-傾月-〈拾陸〉白い凧は断絃で流離う 3
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カロは素早くに凧の前のロープを拾ってあげった。
「これは最後だ。俺がお前に頼らせるのは……これは最後だ。」彼は冷たく言った。
ロープで手を縛り付ける。
「ナナ、お前は私を追いかけることが大好きじゃないか?」
ひじに1輪、1輪、もう1輪縛る。
「カロさん、あなた……」ナナは呆れた。
「もし今回で俺に追いついたら、」カロは凶悪な笑いを浮かべた。「付き合ってあげてもいいぜ。」
話が終わる瞬間、走り出す!
「カロ!!!!」
カラ……
うるさい!黙れ!
カラカラ……
紅雪種だろうか、ナナだろうか……
カラカラカラカラ……
そんな簡単に俺に追いついたと思うな!
唯一二人を繋げっているロープは真っ直ぐに伸びた。カロは全力を尽くし、全身の筋肉からの悲鳴を徹底的に無視する。
前は、底の見えない絶壁だ。
カロは一気に進み、猛進する。
息を大きく吐き、大きく吸い込む。
力を振り絞め、大きな足取りで前に邁進する。
まるで人生の中で食べてきた一粒一粒の飯粒も、無駄に生きてきた人生も、妙に強い全身の筋肉も、この瞬間にもう一歩を踏み出すために存在したようだ。
崖の上に、無尽の月は彼の目前にある。今夜の主役はあの狂気な紫月にしても、彼女の風采を減らせない。
『無尽』と象徴するエンドレスは彼の前に水色の月光を照らす。
だからまだ終わらない、絶対に終わらせない。
カロは後ろから聞こえる焦りの叫びを無視し、ただ走って走って、ロープを引っ張り前へ走る。
彼は再び過去に寒霜城に泊まった時の数年の生活を思い出した。ムカつくな、今夜、彼にずっとあの時のことを思い出させる。あの恐る恐る、ひれ伏していた日々を。
あの頃、彼の膝はどんどん低くなり、同時に下人に対しての気性はますます荒くなっていく。
しかしどうしてそんなに必死に働いていたのだろう。彼自身も知らなかった。
答えを知らない上に、彼はもっと必死だった。
もしかすると生活はもともとそういうものだったのかもしれない。今みたいに、ただただ何かすごく重いものを引っ張り、必死に前へ引っ張って進み、後ろの闇に飲み込まれるのを恐れる。
だけど、今のようでいい。
なぜか話し出せないが、今のようでいい。
夢がない人が夢を持つ人を引っ張って空へ飛ばせる。これはこの理不尽な世界の中で……ただ一つの道理に合うことだ。
カロは笑った。本当を言えば、彼にも一つの夢があった。
誰にも話せなかった夢だ。
いつか、彼は世界一の金持ちになり、王国全体を買い取って、あのクソ姫に毎日100個のドレスを燃やさせる。例え彼女の顔が灰まみれになっても止めさせない。そして最後に泣き顔で『もう燃やしたくない』ってあの生意気なやつに言わせたい。
馬鹿馬鹿しい夢だ。彼自身も分かる。
だから彼はナナとは到底違う。
目前の断崖はますますはっきりした。今なら下の平原の木叢すら見える。
手で掴んでいるロープはだんだん上がって、大地と45度の傾斜になった。
では……そろそろ手を放そう、ロープの一端は彼の手に握られている。まう一端は……彼の好きな女の子に縛り付けている。あの子は絶対に手放さないだろう、だから……彼が手放すべきだ。
カロはとっくに知っている。五色を使えないナナは凧で二人の体重を支えることができるはずがない。
二人の道は違う。
彼は世俗的な、地面に属する。けどナナは自由な、空に属する。
断崖はまっすぐに空へ通じる。それはカロの終点、そしてナナの起点だ。
前方の道は……
……飛べるやつだけの道だ。
さようなら、ナ……
グサッ……
何かを貫いた音が後ろからした。
一滴の血が彼の横顔に飛び散って、花を咲かせた。
カロの足取りは思わず止まった。
……
