃蜘蛛の個体に立ち、上から殺戮の戦場全体を見下ろしている。同時に周りには幾つかの30〜50メートルの高さの氷刃蜘蛛が待機する。ナナの言葉によると、これらの蜘蛛が【光学迷彩】という魔法で隠れ、人間に気づかれない。
この高くて遠い場所から見れば、数千人の兵士は虫のような大きさで、そして巨大な蠍は正常な大きさに戻ったようだ。
「俺がこの怪物たちを指揮したいと思うか?人類を滅ぼすのはお前の仕事だろう!俺に押しつけてどうする?」カロの額に靑筋が浮かんだ。
「……」
ナナはすぐに答えず、急に沈黙し、無表情で首を傾げてカロを見て、赤褐色の瞳に薄紫色の幽かな光が瞬く。
「其方今、我の思考回路を質疑しているか?」
「……」カロは生唾を飲んだ。
「確かにこれは無意味な行為だ。個体『カロ』の思考の知能は低い、指揮者に必要な知識と自制心も不足、大まかに計算すると、この低性能の指揮システムによって、『蛇ノ花』の破損率は少なくとも『恐れ多いほどに』240%上がった。『高能蠍』の破損率はさらに『奇跡的に』400%上がった。」ナナは機械的に首を傾げる。「逆に言えば、結果にはあまり意味はないが、其方の無能で作られた奇跡は一時的に無数の命を救った。もしかしてそれは、人間の考える善良の定義に似つかわしいものだろうか?」
「……」奇跡を起こす男はすごく不機嫌な顔をして、返事をしない。
クソ姫ちゃんめ、何を言っているかさっぱりわからないけど、なんかムカつく。
紅雪種の頭にキノコを植えるのか?
「もし効率と効能の標準によれば、これは成立するわけがない選択肢だろう。しかし、模擬人格の回路で思考を修正して再計算すれば、其方に任せるという選択肢が一気に最も適当なものになった。」
「……」
「以上は、ニューラルネットプログラムコードを人間の言葉へ翻訳した結果だ。光学式映像識別とニューラルネットワークモデルによって其方の表情を判断して、『理解しがたい』という結論が出た。今再び、平均値の下にある其方の知能指数により二次翻訳して、簡単に言えば……」
「……」
「ナナは千軍万馬を指揮するカロさんの姿を見たい!」ナナは歓呼した。
カロは急に飛びかかってくる紅雪種の頬を掌で外へ押す。
「どけ!隙に乗じて俺を抱くな!」
「えええぇ……けち、ちょっと抱かせてくれても、減るもんでもないし」
「この言葉、俺じゃなくホステスにいえ!」
「ああ〜いいじゃない、安心して、心も体も、任せてちょうだい」
「うるせー!まだ俺に指揮させるつもりか?」カロは怒鳴り、ナナを蹴飛ばした。
服を叩いてほこりを落とした後、カロは再び【望遠鏡】を挙げて、血の雨が降るような戦場に眺め、沈黙した。
慣れてしまったのか?もし少し前の彼なら、決して何も感じずにこの光景を見れるはずがない。彼はこのような大物ではない。戦争を、人間が想像できる残酷を全て記録して、動く絵だけとして見れる大物ではない。
三日前、彼も同様に『ナナ』の側にいて、紅雪種がどうやって帝国の七千名の兵士を『処理』するのかを黙って見ていた。帝国はいつも王国の人民の夢魘だ。この世代の王国人民の共同想像で、王国を侵略することを絶対に放棄しない帝国は、貪欲と残忍の権化とも言える。
しかし真の悪夢の前で、それは脅威にもならない。
こんなにたくさんの人を殺しても、紅雪種にとって、今はただの『テスト』だ。
ナナの言い方によれば、アルタイ集落を襲った、血を散らさない殺し方は『採集モードテスト』、そして今のは『殲滅モードテスト』だ。
このテストが終わった後、今より残酷な煉獄が、10倍の規模で世界各地で起こる。
その時、帝国でも王国でも、共和国でも部族連盟でも、誰も免れることはできない。
