涙
今日もミンティスと過ごす時間。いつもの中庭で彼の隣に腰を降ろしている私。
最初は遠かった距離。池のほとりに座っていた私と木の下に座っていた彼とでは、遠すぎて手を伸ばした所で届くはずもない。
でも今は……少し手を伸ばしたら彼の服に触れられる距離だった。
まるで私から彼への想いの距離みたいだと思った。
隣に座る彼の横顔を視界に映す。凛々しくなった横顔。初めて出会った時に感じた意志の強い瞳はそのままで、誰が見ても大人びた顔をするようになっていた。
手触りの良さそうな金色の髪。風にさらさらと揺れる様を見るのが好きだった。
少し前からだろうか……今度はまた会話がなくなった。ミンティスが寝るのを再開した、というわけでもない。私が本に没頭している、というわけでもない。
でも前よりも過ごしやすくて、何を話さなくても傍に居る時間が楽しくて。
二人で座っているだけで私は満足していた。この穏やかな空気がとても好き。
……彼がそう思っているかは分からない。けれど何も言ってこないということは、自惚れても良いのだろうか。
最近はそんなことを思うようになっていた。
胸元へ手を添える。そこには十四の誕生日にミンティスからもらった首飾り。
私は彼と会う日は必ずつけるようにしていた。それが礼儀だと言われればそうかもしれないけれど、私の場合は“私が”そうしたかったというのが一番大きい。
そんな私を見てどう思ってくれているのだろうか、この期間限定の《勇者》様は。
一人、口元に笑みを浮かべた。
ふと彼と視線がかち合う。胸が跳ねた。
以前なら逸らしていた瞳。驚きと、恥ずかしさが原因で。
今も驚くし恥ずかしいけれど、それ以上に彼の瞳に映る事が嬉しくて、瞳が合うといつも微笑んで返した。それくらいしかこの想いを表す術が思いつかなかったから。
するといつもミンティスは一度止まり、私から視線を外してしまう。ほら今も外して……あ、あら? 今回は私を見返してきているようだ。
意外な彼の反応に私が首を傾げると、どこか真剣な眼差しの彼が口を開く。
「兄上から手紙が届いた」
「……!」
その言葉に思わず俯く。
二ヶ月後、私の十五の誕生日がくる。……期限がきてしまう。
まだまだ先だと思っていたのに、こんなに早くて、いつの間にこんなに年月が経ってしまったのだろうか。
唇を引き結んだ。
言っても変えられない事。元よりそのつもりで、私も偽の《勇者》を受け入れたのだから。それにミンティスの望みが叶うというならこれ以上に嬉しい事はないはずだわ。
決めたのだ。私の身勝手な気持ちで彼を振り回さないと。
それが私にできる彼への協力。望みを叶える手助け。
気付かれないようにそっと息を吐いてから、笑顔を浮かべた。ミンティスによって培われた作り物の笑顔。こんな所で役に立つなんて思わなかった。
「そう。お兄様はなんて仰ってるの?」
彼はそこで私から視線をはずし、真っ直ぐ前へ瞳を向ける。どこを見ているのか、その表情からは読み取ることができなかった。
「王女の十五の祝いの席には出る、と。そこで正式に《勇者》を受ける……と書いてあった」
やはり、そうなのね……。
改めて聞くと現実味があって、今までの私は如何にその現実から逃げていたのかというのを思い知らされた。
十五を迎えたら、今ここに居るのはミンティスではなくなる。彼のお兄様になる。
だからって彼との思い出が消えるわけではないし、過ごした日々は確かにある。でも、だからこそ辛い。この場所に来る度に私は……きっと思い出す。
いいえ、分かっていたことだわ。それに、全く彼との関係が切れるわけではない。家を出るとは言っていたけれど、お兄様を通じて会う事もあるでしょうし、そこまで悲観的になるのもよくないわよね。
否応なしに暗く沈みそうになる自分に、そう言い聞かせ気持ちを持ち上げた。
そう、大したことじゃないわ。会いたいと思えばきっと会えるはずだもの。
ぐっと膝の上の両手に力を入れる。
「では、誕生日と同時にお兄様が《勇者》になってくださるのね」
「……そんなに嬉しいか?」
少し硬い声音のミンティス。彼の視線がいつの間にか私に戻っていた。
嬉しい……? 分からない。手放しで嬉しいわけではない。
作った笑顔のままで、私の表情が固まってしまっているだけだ。
あまり深く考えてしまうと気持ちが落ちる。できるだけ思った事をすぐ口にするようにした。
「あら、嬉しいのはミンティスでしょう? 約束の時までもう少しよ」
明るさを意識して返した言葉に、彼はじっとこちらを見返すだけだった。
……何故よ、どうしてあなたは嬉しそうではないのよ。何故、そんな責めるような瞳をしているのよ……。
一瞬揺らぐ表情を、懸命に笑みの形で堪える。
そうして見つめ合うこと数秒、初めて真剣な眼差しの彼が力を抜いてその青を閉じる。すぐに開いた瞳は私を映さなかった。立膝をした上に置いた彼の腕に注がれる。
「……そうだな、ようやく俺の望みが叶う」
以前聞いた、覇気のない声音で呟かれた。その横顔が少し寂しそうに思えた。
「兄上は優しい方だ。だが同時に……苦手なんだ」
──!
