-傾月-〈拾玖〉傍観者 1
どのぐらい経ったか分からない。
夏涼がまた月璃のことを思い出すほどの、長い時間だ。
人はいつもそうかもしれない。わかっていることに比べて、話したいことはあまりにも多い。
今は少し後悔している。思い起こせば、彼が月璃に言った言葉は、あまりにも軽々しかった。彼は月璃が直面しなければならない未知の記憶を具体的な障害と述べた。努力して努力すれば、必ず追い越せるようなものとして。
結局あの時の彼は実際に『未知』を本当に理解したことにはならなかった。『未知』からもたらす怖さも、正しく想像できなかった。
此頃……あるいは此頃と言うべきではないか。
この『未知』に満ちているデカル高原では、もう体感時間は合理性を失った。
寒霜城から離れて一週間くらい経つが、あの頃、書斎で静かに少女の横顔を凝視していた平穏な時間は、もう柔らかくて甘い夢になったように、頻りにありありとし、頻りにぼんやりする。
揺さぶり、揺さぶり。
視界が重い呼吸音と共に上下に揺れる。
目に映っているのは、湧き続け、日光で銀白色の光を反射している奇妙な鉄蛇の群れが、潮のように周りの悲鳴と吼え声を飲み込み続ける様だ。
振り回し、振り回し、振り回し、夏涼は槍を振り回し続け、足元を素早く通り抜けていく蛇の群れを切り続ける。
「たす……」
「うわああ……」
「副隊長、副隊長……目を覚ませ!く、来るなああああぁぁ……」
「また一波の蠍が来るぞ、早く打撃武器に変えろ!」
「緊急!緊急!左翼が崩れている」
銀色の潮が蠢き、巨大な蠍はカラカラという音と共に動き、数千人の精兵は武器を振るい、無数の伝説の中で恐怖を象徴する化け物と殺し合い、血の霧が蔓延する。
空中のあちこちにばらばらと、色とりどりの残光が残った。戦いはここまでで、王国軍の希少なカラリストは全力を注いで戦ったため、すでに多くの人の体重は6分の1になり、彼らは混乱の戦場の上空に浮かび上がり、そして無造作に伸びてきた蠍の尻尾に串刺しにされ続ける。
無理を承知で集結してきた王国軍の陣地の後ろでは、数十台の弩車が巨大な鉄の矢を止めどなく撃ち続け、一般の刀では太刀打ちできない蠍たちに命中させてばらばらにする。
これらの弩車はもとは公爵が帝国軍の切り札のために用意したものだった。しかし、全大陸で最高の防御力を持ち、馬鎧まで全身にチタン鉄の鎧が付けられ、最も金を使う部隊と称された『白輝騎』は現れなかった。その代わりに現れたのは、伝説の中で、恐怖の象徴と呼ばれた怪奇な化け物ー『紅雪種』だった。
全ては異質すぎて、戦場と呼ぶべきものなのかすらわからなってきた。
「後列の弩弓手、狙いを定めろ!容赦するな!誰だろうとも、5匹の銀蛇に絡みつかれたら、直ちに撃ち殺せ!」
「おい、蛇が多すぎる!鉄甲騎の第一大隊と第三大隊はもう一度蛇の群れを踏みにじって、第二大隊は弩車を守れ!弩車を守れ!突撃する!蠍を近づかせるな!」
馬が鳴き、蹄鉄が奔騰し、けれども前方の騎士隊の咆哮は夏涼からすれば、死を覚悟して命を投げ出すような、最後の怒号だ。
彼らは馬に乗り、数メートルの長槍を水平に構えて、銀色の鉄の甲羅を持つ異常に巨大な蠍たちにぶち当たって、そして馬と共に飛ばされ、悲鳴が空で途切れる。
「うわあああああああ……」
同時刻、夏涼の視界の左側にいる歩兵が鉄蠍の尻尾に巻き上げられて、足を蹴り続けていたが、身につけた鎧がガガガと音を立てながら肉の中に嵌め込みまれ、畜牲が屠殺された時のような声を出した。
