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-傾月-〈拾叁〉踊りの後、少女は自分をリードした男に最も真摯な感謝を 3

 

 彼女は片手でスカートの裾を持ち上げ、片手を彼に伸ばして、顔の笑顔が寒霜城の秋の昼のあたたかい風のように、彼を包む。


「涼君、踊りましょうか」


「はい?」夏涼は眉を顰め、突拍子もない要求に反応ができなかった


「だって、成年式の時、一緒に踊らなかったから……」


「練習の時、よく一緒に踊ったではありませんか?」夏涼は微笑んだ。


「練習とは……少し違いますよ」月璃は首を振る。


「承知しました」夏涼は立ち上がった。「しかし、ここではスペースが足りませんね」


 あたりを見回し、今彼らがいる食堂は長方形の部屋だ。真ん中に大きなロングテーブルが部屋全体の3分の1まで埋め、左右に椅子が並んでいたので、残りの空間が少ない。


「当ててみて、どうしてわたくしは空のコップを椅子に置いましたの?」月璃は微笑みをした。


 夏涼は目が少し見開いた。その動作には何の意味があったのか?


 月璃は笑顔で彼を見て、片足を後ろに引いて、指を精緻なレディース靴の後ろの隙間に入れて、引く。


 バッタ、バッタ。


 彼女は二足の靴を脱いて、滑らかな裸足を露出した。


 夏涼の戸惑う視線をよそに、彼女は空っぽのロングテーブルの上にに躍り出て、軽い身のこなしで身を一回転させて、再び彼に手を伸ばした。


「ここで十分ではありませんか?」彼女は少々あさどい笑みを浮かべた。


 夏涼は惚けるように彼女を見つめ、ある瞬間、彼は【月から来た小悪魔】に専属する笑顔が月璃の顔に咲き誇ったことを見たようだった。


 その刹那、二つの全く違う個性が重なり、目の前にいるのは、一体、記憶を失った月璃なのか、それとも大人になった悪魔ちゃんなのか、彼はわからなくなった。


 思考し続ける時間がなく、月璃の促すような視線で、彼は素早く靴を脱いて、月璃の手を掴んで横長の舞台を踏んだ。


 テーブルに立ち上がった後、彼は優雅な笑みを保ち、敬礼して、左手で佩剣を横に押し、右手を胸の前に通させて、翻して月璃の前に止まった。


 月璃は含み笑いをして、左手を軽く彼の手のひらに置いた。この涼やかで柔らかい触感は、夏涼を自分の手が冷えた水で浮いているように感じさせた。


 二人は指を組み、夏涼は鼻歌を歌う。薄暗い照明の下、檀木のロングテーブルの上、二人は踊り始める。


 ウォーミングアップも、余計な音楽もいらない。舞踏会時の硬い動作と違い、今の月璃の動作はまるでツバメのように軽く、足取りは水面をかすめるように、二人だけのリズムで踊る。


 成人式の前に長い時間、彼らはほとんど毎日練習した。今は思考すらもいらず、すべての動き、すべての呼吸を自然に互いに合わせ、水到りて渠成る。


 数千回の練習は、ただ今の踊りを成就させるためにあった。


 ロングテーブルの幅は広くないので、ステップを踏むのに足りない部分では、夏涼が月璃を引っ張って空中で回転さた。桃色のワンピースは月璃の踊りに合わせてなびいた。空に浮かんで旋回する彩の花のように。


 月璃の美しさを…夏涼は自分が一番よく知っている人だと自負していたが、今の彼女の美しさを、彼自身ですら想像していなかった。


 頬紅(チーク)はつけていないが、少女の頬にある一抹の緋色はこの世界で最も高級な頬紅だ。アイシャドーは塗られていないが、少女の瞼に輝く光沢はこの世界で最も明るく美しいアイシャドーだ。