初めて聞くお兄様への気持ちだった。
今までの彼からは尊敬の言葉と、すごい方だということしか聞いて来なかった。だからてっきりミンティスもお兄様とは心を許しているものだと……。
予想外の言葉に私は何も言えず、彼の口が再び開くのを待った。
彼は大きく息を吐き出し、背を曲げてその腕に口元を伏せるように顔を乗せた。
私より体格のある彼が、少し小さく見えた。
「以前話したよな。兄上はなんでもこなす、と。そんな兄上を尊敬している。俺のことも気にかけて下さる。だからこそ、辛い」
彼の言いたい事がすぐには理解できず、見守ることしかできない自分が歯がゆい。
「周囲はいつも俺と兄上を比べた。何かあるとすぐ兄上へ話がいく。俺よりも全て完璧にこなすから、当然だろうな」
そこで自嘲気味な笑みをこぼすミンティス。
私も胸が辛くなってきて、両手を組み力を入れた。
「その度に、兄上は励ましてくれたが……次第に反発する気持ちが強くなった。あなたに何が分かるのか、と」
辛そうに呟かれる言葉が胸に刺さる。思わず伸ばしかけた手に気づいて慌てて引いた。
こんな彼を見ていられなかった。でも、私には抱きしめることすらできない。
視線を地へ向け、肩を落とす。
だから尊敬と同時に苦手だと言ったのね。
ずっと比べられ、誰も自分を見向きもしない状況……それはどんなに辛いのだろう。私はそんな経験がないから想像しかできない。
もしかして……。
「それで、“自由”を願ったの……?」
思わず問いかけていた。
私の言葉にもミンティスは顔を上げず、そのままの格好で瞳のみ伏せた。
「ああ。家を出れば誰も俺と兄上を比べないし、八つ当たりの感情を兄上に向ける事もない」
……そうだったのか。
彼の決意を固めたのがそういう事情だったなんて……。話してくれないと思っていた事をようやく聞けた。その嬉しさを少し感じてしまっている私は、最低なのかもしれない。
こんな辛い表情をしているミンティスを見て、嬉しいなんて……駄目よね。
でも、それなら尚更喜ばしいことではないのかしら。
そのお兄様との約束があと数ヵ月で叶う。願っていた事が叶うのだから。
もうそんな辛い思いをする事もなく、お兄様と普通に会話ができるようになるならこれほど嬉しいことはないと思う。
そこでようやく背を戻した彼は伺うような視線を私に向けてきた。
「良かったわね、ミンティス。あなたの願いが、もうすぐ叶うわ」
だから私は笑顔で彼に言葉を掛けた。元気を出してほしくて、笑ってほしくて。
でも、私の思いとは裏腹に、彼は表情を変えない。それどころか眉を寄せている。
……私は何か間違った事を言ったのだろうか。
さっきの笑顔は作ったものではなく、自然と出たものだし、彼を不機嫌にさせるようなものはないはずだ。
「ミンティス……?」
疑問に名を呼ぶ。すると小さな声で彼の言葉。
「……笑顔になるほど喜ばしい事なのか?」
さっきと似たような切り返しだった。同じように……いえ、さっきよりも硬い声、無機質な感情の入らない声だった。
いきなりの変わりように私は焦った。機嫌を悪くさせる何かを言ったに違いない。私は何気なくても、彼にとっては違ったんだろう。
頭を軽く下げた。
「ご、ごめんなさい……」
「それは何に対しての謝罪だ?」
間を置かず返され、思わず口ごもる。即答できず頭を下げたまま固まった。ダメだ、これは更にミンティスを不機嫌にさせる。わけのわからない謝罪なんてもらっても嬉しくないもの。
私の心の中は焦りでいっぱいになっていた。
気まずい空気が流れる。ミンティスの視線を感じるからこそ余計に頭が白くなる。何も言葉を続けられない。
唇を噛み締めた。
と、その空気を壊すように敢えて盛大なため息が聞こえる。ミンティスからのものだった。私は下げていた視線をちらりと彼へ向けてみた。
「あー、そうだよな。あんたは《勇者》を望んでた。俺が辞めて、兄上が来る事はさぞ喜ばしいことだろうな」
「っ!」
目を見開いた。
何故、何故そんな意地の悪い言い方をするのだろう。
あなたの望みが叶うから、あなたが笑顔になってくれるから、だから──!
