-傾月-〈捌〉公爵邸の朝 3
そう言いながら、いつも自分の思うままに振る舞う少女は彼の頭の中でだんだん立体的になった。少女は雪の上に裸足で踊って、スカートの裾を持ち上げて身を回して彼を蹴る。
「ううぅ、わがままな女の子ですね」
「うん、自分の作った笑顔を握り潰して、彼女をひどく殴りたいほどなわがままです」夏涼は直言した。「でも、それこそが彼女の思い通りになったかもしれません。」
「涼君は、そのわがままな女の子が嫌いですか?」月璃は夏涼の顔を眺め、慎重に訊ねた。
夏涼は微笑んで、首を振った。
「いいえ、わがままですが、彼女は実際に誰よりも優しいことを、私は知っていますから」
月璃は彼の翡翠色の瞳に目を凝らして見る。
夏涼は微笑みを保ち、穏やかな口調で語り始める。
「邸に入ったばかりの時、ある時期、私は幾人かの女の子からの告白を連続して断りました。その件以来、邸で私の性的指向についての噂が流れ始めました」
「ちょうど壮年期なのに、沢山の美しい女性を断りました。しかも見た目はあんなにめめしい、さぞ男が好きなのでしょう。と、邸のみんなにそう言われました」
夏涼はあの日々を思い出した。彼は色々な女性に告白されたが、それらの女性の瞳に映った自分の輪郭は、いつもぼやけていた。
「しかしある日、あの少女は突然に邸の全ての使用人を呼んで、テーブルに山積みの松ぼっくりを置き、氷のような冷たい目で全ての人をさっと見渡してそう言った。『今から、もし誰かがまた私の護衛に陰口を言ったら、私が松ぼっくりをその人の口に突っ込んで、二度と言葉を話させないにする』」
「横暴の女の子ですね」月璃は笑って言った。
「横暴の極みです」夏涼も笑っていった。
実は彼は月璃に本当の事実を話すべきかどうかを考えている。彼女の精神衛生のために、彼はすでにそのことを少し修正した。
本当の話は、あの時、小さい月璃は山積みの松ぼっくりの上にあぐらをかき、お山の大将のように肘で頬を支えながら凶悪な口調で言った。「今から、もし誰かがまた私の護衛に陰口を言ったら、私がこの松ぼっくり全てをその人の口とアナルに詰め込んで、屁を放つことができる場所を徹底して塞いでいく」
その件があってから、彼は月璃とだんだん慣れてきた。彼はまだ覚えている。その件があった後、部屋で唯一人残された彼を睨みつけて月璃はそう言った。『何を笑う?私は今あなたに恩を売った。私に恩を返す方法は一つだけ、それはこのテーブルに置いてある全ての松ぼっくりを食べること』
その要求があまりにも難しかったから、だから彼は今もまだ恩を返さなかった。
時間は今に戻り、月璃は夏涼の顔を見つめている。夏涼が長い時間話さずにいると、月璃は軽い声で言った。「涼君は……彼女のことを懐かしんでいますね」
夏涼は少々呆れて、笑顔は突然強張った。
彼は過去の月璃を想っている?そうなのか?
どんな言葉を使ったらいいかと月璃はややためらって、窓の外に視線を移した。彼女は少し寂しい表情で呟いた。「時々わたくしは自分に尋ねます。今のわたくしは、本当に夏涼の大事なあの女の子ですか?」
夏涼は沈黙した。成人式以来、ここ数日、彼は頻繁に些細なことで幼い頃の月璃を思い出した。それは月璃が成人になったことへの感傷だと彼は思ったが、実際に、彼はただ……過去の月璃を懐かしんている?
