-傾月-〈拾貳〉人生はとめどなく穴を掘ることだ 3
彼は棒を提げ月璃に歩み寄る。
月璃は少々後ずさりして、残った【雪蝶】を身の前に構えて、刃が少し震えている。彼女は…夏涼は過去によく見たが…一度も直接見たこともない目つきで夏涼を見ている。それは……怯えた瞳だ。
夏涼はおもむろに口を開く。「月璃、君は私の出征を望まないのでしょう。しかしこのままなら、私に勝ってないだけではなく、誰も説得できません」
鉄棒をもう一度振り回し、跳ね上げ、斜め切り、薙ぎ払い。【雪蝶】に叩きをかける攻撃が異常に重い。月璃は後ずさりし続けると同時に、夏涼はどんどん迫っていく。
「甘ったれんな!この世界は君が想像するような優しいものじゃない、君が想像するような広いものでもありません」
鉄棒がなめらかに夏涼の両手で舞い、巨大な半径の円と化す。
「すべての人の考えを許すような優しさも、すべての人の意見を受け入れるような広さも、この世界のどこにも存在しません」
月璃は歯を噛み、両手で一本の【雪蝶】を握りしめて左右に連続振り鉄棒を払い、指から押し寄せてくる痛みが彼女の指の関節を震えさせ、横顔が冷や汗が流れる。
「例え君が天才だとしても、こんな半端な気持ちでこの世界と向き合うは無理です」
鉄棒は連続して垂直回転し、二つの端が交互に振り下ろされ、鉄鋼の衝突音で火花を散らし続ける。
「他の人に対しても、公爵に対しても、私に対しても、私の出征を望まないのであれば、今の一切を守りたいのであれば、この世に君の意図を主張したいのなら、全力を尽くすしかありません」
砕け散った雪が地面から風圧に巻き上げられて、夏涼の周りで翔け巡る。
「余すことなく……全力を尽くします!」
鉄棒はまっすぐ伸ばしまま、靜止した。
月璃は【雪蝶】で胸元の前でその一撃を受け止めた。公爵の前でオオカミと試合する時のように、彼女は再び数メートルに後ずさりした。
だが、今回は違う。
両腕がしばらく震えた後、少女の浅く速い呼吸と一緒に緩まった。
焦りが引き潮のようにその美しい瞳から去って、彼女はゆっくりと目を閉じた。
夏涼はすぐには攻撃を続けず、月璃が息を吸って吐き、体勢を調整することを待つ。
目を開けた後、瑠璃紺の前髪が覆われている黒い瞳の奥に、夏涼は今までと違う光を見た。それは弱いけれど、確実に存在している勝ちたいという意志だ。
夏涼は微笑んだ。これが彼が見たかった目つきだ。
何かを望むならば、努力してそれを勝ち取っていい。立ち塞がる者あれば、恐れずにその者を押退けばいい。もし誰かが君から何かを奪おうとするなら、慎重に武器を持ち上げろ。
実は彼も知っている。月璃はなぜそんなに怖がっていたかを。
誰でも未知なものが怖い。普通の人が向くのは、『現在』という、刹那にすぎない未知だけだ。
過去は過ぎ去り、未来はまだ来ない。人が向き合うのは、いつも現在の一瞬だけだ。
しかし月璃は違う。彼女が今から直面しなければならないのは、その刹那に何億、いや何千億倍をもかけた未知だ。
それらの未知は自分が数年かけて築いた王国で、コントロールできない大火を放置し暴れさせるように、どんなに不本意でも、自分が築き上げたものを、自分自身を、自分が懐で強く抱きしめている最も大事な物事を焼き尽くすかもしれない。
夏涼はずっと月璃のそばにいる。だから知っている。
ここ数年、月璃は本当に努力してしまった。
今の全ては、彼女が自分の手でコツコツ努力し、重ねたものだ。それらのもの、それらの関係を守りたい気持ちが、当たり前なものではないか?
