-傾月-〈拾叁〉踊りの後、少女は自分をリードした男に最も真摯な感謝を 2
テーブルに座り、なんの反応もない月璃を見て、夏涼は一杯の水を月璃の前に差し出した。
「大丈夫です。生の月財の在庫量はまだ十分」夏涼はできるだけ平和な声で言った。
月璃は依然として動きがなく、ただ静かに彼に眼差しを送った。その静止した姿に、夏涼はなんとなく自分が隠したい物事を見抜かれた感じがした。
実際に公爵がどんなに教育しても、日琉に生の月財はいらない。
日琉の特殊な体質で、どんなに重傷でも、溯った後、何の傷も残らない。公爵邸に生の月財を集めるのは、誰も日琉に傷跡が残らないことに疑わせないためのごまかしだ。
それらの公爵邸の闇を、月璃は何も知らないはずだ。
しかし月璃が今彼を見つめている瞳......ある一瞬で、夏涼の心の奥底に埋め隠していた秘密を見抜いたようだ。
しばらくして、彼女はやっと目を離して、両手で水のコップを握り膝の上に置き、またその後も動かなかった。
夏涼も口を開かず、月璃の後ろで静止する。
動きがない二人に対して、二人の侍従が素早く食器を片付けている。数十秒後、ロングテーブルに真っ白の新しいテーブルクロスも取り替えられ、もうその上には何もいない。
食堂の扉が閉じた後も、沈黙している二人しか残らない。
月璃は動かないまま、夏涼は彼女の隣に歩み寄って日琉の席に座った。
「月璃、私に何が言いたいことがありますか?」
月璃は頭を上げてぎょっとして、顔に微かの訝りがあった。
「9年前から知り合いです。それくらいわかります」夏涼は微笑んだ。
「そう……ですね、涼君は、わたくしと知り合ってもう9年になります」月璃はまつ毛を伏せて、コップの中の波紋を見つめる。「だけど私と、涼君と知り合った時間は、5年だけ……」
「月璃……」
「涼君、一つの物語を話してもいいですの?」
「物語?何の物語ですか?」
「最近書いている物語のあらすじです。どうしても結末を考えられません」
夏涼は少し訝った。月璃は物語を作る趣味が持っているということを、彼は今まで知らなかった。
彼は頷いて、月璃の言葉を待つ。
月璃は言葉を組み立てるように数秒目を閉じて、ゆっくり話し始める。
「昔々……一匹の驕った小さな黒猫ちゃんがいました。驕り高ぶりすぎるので、彼女はいつも他の猫ちゃんを怒らせていたので他の猫ちゃんはみんな彼女を大嫌いになりました。だけど、猫の群れ以外、ある黄色い犬ちゃんがいつも彼女に優しくしてくれました。彼女も彼に少し好感を持っていましたが、自分が犬ではなく、機会を持っていないことを知っています……」
夏涼は月璃が左手の親指を拳の中に入れることに気づいた。
それは彼らの間で約束したジェスチャーではなく、月璃自身までその動作を意識しなかったのだろう。しかし五年の観察で夏涼はその意味を知らせていた。
過去の月璃と違い、今の月璃は時々話がはっきりしない。月璃の話の中に何を隠した時、いつも無意識的にその動作をする。
今の言葉に、一体何を隠しているのかを夏涼が考えている時、月璃はうっすらと唇を噛んで、緩やかではない深呼吸をして、話を続ける。
「ある日、彼女は偶然に一つの強い力を持つ悪魔と会いました。魂を条件として、彼女は白い犬ちゃんと化して、順調に黄色い犬ちゃんと恋に落ちました」
「そんな幸せな日々は長い長い時間を過ぎて、彼女はようやく気づいた……その全ては、ただ悪魔が彼女に見せる夢だった……」
夏涼は一つのことを思い出した。自分が犬だと勘違いする猫は、以前も一匹いた。