しかし彼はどうやって月璃を想うの?月璃は今彼の前に座っている。人は、どうやって目の前にいる人を想う?もし彼の今の感情が本当に想いだったら、彼は認めざるをえない。過去のあの悪魔ちゃんと彼の好きな今の月璃は同じではない二人だ……
「いええ……」夏涼はゆっくりと口を開いた。
「……」月璃は少し身を縮ませる。
「そうではありません」夏涼は首を振った。
人を構成する最も重要なものは個性なの?それとも記憶?どっちも違うはずだ。人にとって、それらの個性と記憶より大事で、より貴重、より本質に近いものがあるはずだ。そのものは、決して記憶を失うだけで簡単に消えるものではない。
変わらない人は、死人だけだ。過去の月璃は確かに鮮やかで個人的な特質を持っていた。しかしそれを失っても、月璃はやはり月璃だ。彼は山積みの松ぼっくりが食べられないので、今も恩を返していない月璃だ。
同一人物である以上、彼は目の前に座っている少女を想うわけがない。
「想いではなく、懐かしみです」
「同じではありませんか?」月璃は声をひそめて尋ねた。
「想いは過去を見続けることですが、懐かしみは違います」夏涼は月璃の目を直視し、微かな光がその黒い瞳の中に揺れている。「今を直視するからこそ、人は過去を懐かしみます」
「……その言い方は、言葉遊びではありませんか?」
「そうです。確かに言葉遊びです」夏涼はあっさり認めた。
「……」
「ただ過去の君と今の君は2人の人だと言いたいなら、それもある言葉遊びではありませんか?」
「だけと……今のわたくしと夏涼が話した過去のわたくしは、あまりにも違いすぎます。」
この言葉の最後は、月璃の口調はやや高ぶっていた。
これは一般人はほぼ気づかない変化だが、夏涼は知っている。今の月璃にとって、それは感嘆文とも言える。
「月璃、君はただ成長した」夏涼は微笑んだ。
「成長……」
「ある言葉がよく言われました。『成長は、過去の自分を殺すことだ』しかしこう話した人は、自分は本当に過去の自分を殺すことだと思いますか?」
「……」
「今の君は、このような誰も考えない問題に一人で思い詰めています」
「いいえ、そうじゃないよ……」月璃はつぶやき、声がだんだん小さくなる。「わたくしが今怖いのは、むしろ逆……」
「うん?」声が小さすぎて、夏涼は月璃の言葉の最後が聞こえなかった。
「……」ちょっと沈黙した後、月璃は首を振った。「何でも、涼君、あなたにとって成熟とは何ですか?」
「成熟ですか?」月璃にそう聞かれるとは、夏涼は思わなかった。彼はしばらく考えて、返事をした。「多分……以前はやっていないことをやります。以前は話さない言葉を話します。以前は思考したことがないことを思考します。しかしそれは新しいものを試す気分ではなく、当たり前の態度で」
「当たり前の態度で、以前はやっていないことをやります……」月璃は頭をひねて、少々考えた。
彼女は小さく頷いて、自分に何を確認しているように。
深く呼吸して、目を閉じて静止した。
数秒後、両手で自分の頬を軽く叩いて、ゆっくりと息を吐いた。
目を開けて、微笑んで、揃えた両足の膝の上に手を置いた。
「涼君、さっきのようにひざまずいてくださいませんか?」月璃は軽い声で話した。
「うん?」
夏涼は躊躇わず、月璃の言葉に従って、跪いた。
「こっちを見ないでください」月璃は夏涼の戸惑いの視線から逸らし、耳を少し赤らめた。
夏涼は顔を横に向いた後、突然頬の肌が冷たさに包まれたのを感じた。
柔らかなあの両手に導かれて、彼の頭が月璃の曲がった膝に置かれた。
横顔から感じたその柔らかさで、夏涼は言葉が出ない。
「ここ数日、お父さまに一体何を命令されましたのか……わたくしは問いません」
「……」
「どうして毎回任務から帰った後、あなたの目の奥にいつも疲れがあるのか……わたくしは知りません」
「……」
「あなたの思いの中に、過去のわたくしはどんな形でわがままをしたのか……わたくしは分かりません」
柔らかな日差しが部屋の床を敷き詰める。
月璃は頭を下げ、瑠璃紺の髪が降り注いで、夏涼の横顔に擦り寄せる。
髪のほんのり甘い香りは、名の知らない草花が鼻の前で揺れているように、こそばゆい。
夏涼はゆっくりと目を閉じる。
「わたくしはただ望んでいます。涼君が疲れた時、当たり前のようにわたくしに甘えてくる……それだけで今のわたくしにとって、一番のわがままです」




