-傾月-〈拾〉アイビス日記 2
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はっきりと見えないが、月璃は午前中ずっとそわそわしていた。本を読んでいた時、彼女は時々頭を支えてぼっとして、数分間に1ページもめくらなかった。それは月璃にとって明らかに異常だった。正常な状況になれば、月璃の読書速度は普通人の数倍だ。知らない人から見ると、月璃は読むのではなく、ただおもむろにページをめくるだけなのではないかと誤解することになる。
夏涼は何も話さなかった。月璃はぼんやり顔をする時、彼も彼女と一緒にぼんやりする。その状態がひとしきり続いた後、いつもお互いに見つめ合いになって、月璃は頬を素早く赤らめて、視線を逸らすことになった。
八弦球を練習する時、彼女のミスの頻度はいつもより多くなった。しかし同時に、その音色もいつもより優しくて、これまでと違ったものが中にある。この曲を聴き、夏涼は柔らかなひざまく……羊毛の毛布で寝るように暖かくなった。
数曲弾いた後、月璃は止めて、首を傾げて、おずおずとどうですのと尋ねた。
「音色は悪くないが、拍子と音量の安定性が足りないです。ミスの頻度が多すぎます。伝いたい感情があるのはとてもいいことですが、力が入りすぎているようです」夏涼は優しい口調でいった。
これはいい機会だと彼は思った。月璃の音楽の質に変化があり、もしこのチャンスを掴み、正しい方向で猛練習をしたら、月璃の楽器の造詣を一段階引き上げることができる。
しかし彼の分析を聞いた後、月璃はミスの頻度を下げられなかった。彼女は唇をすぼめ、沈黙して八弦球を回り、何も話さなかった。
午後、月璃は彼女の日常の宿題、月語の翻訳を始めた。同時に彼女は徐々に落ち着いた。うわの空の状態から正気に戻った。
しかし、翻訳が隘路となったらしい。彼女は空白紙で日記の月語を写さなかった。彼女は午後中ずっと文机に端座し、繰り返しめくる。
「おかしいね……」月璃は筆の後ろを軽く噛みながら『アイビス日記』に目を凝らして見た。
「何か問題がありますか?」夏涼は訊ねた。
「時間がおかしいです……」
「時間?」
「今まで翻訳した資料によると、この古い日記の中のアイビスさんは【陽の女王】と同名ではなく、過去の【陽の女王】ーアイビスの本人らしいです」
もし月璃が言ったのが事実なら、このボロボロの日記は値踏みできないものになる。公開すれば、王国内の無数な歴史学者にとっては、彼らの命すら捧げてもいいくらい手に入れたい宝だ。
しかし、夏涼の反応はただかすかに眉を上げただけだ。なぜかは分からないが、公爵は【陽の女王】の異常な狂信者だ。そのためにこの数年夏涼は『もう一つの身分』を作って、公爵の命令に従って【陽の女王】の関連物を収集した。この日記はアイスジョーカーが奪ったものの一つではないが、公爵の収集癖を考えるなら、邸で【陽の女王】の極めて貴重な遺物が現れることは、特別なことではない。
「涼君は驚かないんですか?」月璃は頭をひねった。
あぁ、まずい……夏涼は心の中で少し警戒したが、それを表に出さないようにする。
「まあ、この日記はその石版と関係があるではありませんか?だから私は以前に考えていました。この日記はもしかしたら【陽の女王】の遺物かもしれません。」夏涼は肩をすくめた。
「石版ですか?」月璃はテーブルの隅に置かれた黒い石版を見た。「あぁ、確かに……このどうやってできたのかわからない石版は、数年前に見つかったばかりの技の月財を除いたら、歴史において【陽の女王】だけがこのような技術を持ちます」
「そうです、今、君を困惑させたのは?」
「うん……あんまり当たり前すぎで、わたくしは今まで気づかなかった。【陽の女王】ーアイビスは……二百年前の人のはずだ。けれど二百年前の人は……」月璃は日記を軽く繰り返しめくり、自分を説得できる答えを探さなかったので少しイライラするらしい。「……どうして月語を使えますの?」
「どうして月語を使えますのか……あぁ」
夏涼は問題を繰り返すと、ふと月璃が指した問題が分かった。
月語は智の月財に記録された言語だ。三十数年前に智慧の月が落ちた後、この千湖大陸全体に知られた言語だ。
しかし【陽の女王】はおよそ200年前の人だ。世界中の人はまだ月語を知らない頃、どうして【陽の女王】は月語で日記を書いた?