……
……
振り返ってはいけない。
別れ際、振り返ってはいけない。
ナナの前に、彼はいつもその様子だった。紳士ではない、優しさもない。しかしせめて最後の時、彼は頼もしい後姿を見せてあげたい。
ナナの記憶に深く刻みつけられる、かっこいい後姿だ。
彼はそう望んでいた。ナナが年上になった後、たき火の隣で孫に物語を語る時、追悼の口調でそう言える。彼女が若い頃、カロという男に二度も救われた。それだけでいい、他のを言わなくてもいい。
だから振り返ってはいけない。
そう決まったのに……
「ナナ……ナナ……?」
背の後ろを、紫月が照らしている。
狂気な夜はまだ続いている。
数匹の紅雪種の尻尾が真っ直ぐに伸びて、凧と少女の体を貫いた。
パダパダ……べたべたした血液が空から落ちる。
蠍が尻尾を抜いた後、凧は引き裂かれて、空の征服を妄想した少女と墜落した。
カロは叫んでいる。周りの風がうるさくて、彼は自分が何を叫んでいるさえ聞こえなくなる。彼はよろめく足どりで走って、両手でボロボロになった少女を受け止めた。
「あ……ああ……」
懐の中の少女は軽くて、軽くて、まるで体重がないみたいだ。
「カロさん……」
彼女は手を伸ばして、優しくカロの横顔を撫でる。それは温度がない手のひらだ。
「ナナに構わないで……早く逃げて……」
「……」カロは返事をしない。
「もう十分だ……ナナは飛ばなくていいよ……」
「……」
「今ナナが望んだのは……カロさんが生きられることだけ……」
カロの視線がゆらゆらし、歯が小さく震えている。
もし筋肉を意識的に緊張させなければ、彼の手は体を支え続けることができない。
「ナナ……」
目の前の全ては常理を徹底的に否定している。カロはわからなくなった。狂っているのはこの世界、……それとも自分?
「……どうしてお前はまだ話ができる?」
「えぇ?」
ナナの目を見開いて、カロの反応を理解できないでいる。
「ナナ、お前……」ナナを抱いたカロの手の震えはますます強くなり、ナナの体が一体どんな姿になっていたのか彼にははっきりと見える。「……どうしてまだ生きてる?」
ナナの顔が青ざめ、ゆっくりと振り向いて、止まっている紅雪種の銀色の滑らかな甲羅の反射を通して、彼女はやっと自分の全身の状況に気づいた。
首の側は半円形の血の洞に割られていた。
右の手はなくなり、左の手は恐ろしい角度で歪んでいる。
胸と腹に、それぞれの血の穴ができている。その二つの穴を通して、カロの体すら見える。
ナナはふとカロの反応がわかった。説明しなくていい、どんな愚かな人でもわかる。この状況で人間が生きられることは完全に不可能だと。まして……話すことができる。
彼女は突然に唯一残して歪んだ左手でカロを押し退ける。
カロは尻餅をつき、うつろな表情でナナを見つめた。ナナは立ち上がって、よろよろと歩いて、壊れた左手で自分にすがりつく。
「そう……ね、どうして……ナナはまだ生きているの?」
ナナは自分を抱きしめ、呟いた。
軽い口調だが、その話し方は決して死にかけた人の声ではない。
「あの時もそうだ。初めて紅雪種を見た時、ナナはとっくに死んだはずだ。だって、ナナは覚えている……あの時も今のように……ナナは……自分が殺された場景を見届けたの。」
「カロさんの言った通り……どうして紅雪種を見たのに、ナナはまだ生きているの?」
「答えは、簡単だね……実際に、ナナ……とっくに死んちゃったね。」
「でもどうして……ナナがとっくに死んだら、今のナナは……」
「ああぁ……そうっか……」
ナナの唇は震えて、いろいろなものが表情の裏にだんだん満ちてくる。悲しさ、絶望、そして……狂気。
その瞬間、空を愛している少女はやっと気づいた。空は実は存在しせず、全ては逆さまに映した偽りの幻影。