しかしそれでも、夏涼は依然望んでいる。月璃が自分で一切を失う恐怖を克服して、自分の記憶を取り戻すことを。
舞踏会の時、夏涼はあの女の子たちから彼女を守れていた。
氷湖の上に、夏涼は彼女と肩を並べて親衛隊たちに立ち向かった。
しかし今回、夏涼はもう守ることも共に戦うこともできない。彼が月璃の思考に入ることはできないからだ。だから、この先、彼女自身が一人で過去の記憶と向き合わなければならない。
目の前で、月璃の目つきがだんだん鋭くなり、長い白い息を吐き出し、五指がかすかに開いた左手が素手で前に置き、左手で【雪蝶】を握りながら腰のクラッカー筒の位置に収め、重心を低くした。
踏み切り、月璃は迅速に彼に突っ走り、瑠璃紺の長い髪を降る雪でなびかせる。
夏涼はかがんで、鉄棒を左の脇に挟み、同時に右手でクラッカー筒の引き縄を掴む。
ドーン!
二人は同時に最後の一発の火薬を消耗し、強い反発力によって、お互いに高速で突進し、【雪蝶】と鉄棒が舞い落ちる雪片を貫き、同じの点に突き出す。
カン!
夏涼の愕然の視線で、【雪蝶】は抵抗なく月璃の手から離れて、彼女の毛先を通り抜けて、真っ直ぐに後ろに弾き出す。
全力の一撃どころか、その一撃に月璃は全く力を入れなかった。
水平に【雪蝶】を押し飛ばした鉄棒は前に突き出されて、武器が離れて空いた月璃の両手の中の【雪蝶】があった場所を突き抜ける。
夏涼はすぐ武器に込めた力を抑えたいが、すでに間に合わない。
夏涼の力に乗って、月璃は両手で鉄棒を掴んで後ろに引き、右足を夏涼が前に踏んだ左足に引っ掛けて、全身を捻り同じ6分の1の体重しか残らない夏涼を背負い投げる。
ドスッ!
夏涼は180度視線を反転させた。
首に寒さを感じる。鉄棒が彼を苦しませない力で喉に当たる。
月璃は彼の上に乗り、お互いの息を感じられている距離で、垂れた青い髪が、彼の頬をくすぐった。
大雪が降りしきり、星辰が二人の上にきらめく。
初めて月璃が勝った。
「夏涼、わたくし……」声が震え、言葉にならない。
「月璃……」夏涼は手を伸ばして、月璃の垂れた髪を軽く梳る。「……君は消えません」
「過去と比べても、君は遜色がない。だから記憶を取り戻しても、君はあの女の子に負けません」
話したいことがたくさんあるが、まとめて言えば、彼はそれが伝えたいだけだ。
『ほら、もっと自信を持って!君はそんなに悪くない』と叫んで伝えたい。しかし単純に話したり叫んだりしたら、真に月璃の心に伝えられないことを彼は知っている。
「君は、もう……私に頼らなくてもいい」夏涼は軽い声で言った。その言葉を話した時、彼は突然に自分の声が自分自身にどんどん遠くなるかのような気がした。
月璃は唇をつぼめ、桜色の唇が軽く震える。
「もしまた女の子たちが酒を持って君にぶっかけるなら、グラスを持ち上げてぶっかけ返しなさい」
「もし親衛隊たちがまた刀を持ち君に向かったら、武器を握りしめて反撃しなさい」
「それらの勇気は……もともと君が持っていたものです」
「だから、取り戻しましょう」夏涼は彼女をまっすぐ見ながら、右手で彼女の頬を触り、黒い瞳は彼の翡翠色の瞳をありありと映り、夏涼は優しく言葉を続ける。「君は負けません、たとえ……私がそばにいなくても」
彼は一字一句に次の言葉を話す。「武器を持ち上げる方法を、私はすでに君に教えたではありませんか?」
月璃は彼を見つめ、まつ毛の先が震える。
十数秒後、彼女は立ち上がった。
「わたくしは……帰ります」
2本の【雪蝶】を拾って、彼女は振り返らなかった。
夏涼は依然としてそこに仰向けでいる。
大雪が降り続け、雪が積もった地がとても寒い。もし長い時間立ち上がらないと、彼は護衛からしばらく雪だるまへ転職する。もしもっと長い時間立ち上がらないと、彼は護衛から永遠に雪だるまへ転職する。
しかし彼は依然としてそこに静かに横たわり、真っ黒な夜の無尽の月と星を見て、自分の体温がだんだんと雪に奪われていることを感じる。
彼は月璃に嘘をついた。
今頃、月璃は怒っているかもしれない。彼女は賢い。夏涼がさっきそう言った、裏の意味は、どうしても出征しようとすることを彼女は知っている。
