-傾月-〈拾陸〉白い凧は断絃で流離う 1
カロは顔色が変わった。彼はこんなひどい悲鳴を一度も聞いたことはない。人がそういう声を出すということも一度も想像したことがなかった……この声は、屠殺場で家畜が首を斬られた時の断末魔のように、人の体の毛を思わず逆立てる。
「……くる」ナナは頭を抱え、全身が震えている。
トン……トン……トン……トン……
地面は低い音とともに揺れ始める。それまで静かだった夜は、その悲鳴によって、一瞬の間に色々な音が続出してくる。まるで悪趣味な劇団の全パフォーマンスを、同時に登場させる音みたいだ。
トン……トン……トン……トン……超巨大生物の踏む音……
サササ……無数の不明生物が地面に擦りつける音……
カラカラ……ある生物の動く関節の音……
そして……
うわあああ……
バケモノだ……
ああああああぁ……
く……くるな……
たすけぇ……
ああああああぁ……
ああああああぁ……
あああ……
悲鳴はあちらこちらから聞こえてくる。しかし全ての悲鳴はたった5秒で途切れた。どうして止まったのか、カロは一つの可能性しか見出せなかった。
彼はくそっと罵って、自分を無理矢理に立ち上がらせて、ひざを何度も叩き、震えている両足ををおとなしくさせる。すぐ逃げなければいけないことを彼は知っている。悲鳴と彼の天幕の距離はますます近くなってきた。
彼はしゃがみ、まだ震えている少女を強く引っ張りあげる。
「いくぞ!ナナ!」
ナナの返事を待たずに、彼は天幕の入り口に飛び出す。
しかしわずか数歩の距離で、二人の足は入り口の前でぴたりと止まった。足のひらにまるで釘でも打たれたように動けなくなり、目の前の、夢か現実かわからない光景を見て棒立ちになった。
「我がエンドリスよ……あなたは狂っているのか?」カロは呟き、頭の中が混乱する。
これ……
これは何かわけがわからない悪夢だ。
巨大な月が彼らの目に映っている。
無尽の月のような大きさどころか?あの若紫色の妖艶な月は荒々しく3分の1の空を独り占めしている。
もし世界を簡単に昼と夜で分けったら、目の前の光景をどうやって分類すればいいの?夜のはずなのに、世界全体は幽明の紫色の光に包まれている。
しかし目前の残酷さを見て、この世界には一点の光もない方がいいと思わさせた。光は希望って、誰がそう言ったのか?こういう狂気に満ちた世界を、一目見ただけで人は狂いに強烈に誘い込まれる。
「たすけ、助けて……」
カラカラ……甲殼と無数の関節がずれ動き、音を出す。雄牛と同じぐらいの大きさの数匹の蠍形の節足動物はカロの目の前のジュエリー商人を追いかけている。
トン……トン……
二人は急に影の中に入った。脚が極めて細長い超大型の蜘蛛は彼の頭上を渡って行く。しかしナナが話したのと違い、今7つの脚は下に向き、地中に深く挿入してその身体を固定している。
残りの片脚はゆっくりと、しなやかさがあると同時に極めて不自然に上に挙げ、おかしい角度で捻っている。カロはその姿に印象がある。あの姿、まるでアルタイ部族の戦士たちが強弓をひきわける時の……引き締められている弓身みたいだ。
「ナナ!」
カロは叫び、ナナを抱いて側に転がった。
ドンンンンンン!
