-傾月-〈拾壹〉氷湖に踊る二人舞 4
…………
上陸した後、夏涼はびしょ濡れの上着を脱いで、絞る。
親衛隊たちもすぐ同じ動作をした。こんな天気で体温を一定に保たないと、冗談にならない。
「燃油がまだありますか?」夏涼は訊ねた。
オオカミは依然として険しい表情をしているが、沈黙しながらポケットから小さな袋を取り出して夏涼に投げた。
夏涼は頷いて、お礼をしない。何しろ、氷湖が炸裂したその後、湖に溺れていた3人を救えたのは、一度上陸した後、再び湖に戻った夏涼だった。
この大陸の異名は『千湖大陸』だ。すなわち湖が多い。海から離れた内陸で、水泳に長けている人は少なくない。あいにくこの3人の親衛隊はそういう人ではない。
燃油を使った後、夏涼は顔を横に振り向けて月璃の状況を確認する。月璃は湖に落ちてなかった。今、彼女は顔が真っ赤になり、自分が絶対に盗み見っていないことを強調したいように【雪蝶】の刃で目を遮っている。
夏涼はやや苦笑し、心で突っ込む。まずその薄い刃で視線を遮られるのかとうかってことを脇に置き、もし本当に見たくないなら、直接に横を振り向けばいいじゃない?
しかし、この反応は昔と比べると確かにもっと適当な反応と言えなくもない。夏涼はまだ覚えている。以前、一人の男性の使用人も同じ過去の月璃ちゃんの前で服を脱いだことがあった。そして月璃ちゃんも今と同じ顔が真っ赤になった。違う部分は、彼女は照れていたのと同時に激怒していた。いや、むしろ激怒していると同時に照れていたと言うべきか?彼女は手を腰に当てて使用人に指をさし、『そんなに私に見せたいならもじもじするな、早く脱げ!』と怒鳴った。
幸い、夏涼は直ぐに事故現場に駆けつけて、月璃ちゃんの命令ー『全裸でストッキングを穿け』を止めた。しかしあの時、本当に夏涼は冷や汗をかいた。もう少しのところで、月璃ちゃんがその場にいたメイドたちに癒やしがたい精神汚染をさせるところだった。
月璃ちゃん本人も精神汚染されることになったのかについては、夏涼は逆にあんまり心配しなかった。
それを思いつつ、夏涼は燃油と残りの体重で使った五色で蒸して干した服を着て、3人の親衛隊と月璃と一緒に公爵に歩み寄っていく。
公爵は月璃を手伝うことを禁止すると明言しなかったが、さっきの行為が公爵の意図に反する疑いがあることに考えついて、夏涼は心を曇らせた。
湖岸、公爵はそのまま平然としてテーブルに座っていて、顔には怒りの色がちっともない。
彼はにっこり笑顔で茶碗を挙げ、穏やかな目つきで5人を見て、迎えるようだった。
突然、刀の刃は夏涼の首元に当った
それは極めて長い刀だ。漆黒な刀身は全く反射せず、まるで周りの全ての光線を飲み込むようだ。
過程がない。
公爵は一体いつから茶碗を下ろして、いつから立ち上がて、いつから配刀を抜いて、いつから刀を夏涼の首元に当ていたのか?3名の親衛隊、夏涼、月璃、誰も意識の中でその動きを捉えなかった。
夏涼は沈黙した。公爵に命乞いが意味がないことを知っている。
「お父さま!」月璃は思わず声を出した。
「月璃、わかるか?君の問題点を」公爵は頭をひねて、整った顔立ちが依然として微笑みを保つ。
「わ……わたし……」
「例えば、10秒後、私が夏涼の首を斬るなら」公爵は片眉を上げて、月璃を観察する。「そんな時、君はどうするべきか?」
冗談のように聞こえるが、公爵なら躊躇なしで本当にそうすることを、誰でも知っている。夏涼は目を閉じて、覚悟をした。自分が目を開け瞑目できない様子を月璃に見せたくない。
月璃は目を見張り、唇を震え、【雪蝶】を握りしめている両手を揺らぎ続けるが、依然として動きがない。
娘の様子を見た公爵は溜息をついて、刀を下ろした。
「それでも殺意がないか?」公爵は残念そうに首を横に振った。「やっぱりまだだ。ただ形があるだけだ」
彼は再び誰も信じられない動作をした。彼は素手で月璃の下ろした腕を掴んで、【雪蝶】の鋭い刃を自分の首に当てさせた。
「では方法が変えろ......想像してみよう、もし目の前にいるのは君の『敵』、そして君はやっと彼を殺す機会を得たと、君はどうする?」
「……」月璃は唇を噛んだ。
公爵は微笑んだ。
「試さないか?いくら私でも、もし首を徹底的に切られたら死ぬかもしれない」
「……」【雪蝶】がかすかに揺れ、月璃はまぶたが下がる。「お父さまは娘の敵ではありません」
動きがない月璃を見て、公爵は月璃の腕を放して、指先で娘の少し乱れた髪を優しく梳いてやる。
「傾月」と呼ばれた絶世の顔を整えた後、娘の怯えている目つきに気に入らないように、彼は再び残念そうに溜息をついた。
「月璃、知っているか?太古の時代、名剣を作った鋳剣師は剣を完成した瞬間に、剣を使って切腹して、剣と一緒に炉火に飛び込んだことを」
月璃は首を横に振る。
公爵は黒刀を挙げて月璃に示し、人差し指と中指を揃えておもむろに刃文をなぞる。
「武器には魂がある。あの鋳剣師たちはそう思った。鋳剣の最後、『剣の形』の部分はすでに完了したが、『剣の魂』の部分はまだだ。『剣の形』の鋭いは烈火と鋼で作られることができるが、『剣の魂』はできない」
公爵は黒刀を指で弾いて、震えさせ、オンオンと音を立つ。
「『剣の魂』を鋭くさせたいなら、殺意を持たせなければならない。そして殺意は、血だけで育てられるものだ。だからそれらの鋳剣師たちは絶世の名剣を完成するために、自らが炉火に飛び込むことを選んだ。自分を作った、自分の一番親しい人を斬った剣には、世間の中で斬れないものはいない」
「……」月璃は俯いた。
「今君はすでに鋭い『剣の形』を持っていたが、鋭い『剣の魂』を持っていない」公爵は首を横に振る。
「わたくし……わたくしは剣ではありません……」月璃は小さい声でいった。腹の底から絞り出すように。
公爵はふいに指で月璃の顎を持ち上げて、黒く深い霧を見透かすように黄金瞳で月璃の漆黒の瞳を見つめ、その底を観察する。
「月璃、君の記憶に、回復の兆しが見えるのか?」
ややあって、月璃は小さな力で首を横に振った。
「では……君が完成する日を期待する」納刀して、公爵は身をひるがえして去っていく。
親衛隊たちを連れて離れようとする前、彼は夏涼の肩を叩いた。
「結果から見れば、私が用意した保護的措置は、かなり優秀らしい」公爵は淡々と一言を残した。
夏涼はきょとんとして、突然公爵の最初に言った言葉を思い出した。
『私はすでにとある優秀の保護的措置を用意した。月璃が危機に陥る時、自動的に発効する』
夏涼は公爵の後ろ姿を見つつ、ゆっくりと安堵の一息をついた。
なるほど、
罰を与えられなかったのは、彼自身が……その自動的に発効する保護的措置だ。