「ナナは思い出した。どうしてナナの記憶はそんなにおかしかったのか。どうしてナナは覚えている……『自分』が殺された情景を。」
これまでカロは一度も思えなかった。世の中にそのような表情が存在するなんて。
さらに思えなかった。いつか、そのような表情がナナの顔に浮かぶ。
「だからナナは紅雪種を見たのに、無傷で村に帰った。」
「だから、ナナの頭が硬くて寒くて、まるで鉄みたいだとカロさんに話した。」
「だからナナはすごくお腹が空いたのに、何も食べられなかった。」
「だからナナはすごく悲しかったのに、涙を出せなかった。」
「だからナナはどんなに走っても、疲れを感じなかった。」
「だからナナは急に五色を使えなくなった。」
ナナは焦点が合わない目で前を見つめる。
絶望はどんどん消えてゆく、彼女は無表情になった。
「この全ては模擬的なものだから。カロが本当に好きなナナは今朝にすでに死んだ。今の『ナナ』は……ただ複製された模擬人格に過ぎない。そして『私』は……文明平衡システムだ。」
全ての感情は潮の引くように退いていった上に、残るのは虚無、感情の空位が埋められない空白だけだ。
「また、人にそう呼ばれている……紅雪種。」
彼女の声にはもう生き物としての感情はなかった。
もし氷と金属が声を出せるなら、多分、今のナナの声と同じだろう。
『……文明の発展の探知任務を遂行した。擬態機能を止め、今から暗号化の自我情報を導入し……模擬人格との互換性を確保しました。』
そしてカロの目前に、ナナは変化した。
肉眼ではほぼ見られない、金属色のごく小さい管体は体の中から伸びて、傷に交差し、一秒間に数千回の速度で精密に縫合して、赤色の液体が管体の中を通って、鼓動させた。
血管が完成した後、同じ変化は肌に始また。小麦色の肌は自動的に傷へ伸びて、素早くに傷口を癒合している。
たった数秒前、彼女のボロボロの姿でカロの前にいたが、今、彼女の全身は一新した。カロはそのまま呆然として彼女を見つめ、しばしの間、呼吸すらも忘れた。
詳しいことはわからないが、彼は目の前のものは人間ではないことをわかっている。
精良な品物の商人として、これまで彼は無数の大家によって作られた芸術品を見たが、今のナナのように、精密、完璧、神の仕業に限りなく近づいたものを見たことはない。
『……情報導入終了、機能的な个体の数を確認した。『氷刃蜘蛛』3体、『高能蠍』73体、『蛇の花』2407体、これから、『高位人形ー人工ニューラルネットワークプログラム γタイプ』が師団の指揮権を引き受ける。』
数秒で、ナナの肌は再びシルクのように滑らかになった。両手も完備している。全身に染めた血と汚れは今に完璧に消えた。綺麗で可愛らしくて、完全無欠のようだ。
彼女はさりげなく手を横に振り、周りの全ての蠍形の紅雪種は一斉に後ずさりして、しゃがんで待機する。
それは不可侵の威厳、
天のように高くて、同時に限りなく冷たい存在、
人間ではない存在だ。
「ナナ……お前……」カロは愕然として口を開いた。
『ナナ』は首を傾げてカロをじっくりと観察する。自惚れる人間たちがちっちゃい虫を観察するように。今、立場が逆になって、人間は『それ』にとって、だた梢に軽く置かれ、賞翫されている玩弄物に過ぎない。
赤褐色の目の中に薄紫色の幽かな光を含めて、瞳は迅速に何回も収縮と拡張を繰り返した。
そして彼女は冷たい手を伸ばして、そっとカロの横顔を撫でる。
『カロさんは……』
彼女はクスクス笑って、笑顔が咲いた。若くて美しくて、甘い蜜のように。
しかしその目つき……
その冷ややかな、全く感情が無い目つき……もうナナという少女のものではない。
『……本当に鈍いね』
今日の3回目の口癖だ。
同時に、最後の一回だ。
……
……
……
風が立ち、白い凧は赤い雪の中で舞い上がる。
カロさん、準備できたのか?
一緒に……
……世界を滅ぼしましょう。