-傾月-〈拾捌〉戦場の自己充足的予言 1
荒い砂が混じった嵐が頬を削り、空気中に鼻を突く土の臭いばかり。
夏涼は駿馬に乗り、馬の上に規律正しく起伏している。二週間ぐらいの行軍、王国軍はようやくデカル高原の中央位置に到着した。
5日前、帝国軍は突然それまで駐屯していた場所から消えてしまった。
6分の1の体重しか残らない調色師を凧に縛って、上空に舞いあげて偵察させても、帝国軍の姿は見つからなかった。
七千人を超えた帝国軍が、このほとんど遮蔽物がない高原で、神隠しのように消えてしまった。戦場と戦略を少し研究していた人からすれば、このような事態に対して、多分、バカバカしい、ありえない、というだろう。
しかし、どれだけ待っても王国軍のもう3つの斥侯小隊は帰って来なかった。この地形で迷うなんて……あるはずがない。
何か違う気がする……たとえ王国軍の最も基層の小兵でも、この雰囲気を感じられるだろう。
どこかへ消えた帝国軍を防ぐために、『デカル高原』の中央へ進軍しようと公爵は決めた。少なくともこのような遮蔽体がない地形では、待ち伏される可能性がある場所はない。
なぜかは分からないが、夏涼は予感がある。本当の戦場にはもう遠くない。けれども、彼の頭で今考えているのは、依然として月璃のことだ。
この二週間、月璃の記憶は少し回復したのか?
そして残された2人の姉妹は、仲良くしているのか?出征の前日に一緒に食事をした時、日琉はまだ月璃を強烈に拒否していたようだった。この公爵がいない間は、互いの距離を縮めるいい機会かもしれない。
月璃がいつも自分のせいだと思わせ続けたくないので、できるならば彼は姉妹の関係を少しでも改善したい。しかし同時に、彼は二人の距離が近くなりすぎて、月璃が触れるべきではないことに触れることをも望まない。
それを思って、夏涼は溜息をついた。
月璃のことについて、寒霜城から離れた以来、彼は百遍も繰り返しては溜息をついた。まるで壊れたオルゴールのように、同じ思考過程が脳裏にスタックし、とめどなく反復しているようだった。
今重要なことはもっと別にあるが、彼は自分の思考を止められない。
「止まれ」前方の公爵は急に手を挙げ、大隊全体を止めた。
馬を降りた後、公爵は砂をひとつまみ取って、口に置いて味わう。
眉を顰め、公爵はぺぇーとそれを吐き出した。「この味、まずいな」
「この味は?」夏涼は訊ねた。
「大量の死体の味」公爵は淡々と言って、前方の荒れ野のいつくかの位置に指をさしながら命令した。「人を
使ってこれらの場所を掘れ」
十数分後、掘りに行った斥侯長は青白い顔で戻り、公爵の前で膝をついた。
「現に、4つの巨穴が見つかりました。一つの穴にはおよそ500個の遺体があり、全て帝国軍の制服を着ています」
「適当に掘って2000人を簡単に探したのか……」公爵は少し沈思して、斥侯長に手のひらを挙げる。「イェ〜」
「イェ〜?」斥侯長は呆然、よくわからない顔をした。
「拍手でお祝いしないか?とある人が私たちの代わりに少なくとも2000人の敵を処理したよ」公爵は微笑んだ。
「……」斥侯長はぽかんとした。この論理はさすがにおかしいだろ。
「死体を持ってきたのか?」公爵は斥侯長の肩を軽く叩いた。
「は、はい……ただ、それらの死体は……少々異常です」
「見せてみろ」
斥候が呼んだ後、2名の兵士は遺体袋を引きずりして、中の3体の遺体を地に投げた。
その3体は、徹底的に脱水された状態の死体だった。
骨のように痩せ、頬すら凹んだ死体たちは帝国軍の制服を着て、死んでも死にきれない枯れた目で前を睨んでいる。それらの死体は完全に水分を失っているようで、腐敗の部分は見えず、死亡時刻推定もできない。
公爵は楽しそうに口笛を吹いて、首を振って感嘆した。
「まるで脱水後、塩を塗布して、物干しに乾燥した干し肉ようだね」
「現在までに発見された2000の死体、すべてこの様子です」斥侯の声が少し震えている。
「その先にまだあるか?穴は?」
「そのようです。掘り続けましょうか?」
「夏涼、私たちの乾食糧はどれくらいある?」公爵はふと顔を振り向けて尋ねた。
「少なくとも二ヶ月です」夏涼は簡潔に答えた。
公爵はしばらく考えて、斥侯に微笑んだ。「じゃ、二ヶ月後にまた掘り始めようか」