けれど、今の月璃はワンちゃんを覚えてないはずだ。もしかすると、彼女は無意識的にその猫を物語の原型としたのか。それは記憶が回復しようとしている兆しかもしれない。
「涼君、彼女は目覚めるべきですか?」月璃は夏涼を見つめ、まつ毛がかすかに震え、透明まで近い蒼白の頬はまるで初冬に凍ったばかりの湖面の薄氷のようで、触ったら砕ける錯覚を感じさせた。
夏涼はひとしきり考えても、それでも一体月璃が話に何を隠したのかをわからない。だか彼はわかる。どんな自分が、今の月璃に必要な夏涼なのか。
「現実の中に、誰かが彼女を待っているのんですか?」
だから彼は優しい口調で聞き返す。
「現実に……もう一匹、彼女にとってすごくすごく大事な小さな白猫ちゃんがいる。もし帰らなかったら、彼女は永遠にその小さな白猫ちゃんを失うかもしれません」
夏涼は思考をもう一度見直し、頭の中で言葉を整理する。
そしてある彷徨う夜のことが彼の頭に浮かぶ。
「月璃、知っていますか?空に、無尽の月以外の10個の月、実は全て二つひと組にします」
月璃は黙々とうなずいて、なぜ突然こそのことを話すのかをわからないようだ。
「『創世紀』の中、力量の月に財富の月、智慧の月に科技の月、生命の月に怠惰の月、その中、どうして勇気に対するのは権力なのか、知っています?」
月璃は首を横に振った。彼女は宗教分野の本があまり読まない。
夏涼は微笑んだ。それは彼が初めて智慧の月の教会に入った時、司祭が彼に最初に与えた知識だ。
それはとある寒い夜の話だ。彼は、信者としてではなく、乞食として教会に入ったのだった。司祭様は水とパンを餓死寸前の彼に渡しながら、彼にそう言い含めた。……坊やよ、覚えておけ……
「……人間に必要な二つのものは、水とパンではなく、進める『勇気』と、後退する『権利』です」夏涼はおもむろに話した。
その言葉を話した時、ある男の顔を思い浮べる。
彼に何も与えてくれなかったが、ただ一つの帰れる場所を与えてくれた男。
ずっとずっと前に、丸一日仕事をして、へとへとになってあの廃棄屋のような家に足を踏み入れた時、あの男はいつも彼に酒の瓶を気だるげに挙げる。
そう、『おかえり』って、あの男は一度も彼に言ってくれなかった。けれどあの手の動きは……
……まるで彼が成人になる日を待ち、乾杯しようとするかのように。
そのせいでかもしれない。どんなに辛くても、彼はあの酒を飲んだり賭けをしたりしかしなかった男に一度も文句を言ったことがなかった。彼はずっとあのような権利を失いたくなかったからだ、後退の権利を。
「彼女を待つ人がいる以上、まだ後退の権利を失わない以上、やっぱり彼女は戻るべきです」夏涼は月璃を直視し話した。
もし彼は過去に戻れる、あの男の子が初めて父に打たれた雪が降る日に戻れるなら、彼は教会の前に茫然として白い雪を見ながら涙が溢れた男の子に同じ言葉を話す。
あの時の彼は、まだ権力を失わなかった。
「人間に必要な二つのものは、水とパンではなく、進める『勇気』と、後退する『権利』です……」心に刻むように、月璃はその言葉を小さい声で繰り返した。
そう言った後彼女は数秒沈黙して、視線を悲しげに下を向けた。声が震えている。
「だけど彼女は人間ではなく……猫です」
月璃の答えを聞いて、夏涼は呆然とした。彼は俯いて泣き出しそうな月璃を見て、どうするべきかわからない。
「月璃……」
「冗談です。」月璃は頭を上げて、顔に微笑みがある。
夏涼はまたきょとんとして、一緒に笑った。