商人として、カロには強い愛国主義がない。しかし全く気にしないわけでもない。アルタイ部族に留まっていたこの数年、彼は依然として誇らしい王国人と自負していた。過去、あのクソ姫ちゃんを怒らせた時も、最初の原因は彼が王国の英雄ーミサ公爵の娘に誕生日プレゼントを贈ろうとしたことだ。一部は上流階級との斡旋のためにするが、彼は全くそうではない。全ての王国人にとって、ミサ公爵は彼らの誇りだ。
しかし、王国の夸り、不敗の英雄、今、前方で彼の敵になった。
「あの……さっきカロさんが差し出して、弩車を壊そうとした蠍たち、全て死んでしまったみたい」
「……」
「簡単にやられた帝国軍と比べて、やっぱり王国軍すこいね」
もし少し前のカロがこの言葉を聞いたら、多分ナナを睨みつけ、自慢げに『当たり前!これはミサ公爵の精兵だぞ。帝国軍のクズともと比べるものか?』と怒鳴るだろう。
けど今彼はただ【望遠鏡】のレンズを通して自分の罪を見つめ、自分すら認識できないほど低い声で次の言葉を話す。
「また500匹を差し出す」
「了解」模擬人格からしばらく離脱したナナの口調は淡々としている。「指令が下った。次の『高能蠍』の到着時間、おおよそ480秒後」
カロの目から見れば、戦況は『激戦』から『虐殺』に移りつつ、当然、指すのは紅雪種が人間を虐殺することだ。
これまで少対多で勝ち抜いてきたミサ公爵の精兵は、今はただ瀕死のあがきをしている獅子のようだ。
開戦からわずか45分、王国軍はすでに3500人くらいしか残っていない。ナナの言葉を使えば、兵士と蠍両方の損失比は『奇跡的な』2対1、しかしこちらは、また2500匹以上の蠍がいる。
もしあの英雄が戦場の第一線で活躍しなければ、損失比は少なくとも3対1に上がるだろう。
「ねぇねぇねぇ……カロさんはあれを見てるでしょう、あれすごいね」ナナはびっくりしたような声を上げながら、信じられないという顔で遠くの英雄、カロも見ている同じ場所を指刺した。「あいつは本当に人間なの?」
「……」この言葉を聞いて、カロは【望遠鏡】を下ろして、呆れていた。
……お前が言うかよ?
「どうしてそんなにジロジロ見るの?恥ずかしいよ」ナナは両手の指で紅潮した頬を触る。
カロは白目をむきながら【望遠鏡】を持ち直して、さっきナナが指差した方向を見る。
あそこに、黒くて長い刀を持つ金髪の男が、ごく少数の精鋭部隊を率いて蠍が最も密集した場所へ撃ち込み続けている。
英雄から振り出された刀身は異常に黒い。まるで乾いたらすぐ消えてしまう墨で宙に書くかのように、筆先が走るたび、いくつかの蠍の上半分が数メートルに飛び上がる。
彼の後ろについている部隊も同じように信じられないくらい善戦している。彼らはほとんどカラリストで、「武芸に優れた」と形容するには足りないほどの強さを持ち、血と肉が乱れ飛ぶような混乱する場面に居ても、誰も銀蛇に操られなかった。しかし、これらはこの部隊が最も人を戦慄させる本当の理由ではない……
『技の月財』の【望遠鏡】の付き機能-伝声補助機能を通して、たとえこんなに遠くても、カロは笑い声と喜びの雄叫びがあの部隊から聞こえる。彼らはまるで夢の中でも祭りに参加する子供たちみたに、戦場で急速に暴れ回り、ついていけずに囲まれて殺されていく仲間たちを全然気にしない。
あれが英雄−ミサ公爵と彼の親衛隊だろう。
この地獄を至高の娯楽としている部隊がいるこそ、例え帝国が知恵の革命により強くなったとしても、10年かけてもミサ公爵が守った王国の玄関を一歩踏み入れることはできなかった。先日紅雪種に対した帝国軍と同じのように、常識範囲内の力は、常識外れの力の前に平伏するしかない。こういう力の前に、いくら革命で徹底的に革新された帝国の武装も使えないということだ。
それは紅雪種の性質と違い、本質は狂気の力だ。
自動焦点の【望遠鏡】を使って、カロはその部隊の一人一人の表情がはっきり見える。ある人は目を血走らせ、ある人は満足げな表情、ある人は楽しげな笑顔、例えば黒刀を持つ英雄、今も悠々自適な微笑みが浮かべながら、こちらに手招きし……