夏涼は息を吸って、ずっと振り続けて少し熱くなった槍を両手で握りしめて、四方から押し寄せてきた数十匹の鉄蛇を一気に薙ぎ倒した。そして彼は槍の尻で地面を突き、棒高跳びで蠍の甲羅を踏み台にして飛んで蠍の尻尾を斬り落とした。
地面に転がって 、立ち上がった兵士は感激の眼差しを彼に投げかけた。
「あ、助かっ」
グサッ……
もう一本の銀白色の尻尾が彼の胸元を貫き、血に染まる。蠍の尻尾は蕾のように展開して、兵士を捕まえては弾き飛ばす。兵士の四肢が風に舞い、そのまま夏涼をぼんやり見て、かすかに開いた唇から流れ出した血の雫が空中で散る。
哀悼の時間すらないまま、夏涼は槍を地に立って体を宙で逆立ちし、前方からの土ぼこりと一緒に襲い掛かってくるもう一本の尻尾を躱した。
両手で槍を掴みながら脇腹に力入れて、体を空中で慣性回転させ、銀色の円弧を描いて蠍の尻尾を両断した。
態勢を整えた後、夏涼は前方を見渡し、最短の時間で状況をもう一度確認した。
カラカラカラカラ……
6匹の鉄蠍は人を助けたために陣形から少し離れた彼を取り囲んでゆく、蠍の甲羅が薄藍色の冷光を反射している。この距離で、彼は徹底的に血の赤に染まったいくつの蠍の尻尾をはっきり見る。
周りは耳をつんざくような殺し合う声が響き、近くに幾つかの步兵隊がいるが、手を貸すほどの暇はないらしい。夏涼はおもむろに深呼吸しながら、少し後ずさりして、不意に、背中に人間特有の温もりが伝わり、ある人と背中合わせになった。
「っ……、また生きてるか?」オオカミの冷ややかな声が後ろから聞こえた。
「……、何が気に障っていますか?」
「お前が死んだら、俺の護衛任務も完璧に終わるからな」
「護衛にとって、一般的に私たちはこの結果を失敗と呼んでいます」夏涼は穏やかに言って、槍を横振りして2本のハサミを撥ね返した。赤色の刀が一閃し、夏涼が作った合間を利用して甲羅へ深く切り込んだ。
夏涼は少し驚いた。こんな簡単に?関節と尻尾と違い、引く重さが高い弩車だけが蠍正面の硬い甲羅を貫通することができるのかと彼は思っていた。
「ふん、なぜ今のような状況で、お前の表情はむしろ最初より気楽に感じられる」オオカミは言った。
「……」
しばらく黙り込んで、夏涼は答えないと決めて、肩をすくめた。
オオカミは蠍の頭を踏みつけて焦がした刀を抜き取った後、一包みの燃油を夏涼に投げた。
「おい、加熱しろ、奴らは耐熱性が低い、高温が甲羅を軟化させる」
夏涼は燃油を掴んで、燃油を入り込んだ皮袋を見つめ、少し笑うように唇の端を少し上げた。
「意外ですね」
「ふん、確かに、伝説の怪物だって、偉そうにしやがって、結局こんなに明らかな弱点がある」
「いええ、意外なのは紅雪種ではありません……」夏涼は燃油の皮袋を空へ投げて、槍の先が刺さってきた蠍の尻尾に掠り、一線の鮮やかな火花を散らして、燃油の皮袋へ突き刺す。
燃油は一瞬で烈火に化して、宙で淡い赤色の殘光球を残した。五色により熱エネルギーを集めたので、槍の切っ先が赤く光った。
動作が終わった後、夏涼は優しく尋ねた。「誰かに言われたことがありますか?君は素直じゃないと」
「……」どんよりした顔をして、オオカミは刀を薙ぎ払い、襲ってきた蠍の左側のハサミを斬り落とす。「ある。そう言ったのは、3人だ」
「……」夏涼は高熱で光っている槍先を蠍の胴元にちらつく赤い点の中央にまっすぐ刺した。まさか狼が素直に質問に答えるとは、思わなかった。
「それで?」
「全て殉職した。」
話が終わり、燃えた刀が風と砂ぼこりの中で咆哮する。
……