 夏涼は鼻歌を歌うことを止めた。旋律はすでに空気中にある。


「珍しくわたくしは今回あなたの足を踏まなかったですよ」月璃は笑って言った。


「こんな高レベルな動作を教えた記憶はありませんね」夏涼は言いながら、月璃を連れて回転する。「靴を履いてないので、踏んでも覇気がないんです」


「ゆっくり考えると、この数年、本当に夏涼に色々教えられました」


「そうですか?」


「ええ、今も覚えてます。初めて夏涼に裁縫を習った時、ただ一本の針を持つだけなのに、わたくしが雪蝶を持つ時よりもあなたを緊張させたんです」


「何しろ、君の剣法は君の針法のような豪快無双ではありませんから」夏涼は笑った。


 月璃が無言の抗議のように口を尖らした様子を見て、夏涼は月璃を導いてもう一度回転した。


「わたくしは初めて台所に立った時も、夏涼がそばで教えてくれましたね」月璃は瞬きした。「あの時、あなたはわざと無表情を装ったが、剣の鞘に手を置き、まるで猛獣を相手にしてるかのように鍋で踊る油を見守っていました。」


「私が手伝ってあげて、鍋にある羊のステーキをもっと綺麗に切る方がいいのか?あの時の私はそう思っていましたよ」?


 月璃は少し笑った。数秒後、目を伏せて軽く話した。「でも、あの時の羊の煎り焼きも、裁縫の時のぬいぐるみも、最後も日琉は受け入れてくれませんでした……」


 月璃の気分が落ち込んでいることに気づき、夏涼はもう一度彼女を回転させた。


 だが一度の完璧な回転は、月璃の気分を上げなかった。


「彼女の機嫌を取ろうとすればするほど、私は彼女のお姉さんらしくないんだと彼女は思っていたかもしれません」月璃は呟いた。


「それは君のせいではありません」夏涼は首を横に振ったが、ダンスの足取りは彼女の気分に伴ってだんだん遅くなった。


「ねぇ……涼君」


「うん?」


「涼君は、今のわたくしがそのために消えても、私に記憶を取り戻させたいんですか?」


 存在しない音楽が突然停止し、二人は一斉に足が止まった。


 夏涼は月璃を見つめ、月璃も夏涼を見つめ、互いの指はそのまま交互に重なって繋がって、互いの足もそのまま密着しているが、星の光が黒い夜のような月璃の瞳の中で少しずつ暗くする。


 ロングテーブル上での二人舞、過去の月璃ならやりそうなことだ。彼はそれがもしかしたら月璃の記憶が戻ろうとする兆しかと思ったが、もう一度考えてみれば、それはただ、月璃が自分を無理させているのかもしれないと思った。


 夏涼は彼女の不安を解消してみたいと少し考えた。


「月璃、君は消えはしません、記憶があろとなかろうと、個性がどんなに変わろと、君たちは同じ一人です」


「いいえ」


 月璃はゆっくり彼を押しのけて、数歩後ずさりした。


「最後の1日ですから。お願い……嘘はもうやめよう、涼君」月璃は軽く言った。いつものように優しい口調だが、今まで、彼女は一度もそのように彼を非難したことはなかった。


 彼女は彼を見つめ、包帯をした指を胸元に軽く当てつけた。


「わたくしを見て……わたくしは今……ここにいますよ」


 激しい口調ではないが、夏涼には感じられる。その中の感情、沸き起こるようで、自分をやけどさせてでもぶちまけたい気持ちを。


 軽くで、けれども喚び声のように、それは月璃が過去一度もしなかったことだ。彼女は今全力を尽くして隠していた思いを彼に伝えようとしている。


「わたくしは……ずっとここにいますのに」月璃は胸元を抑えた。「君の瞳に映っているのは……本当にわたくしですか?」


「……」夏涼は沈黙していた。


 何を言うべきかわからない、だから……沈黙した。


 月璃は彼を目を凝らして見る。


「日琉に対してではなく」


「わたくし自身に対してではなく」


「この世界に対してではなく」


 彼女は胸元の襟をぎゅっと掴んだ。


「教えて、あなたにとって、あなたの真実にとって……わたくし……」彼女は首を振った。「……私たちは本当に同じの一人ですか」


 夏涼は唇を噛み締める。月璃の言葉は彼の心を裏まで真っ直ぐに切って開く銀の刃のように、彼に逃げ場をなくさせた。彼にとっては、今の月璃と過去の月璃は……本当に同じの一人なのか?