力いっぱい両手を握る。勢いよく顔を上げ彼を見た。
「ええ、嬉しいわよ!」
様々な感情が胸に満ち、それが溢れたような感覚。荒げた声は抑えられなかった。
「それが何故悪いの! どうしてそんな言い方するのよ!」
あなたが望みを叶えられるから、だから嬉しいのに、どうして……!
そんな私の言葉もミンティスは表情を変えずに聞いている。
「お兄様で良かったって……《勇者》が、あなたのお兄様で良かったって思っていたのに……」
口からはとめどなく言葉が溢れる。
あなたとの繋がりが少しでも残るのなら、私はそれだけで嬉しかった。
私の本当の望みが叶わないとしても、あなたが笑ってくれるなら……そう思っていたのに、どうして……?
悲しくなってきて荒げていた声も、かっとなってしまった気持ちも沈んでいく。肩から力を抜いて背を丸めて俯いた。
また沈黙が降りた。
どうして、こうなったのだろう。さっきまであんなに心地よかった時間だったのに。
あなたが傍に居てくれる時間は少ない。こんな事、こんな気まずい空気は嫌なのに……なんでこうなってしまったの……?
温かいはずの風が冷たく感じてしまう。彼との距離がまた遠くなったように思えた。……近づけたと思っていたのは私だけだったのかもしれない。結局、彼とは分かり合えなかった、そういうことなのだろう。
目が熱くなってきてしまった。
いやだ、彼の前で涙は流しくない。
ぐっと瞼を瞑って溢れる止めようとした。
私がそんな事をしていると、がさりと草の音がした。反応して目を開けると彼の足が見えた。
立ち上がったミンティスの姿をそっと仰ぎ見た。涙は何とか堪えた。
そこで見えた表情は──《勇者》の笑顔だった。私は自分の体温が冷えるのを感じた。
「ええ、良かったですね、兄上で。では本日は失礼致します。姫、お元気で」
それだけを言い残し、そのまま城門の方へと歩き出した。
思わず追いすがろうと手を伸ばした。でも、何も言えない。
眉を寄せ彼の姿が見えなくなるまで眼差しを向けていた。それでも、彼は一度も振り返る事はなかった。私の視線を振り切るように真っ直ぐに歩いて行ってしまった。
ミンティスの姿が視界から消えると同時に、堪えていた雫が頬を伝うのが分かった。よく保ったな、と自分で自分を褒めたくなった。
けれど、一度流れたものは止まる気配がなくて、次から次へと瞳から零れた。
誰にも見られたくなくて、両手で顔を覆い、静かに涙を流した。
想いが届かない。分からない、あなたの気持ちが。何を考えているのかが。
胸が痛くて、辛くて、それを癒そうと沢山涙が溢れた。
***
どれくらい、そうしていたのか……気づいた時には息が苦しくなってきてしまって、とりあえず涙を止めようと上を向いてみた。
濡れて見づらくなった視界に青い空が映る。……ミンティスの瞳の色。
ふとそう思っただけで、また目元が熱くなるのを感じて慌てて首を振った。
折角止まりかけたのに、逆戻りは駄目だわ。口で呼吸を繰り返し、なるべくミンティスの事を考えないようにして滲みかけた涙を止める。
無心に……無心にならなければ。
泣いていたって私の誕生日はやってくる。それなら、少しでも笑って彼と過ごす方がいいに決まってる。
次ミンティスに会ったら、謝る……のは駄目だから、えーと……ど、どうしようかしら……。
振る話題が思いつかなくて口元に手を当てて考え込んだ。
「そのような難しい顔をされて、いかがなさいました?」
優しい響きの声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げる。
私の傍には微笑みを携え見下ろしている男性。
右肩の辺りで一つに結ばれた淡い金の髪。瞳は翡翠の宝石のようだ。纏う服装も上品な色合いの濃い青色。襟元まできっちりと止められたその様子から、真面目な人なのだという印象を受けた。
その眼差しは柔らかく、無駄のない動作でその場に膝をつき、私の目尻へ人差し指を触れさせてくる。何事かと目を瞬かせた。
「愛らしい姫君。貴女を悲しませるものはなんですか?」
その言葉で気づいた。私の涙の名残を見つけたのだと。
彼の手から逃れるよう背を引いた。こちらへ向けられる笑顔から、何も言わずに顔を俯かせる。
でも、その男性は私の傍から動こうとする気配はなく、視線が向けられているのを感じた。
……そういえば……この人は誰なんだろう?