「ありがとう、涼君」月璃は軽い声で言った。顔つきは依然として憂えているが、墨色の瞳は少し迷いを解いたようだ。
「姫さまは物語を順調に書き進めばいいです」夏涼は揶揄する時しかそのように月璃を呼ばない。
月璃は微笑みを保ち、視線を夏涼の顔から収めて、再び水のコップに戻った。
彼女は静かに水面の自分をしばらく見つめて、コップを捧げてゆっくりと水を飲んだ。一滴残らず。
水を飲んだ後、月璃はカップを置いて、また十数秒沈黙して、2つ目の問題を尋ねた。「ねぇ……涼君、もしわたくしが記憶を失わなかったら、あなたはわたくしがまたあなたを好きになると思いますか?」
夏涼は頭を傾けて月璃を見た。しかし月璃の表情に彼はその問題の意味を探せなかった。
彼は想像してみて、しばらくあの【月からの悪魔ちゃん】を頭の中に勝手気ままに暴れ回らせ、あいつの答えを尋ねて、そして彼は思わず苦笑した。
「答えがわからないけど、一つだけわかります。それは、問題自体に危険性を持つということを」
「きけん、せい?」月璃は困惑した顔で聞き返した。
「うん、もし無理矢理しても記憶を失う前の君にその問題を聞かなければならないなら、せめて私に顔全体の防御措置を準備できる時間を与えてください。飛び蹴りを防ぐためのヘルメットを準備するとか」
「……」
月璃の訝る反応がなかなか面白いと夏涼は思う。今の月璃はしなやかで、慎重で気品があり、価値観も仕草も、過去の月璃と全く違う。だから過去の彼女の輝かしい戦績を教える時、彼女は常に過去の自分に驚かされる。
まあ、強いて言えば、過去の月璃も常に自分に驚かされることがあった。どうして自分がそんなに天才なのか?と、いつも思っているから。
彼はまだ覚えている。ある時期、月璃ちゃんは自分が何でも才能がありすぎて、もしかしたら天が大任を自分に降さんとするようで、大変なプレッシャーを感じていた。
あの頃、月璃ちゃんまた8歳だったが、彼女の顔が紙で、彼女の憂いが文字だとしたら、その紙は散文で書き尽くされていたんだろう。彼女は枝から零れる葉を見ながら、淡々と嘆いて言った。『最近、ストレスが多いな、時々、子供の頃に戻りたくなる』と。
月璃ちゃんの口調はあまりにも悲しく、すごく雰囲気があったので、側にいる夏涼までにそう思わせた。8歳の月璃ちゃんを何の心配もない幼児時期に戻せないなんて、本当に月神は彼女にひどい仕打ちしたものだ。
だけどその後、月璃ちゃんは幼い頃に戻らず、大人になることさえ待ちきれなかった。
「なら、もしわたくしが記憶喪失にならなかったら、涼君は私を好きになれますか?」真面目に、月璃は再び尋ねた。
夏涼は一つの幻想から離れて、次の幻想に入って、想像し始める。もしあの変な女の子が無事に育てられたら、自分が彼女を好きになるのか?彼は想像する。もしあの月璃ちゃんが大きくなり、2倍の驕慢さが増え、3倍のわがままが増え、だけど可愛らしさが10倍増えたら、自分はどうなるか?
夏涼は首を横に振り、想像の続けを拒否した。
『もし』というものは、存在していない。
まして、彼の好みは、過去から今までも同じだ。
「いいえ」彼は月璃に微笑んだ。
「「私は静かな女の子が好きです」」二人は同時にその言葉を話した。
「やっぱり涼君は未だにそう話しますね」月璃は言った。
夏涼はキョトンとした。過去、彼は月璃にそう話したことがあったのか?
月璃は突然に立ち上がって、コップを椅子に置いた。
彼女は片手でスカートの裾を持ち上げ、片手を彼に伸ばして、顔の笑顔が寒霜城の秋の昼のあたたかい風のように、彼を包む。
「涼君、踊りましょうか」