一瞬、カロは全身凍結のように【望遠鏡】が手から滑って、ナナが『へいー』と体を投げ出して捕らえた。
「カロさん、どうしたの?」屈み込んだナナは【望遠鏡】を持ち、心配そうにうつろな表情をしているカロを見上げる。
自分を取り戻した後、カロは低い声で話した。「……おい、紅雪種、お前、いるだろう」
表情はナナの顔から急速に消え行く、模擬人格を外した後、彼女は無表情でカロを見る。
「人間個体『カロ』、我の名前は『γ』、『紅雪種』と呼ばないでください」
「どうでもいいよ」カロは舌打ちした。
「警告、人間個体『カロ』、我の名前は『γ』、『紅雪種』と呼ばないでください」
「おい、今真剣な話を……」
「再び深刻な警告、人間個体『カロ』、我の名前は『γ』、『紅雪種』、または『おい』と呼ばないでください。もし修正しなければ、其方の分類を元の『無知無能』から『排除対象』へ書き換えます」
真正面から妙な寒さを感じて、カロはポカンとした。無表情のままの少女に、カロは直感でまずいと思った。
なんだか触れてはいけない事に触れてしまう?っていうか紅雪種にも触れられて痛いところがあるのかよ?
「おい、『γ』、蜘蛛の上にいる俺らを見える人がいないって、先ほど言ったよな」カロは相手の名前を呼ぶしかない。
「そう」
「けど、さっき、ある人がこっちを見た気がした……」
「其方が話した仮定事件の発生確率はゼロだ。人間の言い方によれば、絶対にないことだ」『γ』は首を横に振った。『氷刃蜘蛛』が静止状態で、エネルギーが十分にあればじ自動的に『光学迷彩』の機能を開き続ける。そしてここが戦場との距離は3キロも超えたのだ。例え『光学迷彩』がいなくても、人間には巨大な氷刃蜘蛛をしか見えない」
「……」カロは黙った。それは合理的な言葉だ。彼の見間違いだろう。「……まあ、いい」
「そのことより、良かったね」『γ』は不意に言った。
「良かった?」カロは戸惑いの声を上げ、何が良かった?
「良かった。其方の協力態度によって、我の資料では其方の分類が『排除対象』になれなかった」
『γ』は完璧な機械的笑顔を見せた。
「おめでとう、其方は依然『無知無能』」
「……」
「覚えてください、其方が協力態度を続けてさえいれば、『ナナ』という夢も続いていく」『γ』は冷やかにカロを見て、唇の端を鋭い角度でゆっくり上げた。「少なくとも……人類滅亡の日まで続けられるかもしれない」
言い終わると『γ』は目を閉じた。開けた後、赤褐色の瞳に含めた薄紫色の幽かな光が消えた。
ナナが『戻った』後、彼が最初にしたのは沈黙のままに、未だに地に膝をつきながら【望遠鏡】を持つナナに手のひらを差し伸べる。
ナナはぎょっとした顔でカロの手のひらを見つめ、恐る恐る手を伸ばしてそれを握った。
「……」カロは無表情のまま、額に青筋を立てて、大声を出す。「何しやがる?」
「えええええ?カロさんは紳士的に、白鳥のような優雅さでナナをを引っ張り上げるつもりじゃないの?」驚いたように、ナナはすぐ手を離した。
「勝手に勘違いするな、この意味は、【望遠鏡】を戻せだ」
「いやよ!」ナナは違う方を向いて口を尖らせ、わざと可愛い子の振りした。
「この『技の月財』は最低でも10枚の生命月幣の価値がある。お前には明らかに必要がないだろう。持ってどうする?お金を払うか?」カロは怒鳴った。さっき彼はちゃんと確認した。今のナナは、こんなものがなくても、5キロ以上の目標を直接目視することができる。
「必要ない、でも使いたいよ、この【望遠鏡】」
「必要ないなら何しやがるつもりだ」
「だって……」ナナは顔を赤らめて、俯いて指をいじる。「……だって……これはカロさんが使ったものだもんっ」
「返せ!今すぐ返せ!」
「ケチッ」。ナナはふくれっ面をした。「ならせめてレンズだけ舐めてもいい?」
……、なんだその変態発言?