 夏涼はいつも月璃が記憶を取り戻すことを望んでいる。なぜなのか彼自身もわかる。あの日々は彼にとっては特別なのだ。だから望んでいる。いつか少女は思い出すことができる。あの日々に、彼女は一度夏涼という抜け殻に魂を与えたことを。


 正直、率直に言えば、今の月璃は過去の月璃より彼の好みに合っている。書物と礼儀に通暁し、人の気持ちがよく解かり、淑やかで、一册の本のように。


 しかし彼は過去の月璃をいつも忘れられない。どうやって自分を抑えても、いつもいつの間にかあの風変わりな女の子が彼の頭に浮かんでいる。覇道で極端で、誇らしくてわがままばかりで、刀のように鋭いあの女の子を。


 今の月璃と比べるなら、あの女の子はいつも彼の頭を痛くさせていた。彼を毎日奔走させて、裏で呪罵を自制しながら彼女がやったことを片付けなければいけない。


 だけどもこのような少女が、さりげなく彼の世界に踏み込んで、枯れ枝をへし折るように彼を縛り付ける全てを気の向くままに壊し、その抜け殻を砕き、作り直して魂を与えた。




 自分の人生の中でこのような人が存在することを、誰だって望んでいるだろう。




 ねえ、笑って、少女は彼の仮面を外して言った。だから彼は笑ってみようとした。


 ねえ、泣いて、少女は彼の仮面を外して言った。だから彼は泣いてみようとした。


 そして少女は立ち去った。彼一人を残して、顔には依然、少女に命令された表情があったが、泣くべきか笑うべきかがわからない。


 ……まるで、新しい仮面のように。


 確かに今の月璃はもっと彼の好みに合うが、もしあの無茶ばかりの少女がいなかったら、過去のあの仮面を被り、他人から与えられた配役しか演じられない抜け殻には、『好み』というものが持てるのか?


 過去の月璃は今の彼を形作って、そしてそうやって、軽やかに、身を翻して消えてしまった。彼は確かに今の月璃が好きだ、だけどもし、機会があれば、彼は……


「懐かしみではなく、想いです」月璃は彼の表情を見て、彼の代わりに軽く答えを言った。「やはり想っているんですね、あなたにとって、最も大切な女の子を」


 夏涼は口を閉める。考えて、考えて、絶えず考えて、今まで彼の行動のルールは、いつも月璃の期待を第一位に置く。しかし今どう考えても、彼は月璃が求める答えを探せなかった。


 大事な時、いつも適当な言葉が出てこない。彼はこんな自分を痛く憎まなければならない。


 もっと憎むのは、彼はもう月璃に嘘をつけないこと。どれほど自分を欺いても、自分を説得しても、月璃は簡単に彼の嘘を見抜ける。


 しばらく黙り込んだ後、やがて彼は小さく頷いた。


「うん、彼女のこと、ずっと想っています」


 そう、彼はずっと想っている。5年過ぎても、脳裏に、少女は一度も色褪せず、逆に鮮やかになってゆく。裏庭を通り過ぎた時、彼はいつも思わず大きな木の上を見たが、少女はもうそこにいない。冬、彼はいつも降る雪を見ているようだったが、しかし脳裏にはあの独りで降る雪に枯れ枝を振るって舞う少女ばかり。


 彼はそうやってずっとずっと想っている。


 月璃が成人を迎えたとしても、彼の幻想は止まらず、むしろもう一種の想像が増えた。もしあの月璃が無事に育てられていたらどうなるのか?彼は想像し始めた。


『もし』がない。彼も知っている。『もし』というものは、どこにも存在していない。


 だが、どうしても想像を止められなかった。今の月璃に言えない、あの子だけに言える言葉がたくさんありすぎて…彼女を叱りたい、彼女を嘲りたい、頬を一度平手打ちしたい、一体いつ帰ってくるのかと質問したい、この先絶対に一人でちょろちょろさせないと言いたい。たくさん、たくさん、あの子に言いたい言葉は本当にたくさんがある。だけど、最後、ただ一言を軽く尋ねるかもしれない。