長い脚が斬り下ろすと、荒々しい風が二人に襲いかかる。
カロは体でナナをかばう。裂けた小さな石が彼の顔にひっかかる。二人は狂風によって草地にごろごろ転がっていた。
ほこりが広がり、もがいて立ち上がった後、カロは灰色の芝土に残された土色の長い跡を見て、戦慄が走る。彼の天幕も垂直に二分されて、中には綺麗に二分された寝床、カーペット、商品が詰まった棚を見える。
バチン。
さっき二人が使っていた鍋も真っ二つになっていたが、残ったスープは流れ出していなかった。一瞬で氷になった濁った黄色のスープの断面が見える。
これだけではなく、化け物の足がさっと擦り付けた足跡は、全て白くて薄い氷が張っていた。
「もう……逃げきれないよ……」ナナの歯が震え、膝をついた。「もうだめだ。ナナは……もうだめ……」
「俺の商品……」カロは綺麗に二つになった商品棚を見て、顔が真っ白になった。
「あはは……カロさん……こんな時ですら……」ナナは乾笑を漏らす。
カロは怒り狂った目でナナを睨み、急に両手でナナの襟を掴んで高く持ち挙げる。
「お前も『こんな時』って知っているじゃないか?」カロは怒鳴る。「なら立ち上がってくれ!」
「放して……ナナを放して、ナナは高い所が怖いよ、上、上には蜘蛛がいる…………わああああっ死んじゃ死んじゃ死んじゃ……」
「俺はもう二度とお前を助けない。一緒に走れ、さもなければここでクタバレ!」
一言一句はっきり言って、カロはナナを地面に置いて、彼女に手を伸ばした。
カロは彼女に3秒しか与えない。
ナナはきょとんとして、目尻が赤くなり、最後の1秒で彼の手を握った。
「どうしよう、ナナ今、めちゃくちゃ感動しちゃ……」
「走れ!」カロは吼えて、ナナのムダ話を無視し身を翻して突っ走る。
数秒前、ナナの背の後ろに、すなわちカロがさっき向いった方向に、蠍形の節足の化け物は尻尾でジュエリー商人を捲き上げ、両側のハサミで商人を掴んで捻って、地面に戻した。まるで何か壊れたおもちゃみたいに、ジュエリー商人は数歩走った後、すぐ転び、やっと自分の視線が走る方向と180度違ったことに気づいた。
そして節足の化け物たちは転換して、二人に向いた。
ナナに3秒しか与えないのは、彼に与えられた時間も3秒しかないから。
「聞こえたよ。カロの心臓の鼓動のスピードが凄く、凄く凄く早い。」とナナは吹いてくる風の声の中で叫んだ。「もしかしてこれこそが……恋というもの?」
「うぜい!」とカロは罵った。「クソ姫的に走ろ!」
「さっきナナはこっそりにカロさんをカロと呼んだの。私たちはもうすぐ死んじゃうかも、だからね、そう呼んでもいいの?」
「好きにしろ……」
黙れと言わなかったのは、体力を消耗する可能性があるというのもあったが、もしこうやっていつものムダ話で理性を維持していないと、体力がなくなる前に二人が先に狂っていくかもしれないと思ったからだ。
今、周りで蹄鉄の音と馬の嘶きが響き、人々の悲鳴と泣き声がこだましている。
二人はずっと走っている。必死に走っている。幸い、ナナとカロにとって体力はちょうど互いの強みだ。
カラカラの音は依然として後方から響いている。近づいても、離れてもいない。
数十匹の蠍形の化け物は部族の中で暴れ回って、天幕を横倒して、走り出した人々の首をねじ切る。
人々は方向をかまわずむやみに逃げている。蠍と蜘蛛以外に、第三種の最も小さくて、個體數も最も多い紅雪種がいる。どこが頭かどこが尻尾かわからなく、一群れ一群れの鉄蛇だ。カロはさっきナナを嘲笑った猿顔の男の頭を抱えながら悲鳴をあげて逃げている。そしてうっかり彼らにつまずいて倒れた。無数な鉄蛇は彼を飲み込み、彼の体はくねくねと動いている。
我がエンドリスよ!どうせ死ぬなら、もっと気持ち悪くさせない形で死んでくれないか?カロは心で罵り、心臓の鼓動がより速くなる。
「うわわぁ〜せめてこの死に方はご遠慮してくださいってナナは心から誓った。」