「はぁ……はぁ……」青白い顔色で、斥侯長は乾いた笑みをした。
対話の空白を掴み、公爵の後ろにいる中年の副官は口を開き提案を発した。
「公爵様、それは恐らく、帝国軍内部の奴隷兵反乱事件です。我々は前へ進み続け、この機会を利用し帝国軍に痛撃を与えるべきです」
「夏涼、どう思う?」公爵は問題を夏涼に丸投げした。
夏涼は3体の死体を見つめて、ちょっと考えてから口を開いた。
「これらの死体はどうやって作られ、なぜ作られ、いつか作られたのか?問題の答えが見つかる前に、進むべきではありません」
「おぉ?夏涼副官、まさか、この「何もない」の平原の地形に我が軍が待ち伏せされている可能があると思っておられるのですか?」皮肉を言うような口ぶりで中年の副官は言った。
「わかりません」夏涼は首を振った。
中年副官のトゲのある言い方に、夏涼は怒れなかった。夏涼は知っている。この副官はいつも彼を見下し、彼はただ月璃との関係を利用して自分と対等になったのだと思っている。
「では、ここで止まろう」短い間考えた後で、公爵はそう言った。
「公爵様、あなた様もそれ以上先へ進むめば危険があると思っていらっしゃるのですか?」中年副官は公爵の顔色を眺め、慎重に尋ねた。
公爵は微笑んだ。
「いや、ただ気づいただけさ、もうこれ以上進む必要がない」
「これ以上進む必要が……ありません?」
「オオカミ」公爵は両手を後ろに組み、ある親衛隊の名前を呼んだ。「さっき、顔を掻いたんだろう、刀傷がまた痒くなったのか?」
夏涼はぎょっとした。公爵は夏涼の前に立っている。そしてオオカミは公爵に任命された夏涼の護衛として、今彼の隣にいる。さっきオオカミが顔を少し掻いた動きは、夏涼も気づいていた。
だけど最初から最後まで、公爵は彼らに背を向けていた……一体どうやってオオカミの動きに気づいたのか?
「いや」夏涼の怪訝と比べて、オオカミ本人はとっくに公爵のこの様な振る舞いに慣れていたらしい。
彼は再び過去のパートナーに觀月預言者の魂が宿って、危険を予知する能力が持つと言われた巨大な傷跡を掻いて、獰猛な笑いを浮かべ、傷跡を掻いている指は興奮で震えていた。
彼は前方の荒れ地を睨み、とても低い声で次の言葉を話した。
「痒みではなく、チクチクした痛みだ」
次の一秒、数え切れない赤い点が荒れ地の土砂に灯った。
「ボス」傷跡を掻いた後、オオカミはそれらの赤い危険の光が瞬いている点を見ながら、ゆっくり話した。「今回、俺たち……何人が帰れる?」
公爵は目を細めて倍速で増加している赤い点を眺め、沈黙した。
夏涼の周りにかすかな呼吸音だけが殘った。親衛隊たちの視線は全て公爵に集まり、静かに公爵の答えを待つ。
公爵と共に戦場を駆けたことがある老兵はみんな知っている。戦争の戦況と結果について、公爵は異常な精度で予測できる。過去、公爵が人たちに【英雄】と呼ばれた時期、戦場において彼はもう一つ、もっと耳に響く称号があったー【戦場の自己充足的予言】。
『自己充足的予言』は、もともと智の月財に記録された一つの心理学の術語だった。人の判断や思い込みなどは、正しいかどうかに関わらず人の未来の行為に影響して、結果としてその判断が現実に存在するものになる。すなわち、人はいつも不意に自分の予言を現実にしてしまう。
話に戻る。公爵がそう呼ばれた要因は、今まで公爵が予測してきた戦況は、どんなに誇張してもどんなにありえないことでも、最終、彼自身の狂気的な戦略と絶対的な武力によって逆転し、事実になる。
過去、抗戦の10年間、彼の毎回開戦前の死亡人数の予想に200以上の誤差があることは、一 度もなかった。
今、全ての人が静かに待っている答えは、この場にいる全ての人の生存率に関わる。
長い時間、公爵は沈黙していた。赤い点の数はとめどなく飛躍的に増加し、星のように前方の荒れ地を覆った。
「今回……」公爵はおもむろにごく長い黒刀を腰元から抜いた。
黒刀はなびかせる墨液のように、公爵の周りを一回りし、彼に最も近い斥候長と二人の兵士を横切る。
三つの生首は一斉に飛び上げる。
「ゼロ」
公爵は身を翻して夏涼たちに向く。無表情で。
輝く陽射しと生暖かい血雨の中で、彼は一人で光線を飲み込む黑刀を持ち、硬直していた夏涼と親衛隊たちに指して、淡々と彼らの運命を宣言した。
「今回、寒霜城に戻れる人は……一人もいない」