夏涼は軽くため息をつく。表向きにもし彼に勝ったら彼が出征を取り消すと月璃に言ったが、実際にちょうど逆だった。あの頃、もし月璃が【雪蝶】を持ち上げることを拒絶したら、彼は逆に公爵に懇願し今回の出征を取り消そうとして、月璃のそばを離れようとしなかっただろう。そして同時に、彼は二度と月璃に無理に記憶を取り戻させることもしない。
正直、難しいことだ。不可能に近い、と言った方が正確かもしれない。これまで、公爵が一度言った言葉を取り消すことはなかった。夏涼を軍の副官に抜擢することが決まった以上、たとえ夏涼が出征の前に手足が折れても、全身骨折しても、ハンモックとともに戦場へ引きずり指揮をさせる。
これこそ公爵である。
しかし、どんなに高い代価を払っても、どんなに大勢の他人の命を犠牲にしても、たとえ、その中に……日琉を含めていても、彼は公爵に懇願してみる。
……もし月璃にとって、本当に彼がそばにいなければならないなら。
そうならば、彼は徹底的に受け入れるようとする。あの変な女の子はすでに消えた事実を。
彼は二度と月璃の前で彼女のことを触れない。
それらの過去を『昔々』という名前の記憶の箱に収納して、徹底的に封じさせようとする。吟遊詩人が唄う『昔々』と同じ古い古い、ほこりだらけの昔話のように。
だから最後の未練を断ち切るために、彼は賭けをした。
この試合は賭けだ。彼は知りたかった。一体、月璃は一人で前に進んで記憶を取り戻す勇気があるか?
もし彼がずっと月璃のそばにいたら、月璃の記憶は永遠に回復しないだろうと夏涼は予感した。
彼が月璃のそばにいる限り、月璃はずっと足踏みするだろう。
月璃の居場所になりたい、夏涼はいつもそう思っている。しかし幸せな居場所と重い負担は実際には表裏一体のものだ。このままにしたら、彼はただ月璃の足を引っ張る枷になるかもしれない。
だから出征に参加することは必用だ。彼ははっきり感じた。自分はしばらく月璃のそばを離れなければならない。
夏涼は夜空を眺め、桃色の情愛の月は左からゆっくりと無尽の月を通って、空を飛ぶ。
夏涼は手を上げて、指の関節で自分の冷めたい額に当てる。もしかすると、月璃が記憶を取り戻した後、彼に最初に話す言葉は『勘違いするな!ここ数年の全ては、あなたが勝手にお節介を焼いただけだ』
ばかばかしいな……彼は急にあの穴を掘り続けていた男を思い出した。
人生はとめどなく穴を掘ることだ。彼はだんだんわかった。
あの男が理解した意味と少し違うかもしれないけど、遺伝とも言えるだろう。
夏涼はそっと笑った。今、彼も自分で自分を埋める穴を掘っている人だ。
自分は本当にばかばかしい。彼はつくづくそう思う。もし月璃が記憶を回復しても、今よりいい生活になれないなら、彼がしたことは、ただ単に自分の価値観を月璃に押し付ける行為でしかなかった。
夏涼は軽く目を閉じた。
彼は確かに月璃にもっといい生活をさせたいが、しかし一体何がいい生活、いい人生なのか、彼はいつも自分の価値基準で定義する。過去もそう、今もそうだ。
そう思って、彼は再びあの男を思い出した。過去、彼はそう考えていた。もしかして、あの男は実際にわかっていたのではないか?あの一切の欺きは、あの男がわざとはめられたことだったのではないか?
あの男もそうかもしれない、自分の息子を自分が望んだ道で歩かせたかったので、お節介を焼き、わざと騙されて息子を貴族の家に養子にして、最後、自分の命まで投げ出してしまうことになった。
しかし、あくまで彼の妄想だ。妄想に過ぎない。
ありえない妄想。
「愚かな……もし君が今の私を見たら、何と言いますか?」
目を開けた後、無尽の月は依然として宙に浮いたまま、銀青色の月光で雪原を照らしていた。おかげで雪の中の夏涼はそんなに寒い思いをしなくて済んだ。
夏涼は無尽の月に右手を伸ばした。手のひらで少女の髪と同じの色の流光を掴むように。
「なぁ、月からの悪魔ちゃんよ?」
右手をがっちりと握りしめて、左の胸に軽く当てた。
今のは懐かしみなのか?想いなのか?彼は、もう、わからなくなった。