「ねえ、どこにいっちゃたの?私は君のことを想っていますよ」


 だけど彼は機会がなかった。過去に望んでいた、一度手に入れた居場所は、結局、自分で手のひらからこぼれて落ちた。


 知っている。自分はあの少女を縛られない。あの少女は烈火の如く、嵐の如く、いつか彼女が離れようと決心する時が来たら、自分は決して彼女を止める力はない。けれど、それでも、こんな形で終わるなんて、そんなはずじゃない……

 夏涼は目を瞑り、自分が暗闇に食い込まれるままにした。


 滑稽だな。「心配しないで、君たちは同じ一人です。」月璃にそう教えた人は他でもなく、彼自身だ。しかし結局、彼自身が誰よりも自分の嘘を信じられなかった。


 ふと、後ろから生暖かい風が体に吹いてきた。


「目を開けないで……」月璃は軽く彼を抱き、二本の腕が背中に絡まる。「……せめてあなたが目を閉じているの今、私たちは同じの一人です」


 あの同じ柔らかな感触は、彼に街で酔っ払いになったあの日の月璃ちゃんを思い出せた。あの日も、月璃ちゃんは彼の懐で意識が朦朧としていた時も、このように彼を抱きしめた。


 あの時は、少女の顔にはいつもの強がりがなかった。彼につぶやき声で訴え続け、柔らかで無力な小さい手だったが、一度も彼を放さなかった。


 そしてあの頃、彼は初めて知った。そうか、こいつも寂しいところがあるんだな。


 もしかしたらあの小さいやつはいつも敏感で繊细な人だ。ただ、彼女の敏感さと繊細さは、他人に観賞用としても、哀れを誘うためのものでもないだけだ。


 今、あの月璃ちゃんが大きくなった。そうやって同じように彼を抱きしめている。


「ねえ、またどこに遊びにいきましたか?」暗闇の中で、夏涼は声をひそめて尋ねた。


「わたし、ここにいるよ……」月璃は彼をもっと強く抱きしめる。


「君が家出の嗜みを持つことを知っているけど、今回はあまりにも時間が長すぎませんか?」夏涼は自分の口調をなるべき控え、慎重に、恐る恐る尋ねた。彼女が身を翻して再び消えることを恐れるように。