「それ以外、さっき涼君が言ったこの石版もおかしいです。日記によれば、この石版と黒水晶の両方は【陽の女王】がある願望のために作ったものだが……」
月璃は隣の黒い石版を持ち上げて、滑らかな石版に指でタッチした。
ビー、ひとむらの紫色の光を放って、文字が空中に現れた。
未知の文字は月璃の操作によって、刻々と変化した。
一週間前に、彼はこの奇妙な光景を見たばかりだったから、訝ることはないはずだが、彼はぎょっと驚いた。
この光景……何だか瑞雪子爵が使った時と少し違う?
「うん?どうしましたの?」夏涼の困惑したような顔に気づいて、月璃は尋ねた。
「……」ちょっと沈黙した後、夏涼は首を振って、話題を変える。「いいえ、この石版に何か特別なところがありますか?」
月璃は頷いて、指で石版の上に滑り、文字で構成られた立方体を一瞬で拡大した。「もっとおかしいのは、日記は月語で書かれていましたが、石版には二つの言語があり、一つは月語、もう一つはこれです……」
「これは……」夏涼は目を凝らしてよく見る。この知らない記号、空白と数字で組み合わせた文字の塊は、大陸で主流に使われた二つの言語のどちらとも違う。「縦書きの洛象語ではなく……横書きのカサスーコ語でもなく……不思議な、この文字は一体縦書きですか、それとも横書きですか?」
「どっちも違います」月璃は首を横に振る。「縦書きではなく横書きでもないです」
「どういうことですか?」夏涼は理解できない。縦書きではなく横書きでもない、まさかまた第3種があるのか?
「この文字は線状に配列したものではありません」月璃は指を挙げて、空中で垂直と横の線を描いた。「これは立体状に配列した文字です。平面に書くために作られた言語ではなく、空間で書くために作られた言語です」
夏涼はかすかに驚いた。彼はこのように奇妙な言語を聞いたことがある。
あれは……遺跡古文だ。
数千年前、第1世代の文明は紅雪種に滅ぼされた後、数少ない『遺跡』を残した。そして遺跡古文は、あれらの遺跡で無数の透明な立方体で記録された文字だ。
月語と違って、遺跡古文はこのように特殊な配列方式で、数千年間、多くの言語学者が努力してそれを翻訳したかったが、誰も成功せず、片言さえ成功的に翻訳できなかった。
「これらの文字はあの遺跡古文ですか?」
「うん。」月璃はうなずいた。「本物を見たことがありませんが、これは遺跡古文とわたくしは思っています」
夏涼は静かに考えてみた。
書き方の難しさは一応置いておき、このような言語はもっと致命的な欠陥があるはずだ。
「質問があります。これらの遺跡古文は線状に配列したのではなかったら、どうやって話せますか?」
今の言葉が話せるのは、線形の特性を持ってから、一字一句で順番に読み上げることができる。もし遺跡古文は単純な線形の特性を持たず、同時に横、水平、垂直に至る配列があるなら、どうやって一字一句話せるのか?