「お前、決心を死に方に使う暇があれば、生き方に使え!」カロは怒鳴った。
自分の手の汗でナナがしっかり掴まれないことを恐れ、カロはナナが痛がるほどの力で彼女の手をがっちりと掴んでいる。
ナナの手のひらはすごく冷めたくて、温もりがない。彼はまるで氷を掴んでいるようだ。人が極度の恐怖に陥ちる時、逃げるために血が下肢に集中する
そうだ。その点で見ればナナの体は頭より賢いらしい。
「伏せろ!」
一人のアルタイ戦士の身体が蜘蛛の脚で真っ二つに切られて彼の頭上に飛んできた。その中に男の内臓が氷になった断面がはっきり見える。
「この死に方もちょっとあれね……」ナナの顔色が青ざめた。「やっぱり死なない方がいいかも……」
「おいおいおいおいおい走れ!」カロはかすれ声で叫んだ。
頭の上に、一番危険な、蜘蛛形の紅雪種は四つの脚を上に歪めて、人の群れの中に垂直に次々と切り落ろす。
幾度かの風圧は連続して二人の横顔に吹きつけ、三つの天幕は一気に倒した。人々の鋭い悲鳴の途切れとともに、氷になって碎けた肉塊は天幕から四方に飛び散る。
これは化け物たちに属しているサーカスだ。
この世界に存在しないはずの異質な生き物たちは節制なく殺戮を続け、まるで虫を踏みにじるかのようだ。いや、あいつらを生き物と呼ぶべきなのか?外見は生き物の形に見えるが、カロはあいつらが生きているようには感じられない。
侵さず、遊ばず、生き物が殺戮する時の高揚感さえもない。
怪物たちは一声の叫びもせず、ただ静かに、殺戮を続ける。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
巨大な蜘蛛は大地に立ち、脚の細長い銀刃は薄紫色の月光を照り返し、長い脚を締めるたびに、淡々と人々に死を与える。
月神エンドリス以外、この世界に唯一の邪神は『月璃』という絶対悪であるってカロは思っていた。結局、今はもう一つ増えてきた。
「くそ!くそおぉぉぉぉ!」カロは息が荒くなり、怒鳴った。「俺らは……虫けらじゃないぞ。」
「汗をかいているカロさんもかっこいい……」
この言葉を聞き、カロの顔は少しけいれんした。笑うべきか罵るべきかわからなくなった。
「お前……果たして神経を持っているのか……」
世界が終わる時、こういう冗談を言う相手が側にいるのは、彼は異常な幸運と言うべきか、それとも異常な不幸と言うべきか?……にしても、先まで死にそうな顔をしていたのに、すぐに日常の状態に戻した。彼女の頭はどうやって構成したのか?
しかしナナのいかれた反応のおかげで、カロは緊張を少しほぐした。
カラカラ、後ろの危機は依然として続いている。幸いあれらの鈍重そうに見える化け物の速度は早くなく、ただ根気よく二人に追い付いている。
「ハァ……ハァ……ハァ……」カロは口を大きく開けて空気を吸い込み、強引に自分を素早く換気させた。
緊張は少しほぐれたが、心の中はどんどん焦ってきた。部族の戦士の中の筋肉ばかり発達した上位数名を除き、彼とナナの走る速度はどんな人と比べても負けないはずだ。しかし今、相手は疲れさせられるかどうかさえわからない化け物だ。どんな楽観的に考えても、二人の体力の方が先に尽きるはずだ。
体力が無くなる前に逃げ切る方法を見けないと……ジュエリー商人の最後を思い出して、カロはゾッとした。
「あ!カロさん、東南に走って!」ナナは突然に叫んだ。
「南東?」
カロは眉をひそめた。部族の南東方向は険しい『アルタイの崖』だ。確かにあれらの鈍重そうに見える化け物は崖を降られないはずだが、それは彼も同じだ。
「二番目!二番目!」
「二番目?」
「ナナは二番目のうさぎちゃんをあっちに置いた!」ナナが大声で叫んだ。
「うさぎちゃん?」
「凧だ!凧!」
……
……うさぎちゃん?
ナナの命名センスに突っ込む時間がなく、カロはナナを引っ張って90度回転して、南に突っ走る。