「ごめんね……」


「君がいつも寝る時に抱いているぬいぐるみたちも、ちゃんと残っています。でも今の君には必要ないから、ちゃんと私の部屋に置いています」


「うん……」


「また君にたくさんドレスを買っておきました。マッチと燃油も私がすでに用意しました。今度、君がたき火の隣でおかしい踊りをする時、一緒に踊ってあげますから」


「うん……」


「それ以外、特に言いたいことはありません。十分遊んだら早く帰ってきなさい」


「うん……」


「……」


「……」


「会いたいです……」


「うん、私も……」


 静寂が残った。


 二人はもう話をしない。


 全てはただ彼の幻想かもしれないだろう。彼はそう感じた。少女が確かに帰っていた。だけど、今はまた離れてゆく……


 また、夏涼は彼女を残せかった。


 心のどこかで、空っぽを感じた。何かの、心の底にずっとずっと隠して、深く埋められたものを連れ去れた。


 ある人たちが離れた時、いつも何かを残す。


 ある人たちが離れた時、いつも何かを持ち去る。


 彼女は離れた。しかし、残された二人はまだ互いを抱きしめている。孤独で、世界の外に存する抱擁。二人の呼吸音だけで、静かな旋律を織り出す。


 しばらくした後、月璃は軽い声で尋ねた。


「もう大丈夫ですか?」


 夏涼は目をあけて、彼女に微笑んだ。


「ええ、ありがとう」


 月璃は彼を抱いた手を放して、後ずさって、そして再び彼に手を差し出した。


「では、もう一曲踊りましょう」


 夏涼は少々呆然として彼女を見た。まだ踊りたいんですかと尋ねるような顔している。


 月璃は手の甲で彼の胸に軽く当てた。


「ねぇ、これで最後です、付き合ってくれませんの?」


 微笑んで、夏涼は彼女の手を握った。


「いいよ、踊りましょう、何が踊りたいのですか?」


「あなたにお任せいたしますよ、口ずさんでください。」月璃は満面の笑顔をたたえ、彼の問題に返事をしなかった。

 爪先が軽くテーブルの表面に触れて、何かをまき散らすように手で空中で完璧な円弧を描く。


 夏涼は一拍止まって、自然に旋律を口ずさみ、手がリズムに追いつく。


 それは正式な社交ダンスではなく、踊り練習の暇なときに遊んで踊った、庶民的な祭り時の恋人の二人舞だ。


 この『星空のステップ』という短い歌は特別なのだ。民間で、これは二人の美しい愛情を月神に捧げるための踊りだ。だから一度踊り始めたら、絶対に止めはいけない。もしこの歌を踊る時に止まったら、民間の伝説では、月神は恋人を連れ去ろうとする。


「涼君、歌を止めないで」月璃は軽い声で言う。「歌が止まると、踊りも、終わりますから」


 身を翻して、夏涼は後ろから彼女を抱き、二人の手が月璃の前に重ねる。


「だから……今から、わたくしの独り言です、一人の……独り言です」


 月璃は彼の側から回し去って、夏涼の軽い鼻歌と伴い、軽やかなダンスをしている少女の声が彼の耳に残る。


 それは二人の踊り、同時に一人の独白だ。


「この数年、わたくしはずっと涼君を見ています。だから知っています。涼君もずっとわたくしを見ていますが、わたしくを見ると同時に、わたくしを見ていないんです」


 二人の手のひらは空中で押し合って、二筋の流星の軌跡のように交差し、夜空に消えていく。


「夏涼はわたくしを見るたびに、心の中で、いつもあの女の子を想っています。」


 夏涼は返事をしなかった。彼は鼻歌を続けて、軽く続ける。


 それは彼女の独り言、一人の独り言だから。


 彼はすでに感じていた。この踊りが終わる時、いろいろなものも一緒に終わるだろう。


 だけど止めてはいけない。前方には一筋の道だけが残り、彼は、それを歩き続けるしかない。


 歌が止まると、踊りも終わる。


「わたくしにとって、あの女の子はわたくしの影みたいなものです。形影相従うの影」


「涼君と一緒にいる時に、彼女のシルエットがいつも涼君の心の底にいる、浮かんで消えません」


 月璃は手を離した。この段に、女性の方が一人で緩やかに回転して、再び男性の方に手を伸ばして、頬を撫で付ける。彼女の瞳は星のように、悲しく煌めき、夏涼の視線を逸らせない。


 それは儚くなりそうな絶美、湖底から浮かんでゆく泡沫のようだ。


 少女は彼を見つめ、指の先で軽く彼の横顔を擦ってゆく。


「涼君は実はわたくしと恋したのではなく、わたくしの影と恋をしたんですね」


「いいえ、こういうべきでしょう、わたくしこそ……影です」


 手を夏涼の頬から外れ滑って、彼女は胸元で両手を合わせた。甘い笑顔はまるで全世界の幸せを集めて、ただ彼に贈り物をするためのように。


「ただの影にしても、今のわたくしにとっては……涼君が一番大切な人です」


「だからもう逃げはしません、あなたの期待を叶えるように、あの女の子を帰ってこさせます」


 その笑顔を見ながら、末節の旋律を鼻歌する夏涼はついにわかった。


 今、少女は彼と別れようとしている。


 舞踏会の時に彼が予感した通り、記憶を取り戻してもしなくても、最終、月璃は彼に頼らなくても大丈夫になるだろう。さっきの一人踊りのように、互いに手を離しても、夏涼のリードがなくても、彼女はうまく踊った。


 夏涼が出征した後、彼女は彼に依存せず、一人で、彼女を怖がせる記憶に直面しようとするだろう。


 それは彼女の決心、同時に彼女の訣別。


 今の彼女が徹底的に消えてしまうとは夏涼は思わない。この5年間は決して無駄ではなく、月璃が記憶を完全に戻す時、この5年の時間は、過去の少女が最も欠けていた柔らかさになる。


 消えていくのではなく、生まれ変わるのだ。


 だから、夏涼は最後の長音を軽く鼻歌をした。




 何も言わなかった。ただ彼女のために、鼻歌をした。




「ありがとうございました。」


 少女はドレスの裾を持ち上げて、深く深く、頭を下げた。


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