当たり前の疑問が浮かび、俯かせていた顔を上げて改めてその男性を見返した。
微笑んだままの彼は少し頭を下げて口を開いた。
「はじめまして。レティウスと申します。王に用がありまして、謁見させていてただいておりました」
「お父様に……」
初めて聞く名前だったけれど、お父様の知り合いならそういう人が居てもおかしくはない。
上品な服の着こなしを見れば貴族の方だと分かる。
安堵して無意識に身体に入れていた力を僅かに緩めた。
そしてそれ以上は何も言わずに笑顔のままで私を見てくる彼。恐らく先程の質問に私が答えるまで待つ、ということなのだろう。
初対面の人に話す内容ではない。だから私も躊躇して視線を泳がせる。
でもなんだろう。どこか見知ったようなそんな雰囲気をこの方からは感じる。話してしまっても大丈夫、という気にさせてくるから不思議だ。
しばらく思考を巡らせ、風邪の時のような鼻声で言葉を紡ぎだした。
「……喧嘩を、してしまって……」
「喧嘩、ですか?」
優しい声音。何故か導き出されるように言葉が口から出てしまう。
「気持ちが……上手く伝わらなかったのかも、しれません……。怒らせてしまいました」
そうだ、帰っていった時の彼は怒っていたのだ。
でも何にそんなに怒ったのかが分からなくて、更に怒らせてしまったのだと思う。私の言い方が悪かったのか、言葉を間違えたのか、分からない……。
再び俯き、ぎゅっと握る両手を視界に映した。
「喧嘩なんてしたくないのに、どうしてこうなったのか分からなくて、辛くて……」
一つずつ零す私の声を、男性は黙って聞いてくれていた。
その優しさが私を温かく包んでくれる気がして、目元が再び熱くなる。抑えていたはずの涙が零れてしまう。
私は慌てて自分の顔を両手で覆った。
「ご、ごめんなさい……っ!」
くぐもった声でそれだけ言うのが精一杯。出そうになる声を、肩を震わせることで懸命に押しとどめた。
そんな私の肩にそっと手が置かれた。
「大丈夫ですよ」
どこまでも優しさを含んだ声音。穏やかに紡がれる言葉。
「貴女と喧嘩をされたという方も、きっと後悔しているはずです」
……ミンティスも……?
思ってもいなかった内容に両手を覆っていた手から顔を上げ、涙の浮かぶ瞳をレティウスさんに向けた。
その彼は微笑んでいた。私を落ち着かせるように、安らぎを与えるように。
「どうして……分かるんですか……?」
素朴な疑問を口に出していた。すると優しいその人は楽しげに笑った。
「こんな愛らしい方に本気で怒るはずが無いからですよ」
「──!」
予想外の返答に私の目から涙が止まった。代わりに少し瞳を大きくして見返した。
この流れでのこの返答。私には何も返せなくてその場で動きを止めてしまう。
しかしレティウスさんはそれで満足したように頷き、私の肩から手を退けるとその場にすっと立ち上がった。
追いかけるよう視線を上げて彼を見る。
「それでは、私はこれで失礼致します。姫君の涙は止まったようですので」
深々とお辞儀をした彼は、最後に一度笑顔を向け、優雅な動きで背を向けて歩いていってしまった。
残された私は呆然とその後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
……突然現れて、初対面にも関わらず慰めて下さった。
ちょっと不思議な感覚が胸を支配する。気づけばミンティスとの事が、それほど辛くなくなっていた。なんとかなるのではないか、そう思い始めたからだ。
そうだ、以前なんかはもっと言葉も少なかったし、ずっと怒ってるような雰囲気だったのだ。今回の事がなんだと言うのだ。
私は瞳に残っていた涙を指先で拭う。
次会ったらきちんと謝ろう。
彼と過ごせる時間はもう少ない。それなら、理由が分からないからって悩むより、とりあえず謝って、分からない事も謝って、残りの時間を笑顔で過ごしたい。
あなたとの時間を笑って過ごしたい。それがせめてもの願い。
──大好きなあなたと。