社内不倫
――もうこんなこと終わりにしましょう
横川克彦のPCに届いていた最新のメールは、私用のものだった。外出からもどりデスクにつく直前、目の前に座る村山真由の横顔がみえた。
――どうして?
克彦はすぐ返信を送った。真由と関係をもってもう一年がすぎようとしていた。十秒、三十秒、一分……どのぐらい待ったか数えられるくらい待ち通しい返信はこなかった。
「課長」と克彦を呼び電話を取り次ぐ若い女の声がした。今年、課に配属された嵯峨京子だ。まだまだ手のかかる新人を真由に面倒をみさせていた。
相談ごとがあるのか、克彦のデスクの前に部下の男が立っていた。籾山信一郎は先月の嵯峨の歓迎会では、真由の横に座りかなり酔っていたようだった。
いつのまにか籾山に並んで嵯峨も克彦のデスクの前に立っていた。怪訝な表情で立つ二人に遮られ、真由の背中が見えなくなる。「電話です」と促され、克彦は我に返りあわてて受話器をとった。
――どうしてって、あなたは本当になんとも思わないの?
ちょうど電話が終わると同時に受信した返信メールは、更なる疑問符がつけられていた。
――メールじゃなく、会って話をしよう。
――今日はだめよ。
克彦は胸の底から熱い何かがこみ上げ、声を出すのを必死におさえた。今日は二人で食事する約束をしていた。だめなはずはない。
――ともかく、少しでもええから。
――わかった。定時で着替えたら待ってる。
狭い喫煙ブースで、私服に着替えた真由は自動販売機にもたれかかっていた。煙草を取り出し、わざとこちらをさけるように虚空に紫煙をはきだした。克彦はその様子を、ブースの入り口に背を向け、ブラックの缶コーヒーをすする仕草にかさね何度も目をやった。
掃除当番だった嵯峨が、煙草の灰をまきちらせたのをそのままに、足早にブースを後にした。気配がなくなったのを確認して、克彦は缶のふちから口をはなした。
「お前、籾山とつきあっているのか?」
「まさかそんなわけないわ」
真由は軽く否定だけして、再び肺に煙を送り込み直ぐには言葉をつがなかった。大きくはきだした紫煙が、克彦に届く前に霧散した。
「奥さんと子供さんに悪いと思わへんの?」
「関係ないやろ。お前には迷惑かけへん」
「私にはかけなくても奥さんにはかけてもええの?」
「そうは言ってへん」
克彦は押し黙るしかなかった。真由が短くなった煙草を灰皿に押しつける。再び缶コーヒーに口をやるが、もう苦味は入ってこない。口臭防止のガムを噛み始めた真由の表情が突然ゆるんだ。
克彦がゆっくり振り返ると、喫煙ブースの間仕切りから制服姿の嵯峨が半分顔をのぞかせていた。聞かれていたのか。
「京子ちゃんまだ帰らないの?」
「はい。アイフォンをなくしちゃってさがしているんです」
「大変ね。じゃ、お先に失礼します」
柔和な表情は崩さず、克彦を一瞥し真由は喫煙ブースをあとにした。かわりに嵯峨が克彦のかたわらを通り、華奢な身体をブース奥にすべりこませた。
「課長は煙草お吸いになりましたっけ?」
「ちょっとコーヒーを飲みたくてね」
克彦はとうに空になった缶コーヒーを口元に寄せた。嵯峨は「ここに落ちてました」と言いながら、自動販売機の下からアイフォンを拾い上げた。まだ幼さの残る嵯峨の表情が色っぽい艶をもつ。嵯峨はアイフォンを顔の横にかかげ、画面に指をふれた。
――お前には迷惑かけへん……。
嵯峨はわざと録音機能のついたそれをここにおいていたのだ。
「村山先輩が言っていたんですけど、課長は村山先輩と同じ大阪出身なんですよね」
嵯峨は身をくねらせて克彦の肩に手を置いた。
「それにとっても優しんでしょ?」
「どうしてそんなことを言うんだ? 誰がそんなこと言ったんだ?」
克彦は手を振り払うように身を引いた。
「どうしてって? 課長に興味があるから」
「興味があるって、どういうことなんだ?」
「これから予定がないなら、お食事でもどうですか?」
「わかった。いいよ」
克彦は一瞬考え拒否するのはまずいような気がして、ふりしぼるように声を出した。嵯峨はただ小首をかしげ、あやしく目を潤ませ克彦を見つめていた。