「話せます……しかし話せなくてもいいです」月璃は首を横に振る。
夏涼は当惑して彼女を見る。月璃の思考は時々飛躍し、まるで飛んだり跳ねたりしている小さい白兎のようだこのことを彼は知っている。
しかし今のように、飛躍すぎで夏涼まで分からなくなる状況は珍しい。
「これはわたしくの推測です……第一世代の人は、多分ある方法や器具で、自由に自分が話す時の音色、頻度と強度を変えさせます」
「……」
よく月璃の言葉を考えてみたが、彼は未だに分からない。
もし幼い頃の月璃なら、こんな時に絶対に良機を掴んで、わざと満面に軽蔑を湛える。しかし今の月璃はただ夏涼を見ながら微笑んで、毛先を耳の後ろに集めて、空中で指を描くように動かす。
「例えば、頻度を平面の横軸として、音色を平面の縦軸として、そして強度を空間の垂直軸として、そうしますと、空間言語の話し方を形成することができます」
夏涼ははっときづいた。しかし彼はすぐに再び眉を軽くひそめた。
「ではさっき君が話した、話せなくてもいいって、なぜですか?」
「話せなくてもいいのは、それらの言語は主に人に聞かせるために作られたものではありません。それはある特殊な『命令』です」
「人への命令ではなく、すなわち動物や家畜への命令ですか?」
「この部分……わたくしもわかりません」月璃は眉を曇らした。完全に夏涼の問題を解くことができないので、彼女に少し後ろめたさを感じさせたらしい。「……わたくしが翻訳した結果、『命令された対象』は『この石版』です。だけど、どうして一枚の石版に命令しますの?多分わたくしの翻訳はどこが間違います」
「うん……」
夏涼は小さく頷いた。少し考え見れば、確かにおかしい。【陽の女王】は二百年前の人間のはずなのに、どうしてこんな異常な技術を使えたのか?二百年後に現れた月語は言うまでもなく、数千年前から今まで誰も解析できない遺跡古文さえ使える。あの女王は一体……
歴史に、この疑問を持った人は当然、彼だけではない。しかしどうやって古本で調べても、見える確率が一番高い答えは常に一言だけだ。
……人間は太陽を理解することができないのでしょう。
それを考えて、夏涼は急に眉を顰めた。
月璃はさっき、何を話した?
「ちょっとまってください……君が翻訳した結果で?」
「ん?どうしましたのか?」
「月語だけでもなく、君は……遺跡古文も翻訳しました?」
「うん、けど半分ぐらいしか理解できず、精度はまだ十分ではありません」月璃は小さい声で言って、申し訳ない顔をする。「どうしてか分からないけど、この言語は五色の黒色の概念とよく似ています。【溯る】、【宣言】、【呼び出し】、【条件式】、【繰り返し】などの言葉ばかり……」
今回、夏涼は本当にぽかんとした。もし邸の他人が彼今の表情を見るなら、彼に関する『余裕がある』の評価は自然に地に落ちるだろう。
しかし彼は驚きを隠せない。数千年間、無数の言語学者が脳を使い果たしても、片言さえ成功に翻訳できなかった言語を、目の前の二十歳未満の少女が半分理解した。それは『精度がまだ足りないです』って?
夏涼は何を言うべきかわからない。数千年の間に誰も成功することができなかったことをしたのに、なぜ今この少女は整った眉毛を曲げて、柔らかい唇を尖らせて、顔には『ごめんなさいわたくしはよくできないです』という疚しい表情があるのか?