高価な技の月財が紅雪種の腐食性の唾液に汚れないように、カロは手を出して奪ったが、ナナは【望遠鏡】をあちこちに持ち回して逃げる。
しばらく経って、カロは歯を噛んで、声を抑えて言った。「使いたいならちゃんと使え、舐めるのは禁止」
「ご御意に感謝します!」そう言ってナナは【望遠鏡】を持ち、遠くの戦場を向いた。「ではナナから確認しよう。さっきカロさんが弩車を襲うために差し出した500匹の蠍、ちゃんと仕事して……え?」
ナナは突然沈黙して、感情が再び消えた。
「あの男の首にかけた黒水晶は……」『γ』はレンズに映した黄緑の髪の男の胸元にキラキラしている黒水晶ネックレスを見つめる。彼女の瞳は連続して拡張と縮小を繰り返し、黒水晶ネックレスの材質と構造を分析している過程で機械歯車のような微細な音を立てる。
ふと、彼女は立ち上がって、【望遠鏡】を下ろし無表情のまま遠方を見る。
「お母様の製造マークを検出した。あのもの、衛星ネットワークの……」人型の紅雪種は目を細め、初めて、カロは『γ』の目に困惑と似たような感情を見ていた。「……なぜ、この戦場に現れた?」
「『γ』?」カロは聞いた。
『γ』は【望遠鏡】を後ろのカロに投げて、目を閉じて、棒読みのようにカロが全くわからない言葉を言い始めた。
「今回の任務の異常事件を検知した。群体思考ネットワークの接続を請求する。拒絶される。管理者−人工ニューラルネットワークプログラム γタイプの権限で再要求する。再度拒絶される。今から、個体の思考回路で今回の任務を再検査する。今回の任務は『ミサ公爵 が 率いる 王国軍 に 壮大な死亡 を 与え』……任務の意味を検索せず、同時に、単語『ミサ公爵』と『王国軍』を定義するデータベースを検索不能……」
『γ』は急に目を開いた。
瞳孔が収縮し、彼女は遠くの胸元に黒水晶をかけている男を眺める。
「これより、思考回路の異常を修復することを最優先事項とし、異常点に向かう」
「おいおいおい、『γ』、どういうことだ?」
カロの声を聞いても、『γ』は彼を意識しなかったようにそのまま前方を眺める。
「『どういうこと?』言語のデータベースの検索により、この問題の普遍的な標準解答は『なんでもない』、背後の意味は『答えたくない』。もっと明白に言えば、相手はこの問題を尋ねる権限を持たず、自分も問題を答える義務を持たない時の答え方だ」『γ』は再び呟くようにこう言った。しかし今回の呟きは、わざわざ誰に聞かせるようだ。
「……」
彼女は頭を傾け、少し歪んだ角度でカロを見る。
「『なんでもない』」
「……」
「とりあえず、楽しい休憩時間はもう終わった。仕上げは我々の出番だ」
そう言って、表情はようやくナナという少女の顔に戻った。
薄い唇を曲げて、冷ややかな、酷薄な笑みを浮かべた。
無機質の笑顔だ。
「ね〜、カロ大将軍」
……