-傾月-〈零〉透き通った水面を通して、世界を眺める
絶対に『湖月』に話しかけるな……
この『湖月』は湖に映った月ではなく、水面の人影だ。
これは大昔から千湖大陸に語り継がれている噂である。ごく稀に人は湖面に自分以外の人影を見てしまうことがある。
自分の影でなく、しかし自分と似ている。自分とは全然違う人影だ。
あの人影たちは湖に映った月のように、そこに存在するものではない。ささ波立つ水面につれて微かに揺れたら、すぐに跡形もなく消えてしまうのだ。
多くの人にとって、この噂は昔からずっと伝えられ、子供を怖がせるおとぎ話だけだ。しかし、『湖月』が本当に存在していることを信じている人は少なくない。
ある人は信じる。これは亡くなった人たちだ。『無尽の月』に戻れない、さまよう魂だ。
ある人は信じる。これは湖の妖精の悪戯だ。
ある人は信じる。これは自分の前世、あるいは自分の望む姿だ。
『湖月』の真実についていろいろな噂がある。しかし、これは単純な見間違いだと思っている人を除いて、全ての噂には一つの共通の言葉がある。もし不幸にも『湖月』を見てしまった時、
絶対に『湖月』に話しかけるな……
これは絶対に守らなければならない掟であり、それを破った者たちは全て消えてしまうと言われている。
ある者たちは、『湖月』によって他の世界に連れ出されてしまうのだという。またある人たちは、確信的な口調でこう話す。夜、茜色に染まる湖を見た、と。
『湖月』は本当に存在するのだろうか?誰も証明できない。自然に『湖月』と話すことができたらどうなるか?それも証明できない。
ただ、ひとつ言えるのは、『湖月』は汚らわしくて、恐ろしくて、儚くて、存在してはいけないもの。それを見てしまったとき、人がまずすべきことはただ一つ、走れ!突っ走れ!振り返らずに走れ!なぜなら……
『存在してはいけないものは、いつもただ不幸をもたらすしかない』
数日前、執事長は月璃ちゃんに『湖月』の伝説を教えた。その時、彼はこの言葉を話した。
この言葉の意味は何か。小さな少女にはよくわからなかった。しかし、彼女は今も覚えている。執事長があの言葉を言った時、遠く遠く遥か先を望っで、まるで自分の長い人生を味わっているかのようだった。あれは月璃ちゃんには分からない過去だ。
あの時、執事長の瞳には寂しさがあった。
そう、寂しさ。
『月璃ちゃんは天才すぎる、ときどき月璃ちゃんにはまだ早い言葉を使う』執事長にいつもそう言われた。だけど、月璃ちゃんはまだ4歳にも関わらず、自分が寂しさの意味を間違えないと思っている。
彼女にとっての寂しさは屋敷の裏庭の枯葉みたいだ。秋が終わるとき、土にひらひらと降り積もる。あの上で跳ねたら、ざわざわと音がする。そしてしばらくすると、真っ白い雪のなかに静かに消えてゆく。
彼女は自分はもう寂しさという言葉の意味が分かると思っている。
だから、もし彼女が見ているものが見間違いではないのなら、いま湖面に映った琥珀色の瞳のなかにも、きっと、ものすごい寂しさがあるはずだ。
日暮れの湖面に赤橙の波がきらきらと光っている。月璃ちゃんは一人で湖畔にしゃがんでいた、しばらくの間、湖に映った人影をみている。
映ったのは自分の影のはずなのに、自分の瑠璃紺の真っ直ぐな髪とは違う。プラチナブロンドの髪色も、ボサボサ髪の毛も、どっちもこの影は月璃ちゃんの影ではないということを示している。
じつは数日前に、執事長がこの伝説をおしえてくれたとき、月璃ちゃんは『あたしなら、どういう『湖月』を見るの?』と想像した。
実際にみたのは、八面六臂でもない、五彩の羽で飾られたヘルメットを着用したこともない、目から黒の光線を発射することさえもない影だ。
なによ!これは……ただのかわいい女の子じゃないの?