記憶中のあの女の子は何もかも足りなかったが、自信だけは欠けていなかった。いつも誇らしげで限界もなく好き勝手に振る舞い。自信過剰すぎて、寒霜城の全ての人に分けてあげても余り有るくらいだと夏涼は思っていた。
今の月璃はその逆で、何も不足しおらず、ないのは自信だけだ。
夏涼は心の中で溜息をついた。できるなら、彼は簡単な台形公式でその問題を解決したい。二人の自信を足して2で割りたい。
「月璃、なぜこの日記にこんなに執着するのですか?」思考から抜け出した後、夏涼は尋ねた。
もともと研究していた月語はともかく、この日記を理解するために、彼女は遺跡古文さえ翻訳した。これは実際に月璃らしくないことだ。天才としての副作用かもしれないが、記憶喪失の前、それとも後、月璃が単一の物事にそんなに熱中することを夏涼は見たことがなかった。
月璃はすぐに答えず、彼女は石版に何回かタッチして、空中の文字を消した。そして指で石版の滑らかで涼やかな表面を撫でる。
「わたくしたちの思考の流れは似ているせいでしょうか?なんとなく、この人が書いた文字に、ある既知感を感じました。まるで……自分と対話するようです」彼女はつぶやき声で言った。「まして……少なくとも今のわたくしは、あなたが間もなく出征しようとすることを考えたら、彼女の願いを少し理解できてきました」
出征のこと?夏涼は理解不能だ。なぜ【陽の女王】の願いは彼の出征と関係があるのか?彼は俯いて、首にかけている黒水晶のネックレスを握り、手のひらでその冷たさを感じる。
黒水晶と石版は【陽の女王】のある願望のために作られたものだということを月璃が言ったことがある。そして今、月璃の言葉の意味は、彼女はすでに石版と黒水晶の作られた目的を成功的に翻訳した。機能さえも翻訳したかもしれない。
「では【陽の女王】の願望は?」
「言いません」月璃ははにかむように微笑んだ。「これは、少女たちの秘密です」
月璃の表情を見て、夏涼も少し口角を上げた。若い少女たちはいつも秘密をでっちあげることを、彼が知っている。それらの秘密は本当に言えない秘密より、むしろ感情の繋がりのために作られた『機能性秘密』と言うべきだ。しかし彼も考えたことがなかった。二百年の時間を乗り越えて、この少女たちは秘密を共有することができる。
月璃は石版を抱いて、夏涼を見上げる。
「ねぇ……涼君」感情の波は少女の瞳に揺れている。「………出征しないでくれませんか?」
月璃は石版を懐にぎゅっと抱きしめている。この動作自体は意味がないが、しかし人が不安を感じる時、いつも何かを抱きしめたいことは夏涼が知っている。
記憶中のあの女の子のように、どんなに強がってもどんなに跋扈しても、漆黒の長い夜は、ぬいぐるみを掴んでいないといつも眠れなかった。
少女の突然の要求に対して、夏涼は少し動じて、返事をしなかった。確かに彼はもともと戦争で手柄を立てたいという欲を持たない。
できれば、ただただずっと、今のように、うっかりすると彼女の優しさで自分を見失ってしまいそうな、この柔らかな空間に居続けたい。
しかし過去彼と公爵の契約は、月璃以外の『絶対服従』だ。
ノック、ノック、ノック、突然に誰がドアをノックした。
月璃は石版を下ろして、身だしなみを整えて、夏涼と視線を交換した。
「どうぞ」月璃は優しい口調で言った。
ドアを開けなかった。
「月璃殿下、馬車を用意しました。【雪蝶】を持ち、城外の『ベネイ湖』にお越し下さい。公爵さまはそこで待っています」
ドアを隔て、訪ねてくる人は簡単の言葉を伝えた後すぐ去った。邸の人は通常はこの簡潔な言い方を使わない。夏涼を除いて、邸の管理職は階層が高ければ高いほど、言い方がくどくなる傾向があると言ってもいい。例えば、料理長とかメイド長。
もちろん実は彼らの問題ではなく、むしろ夏涼のような例外を除いて、世界の大多数の人は他人に自分の無駄話をできるだけ聞かせたいという傾向がある。ただもっと高い階層の人は、この機会が多いだけだ。夏涼が見た中で最もこの法則が顕著だった例は、五年前に刺客の件の責任をとって故郷へ帰った高齢の執事長だ。
話を戻すと、この簡潔で、目標指向な話し方は、邸で一種の人たちだけに使われる。
訪ねてきた人は公爵の直属の親衛隊だ。
親衛隊が離れた後、月璃は文机にいる文房具を片付けて、夏涼は月璃が使った参考とした本を一つ一つ本棚へ迅速に戻す。
数秒で沈黙して、月璃は立ち上がった。
「わたくしは一旦寝室に戻ります」
「うん、湖畔で会いましょう」