ばかやろー
… ん…
は… んぅ… ん…
しばらく時間が経って、お互いの顔が離れる。ちょっとだけ目線を上げると、そこにあったのは今まで見たことが無いほど優しいまなさし。
…あぁ、ダメだ。
またアイツの顔が近づいてくる。くっ、と体を抱きしめられ、ソファの上に二人して倒れこんだ。こっちはただ息をしているだけ。胸の鼓動だけは速くなっていく。
完全に予想していなかったことは無い。だけどコイツがまさか本当に…
逸らしていた視線をまた向ける。そこにあったのはさっきと変わらない、信じられないくらい優しい目。
…ダメ、なんだって。わかってるだろ
びくっ、と向こうが固まるのがわかった。でもなかなか離れない。ゆっくり深呼吸してからもう一度そっとアイツの胸板を押す。…ほっそい身体だなぁ、相変わらず。
ゆっくりとホールドしていた腕を解いて、フローリングの上に膝を付く。こっちも体を起こして、ソファに深く腰をかける。
お互い何も喋らない。
カチっ カチっ カチっ カチっ
時計の針の音は嫌いじゃないけど、今はやけに気になる。三十七秒。
「出てって」
カチっ カチっ カチっ カチっ
相手はこっちを見ないけれど、今目線を合わせちゃいけない。分からなくなってしまう。
カチっ カチっ カチっ カチっ
「ん、わかった。ごめんな」
四十一秒。決して早くはないが、思ったよりもすんなり引き下がってくれた。やおら立ち上がって自分の持ち物を手に取る。…ったく何なのさ、そのカバン。いつも持ってるけど特に開けることもないし。
「…本当に、本当の気持ちなんだ。それじゃあ…」
「うん、じゃあね」
危なかった。アイツが本当に求めてきたら、きっと抵抗できなかっただろう。体は細いくせに想像以上の出力だから。なにが抱きしめてるだけでもいい、だ。絶対そんなこと思ってるわけがない。身動きとれなかったっつーの。
…それもあるけど、そうじゃない。
あんな目で見られて、あんなに優しい口調で…
あんなに強く… やわらかく抱きしめられたら…
小さな頃からずっと傍にいて、いっぺん家から離れたけど最近またちょくちょく顔を出すようになって。今じゃお互い一人暮らし。何度か会いに来たりしてくれてたけど、それは子供の頃の延長線で面倒を時々見てやらねばと、老婆心を出しているんだろうな、と思い込もうとしていた。
「嫌いなわけ… いーや、嫌いになってやる」
子供の頃はうざったくてヤな奴だと思っていたけど、実は大した人間なんだと最近見直してきた。だけど、また壁を作ってやる。決定事項だ。そうしないと…
いつか負けてしまうかもしれない。
色恋沙汰の話なんてお互いしたことはなかった。でも分かる。絶対コイツは彼女いない。別に見た目も性格もヒドイことはないし、趣味だとかそう言う点でも大きなマイナスが付くとも感じない。だけどずっと見てきて、女っ気がついたことなんて一度も無かったように思う。何で彼女できないのかわからない。
一方こっちは普通に好きになったヒトもいて、至って普通と思われる人生を送ってきた。…多分。少なくとも人生で一度も彼女を作ったことのなさそうなアイツよりマシ。同性の友達や仲間に囲まれる環境が多かったし長く続いたから、一般から見たら少ないかもしれないけれど。
愛してる… ずっと、ずっと前から… 誰よりも…
あんなささやくように小さく、だけどはっきりと耳元に今でも聞こえるあたたかな言葉。今まであんな風に言われたことなんてなかったかもしれない。
少し高めで、でも何で?ってくらい低い調子の時もあって、感情の波を隠さないアイツの声。でも、あんなのははじめてだった。今まで聞いたことが無い。信じられないくらい染み込んでくる。
「どうしろってんだよぅ」
受け入れなければいい。単純なこと。嫌いになればいい。だけどなれるかは分からない。こっちだって大好きなんだ。でも、それは普通の男と女の思いとは違っていなくてはいけない。
くっそー。ホントありえん。アイツが独りで居続けた原因があたしだなんて。
「ばかやろー」
いい加減にしろよ、バカ兄貴。
いやはやお恥ずかしい。書いてるこちらが赤面です。
不肖れいちぇるのお送りしましたヒューマンドラマ第五編「ばかやろー」、お楽しみいただけたでしょうか。感情の赴くままに筆を走らせるのもまた一興でした。
それではみなさま。みなさまのもとにすばらしい物語の世界が訪れますように…
〆れいちぇる