伝説は自分にそっくりな人影を見るといっていたのに、全然似てないよ!
月璃ちゃんはふくれっ面をした。少し不滿があったけど、すぐに納得した。
だって、あの目はとてもきれいだ。自分の黒い瞳と違う、あの水面につれて揺れた瞳、まるできらきら光った琥珀色の宝石みたい、澄みきっている。月璃ちゃんの視線を自然に吸い寄せる。
プラチナブロンドの髪は水に連れて微かに揺れている。
無表情な少女が湖水から静かに月璃ちゃんを見ていた、いいえ、月璃ちゃんより、むしろこの世界を見ている。
透き通った水面を通して、この世界を眺めている。
どうしてあたしはあの子が寂しいと思うのか、月璃ちゃんは突然悟った。その子の眼差し、あの時の執事長と同じだ。
近づこうとしないで、この世界を遥かに望んでいる。
月璃ちゃんは頭をひねった。
どうしてこっちに来ないの?
そう話したいのに、執事長が『湖月』に話しかけてはいけないと言っていた。
つまらなくないの?
どうしてひとりぼっちでそっちに座っているの?
あなたの家族はどこにいるの?
あたしと同じ、まわりに家族がいないの?
あたしの妹になりたい?一緒に遊ぼうよ!
話ができなければ、できないほど、もっと話したい。『湖月』は長くてここにいてないそうだ。月璃ちゃんはうっすらと唇を噛んた。せっかく『湖月』を見たのに、まさかそのまま、なにもしなくて終わり?
月璃ちゃんはまだ覚えている。公爵の屋敷を出るとき、彼女が馬車のカーテンをそっと捲り上げて、無邪気な子供たちが彼女の前をふざけて通り過ぎて行った時のことを。その時、彼女は凄く凄く羨ましかった。
しかし彼女は尊い王族の末裔だ。野育ちの子供たちと一緒に遊ぶことはできない。
今せっかく生まれて初めて同年代の女の子と出会った。彼女は目の前にただ静かに世界を眺めている少女のために急に何かをしたいと思った。
月璃ちゃんは考えた。もし自分がこの世界の向こうに閉じ込められたら。ただ水面を通して、ずっと世界を望むだけだとしたら、他の人に何をしてもらいたいだろう?
そして月璃ちゃんはもう一度思い出した、執事長に低い声で教えられた言葉を。
絶対に『湖月』に話しかけるな……
「あ!」少し考えた後、目をパッと見開いた。
なら話しかけなければいいんじゃない?
月璃ちゃんが意気揚々と湖面へ手を出した。もし執事長がそばにいたら、口から泡を吹いて、卒倒するかもしれない。
月璃ちゃんは女の子の手を捕まえ、一気に上へ引っ張った。
バシャ……
月璃ちゃんは尻餅をついて、空っぽの手のひらを見た。身につけているホワイトドレスがずぶ濡れになって、瑠璃紺の髪は耳元で乱れていた。
彼女は戸惑った。さっき、何か捕まえた気がしたのに。
立って、まだ軽やかに揺れている水面をじっと見た。だけど、そこには自分のだらしない姿だけだった。
「殿下、お気をつけください。そろそろお戻りならなくてはいけない時間です」少し離れた所にいる側仕えは大声を出した。月璃ちゃんがせかっく外で遊ぶことができる、気持ちを壊されないように、彼は月璃ちゃんに近づかないでと命令されていた。
「はーい」と月璃ちゃんは返事した。もし一緒に遊ぶことができればいいのにと思った。
濡れた袖口を払って、月璃ちゃんは飛んだり跳ねたりして湖畔から離れた。
馬車で湖を離れた後、月璃ちゃんはすぐこのことを忘れてしまった。
あのとき、月璃ちゃんはまだ4歳だった。誰にも言わない、小さな夢があった。
『家族が欲しい』
……
夕日が西に沈んだ。陽射しが消えてゆく瞬間、湖面にはさざ波が立って、静かさの中に消えてしまう……