吊るされた人
おれは、セメントの跳ねた作業着で酒をあおった。
「あいつが悪いんだ、あいつが欲しがらなければこんなことにならなかったのに、ふみえが、ふみえが悪いんだ」
いらつき、鼻をすすった。おれを幼い頃に捨てた女がおぼろげに瞼の裏に浮かぶ。
子どもは嫌いだといったのにあいつは産んだ。初めから見えていたこと。わずかな希望にすがった。変わらなかった。それだけだ。しかたない、しかたなかった。
顔が浮かぶ、女の子ができたと言ったあん時の顔がにらみつける。
「産まれなければよかったんだ」
泣き震える顔が握りしめたグラスに映る。
女の子が欲しいと言い出した時、何が起こったのかわからなかった。子どもが欲しいなんて、結婚してからさえ聞いたことなかった。 堕胎するしかない、当たり前のことだ。
「男だったらどうする、女かどうかわからないんだ。犬や猫とは違う、捨てられないんだぞ」
何度も、何度も何度も、言聞かせた。ふみえは何も考えない、女の子を産むと言い張った。やめてくれと言うだけでヒステリーになり、おれをなじった。あの日結婚して始めて酒を飲んだ。すすり泣く声を聞いた。あれで終わったはずなのに貴美恵さんはおれをゆるし、何もかもがおかしくなっていった。
膨れ上がっていく現実が多田正光に酒を注がせた。
起こされると、客がいなくなっていた。ふらつき、外に出た。看板は消え、通りを灯すのは遠くに浮かぶ電灯と走り抜ける車のライトだけだ。
速度表示を無視した大型トラックが轟音を響かせ通り抜ける。
遠い電灯のあかりに犬がうつった。ヨタヨタ歩いてくる、止まった。物欲しげに、見ている。
「おまえどこから来たんだ」
犬に近づいた。尻尾を振る。雑種だった。痩せこけた背中をなぜる。首輪を探る、首輪には何も書いてなかった。
「飼われてたんだな。かってだよな」
つぶらな目が見つめる、背を向けて視線を避けた。汚れた痩せこけた姿、ヨタヨタと消えていった。
真っ暗な、形だけのせまい自転車置き場に何台か自転車が残っている。一番端の自転車の後ろに立った。
ふみえが乗るといったから質屋をまわって探した。結局おれが乗るはめになった。
ズボンをまさぐった。
あせってポケットを引っ張り出す、
服にあるポケットをあるだけひっくり返して、鍵がないことに気づいた。
明々とランプをつけた大型トラックが自転車置き場の前を轟音をたて通り過ぎる、銀に光ったハンドルをカッときて揺らした。
音がした。
何かが落ちた。
手探りで探す、鍵だ。
掛けた鍵を抜くのを忘れていた。
「たすかった」
おもわず声をもらした。
鍵が音を立ててはまる。
自転車を引っ張り出し、サドルをまたいだ。
キィーキィー鳴らしながら空気の抜けたピンクのママチャリをこいでいると道路の反対側に痩せこけた犬がいた。
車道に出た犬の横を猛スピードの白い車がかすめた。
自転車を止め振り返った。
無事だった。
犬を目で追っていた。
今にも倒れそうな姿が遠く闇に消えていく‥
コードを手探りで引っ張った。
蛍光灯が明るくした部屋には誰もいない。
六畳と四畳半の家で親子三人で暮らした。ふみえが入院してから正広は貴美恵さんに預けている。
白光に映し出されたピンクのフランスベッドが目についた。
繁華街の家具屋でこいつを見たあいつは欲しいと、腕をぎゅっと握った。高すぎると言っても、それでも駄々をこねた。ふみえがそこまでして欲しがることは一度もなかった。
値切って嫌々買ったベッド、それでもあいつがうれしそうな顔を見せた時、うれしかった。
多田正光は、電気も消さずにダブルベッドに倒れこんだ。
慟哭は歯ぎしりといびきに変わっていた。
暗闇の中で赤子が泣いている。
日に焼けた指がふにゃりとした首を握った。
眺めている女が、喜んでいるとも悲しんでいるともわからない顔で見つめる。
男はおろおろと目をそらし、赤子のほおにしずくを落した。
駅の階段を下り始めた頃にはもう、感極まっていた。
なぜなんだ。そんな答えも見つけようもない問いの答えを探し続け、時間だけがいたずらに過ぎていくような日常を消化しながら、書きためた小説の短編をメールに落としたものに歩きながら、目を通していた。
幻想的な、祈りは、母親の気持ちになり描いた。聞き知った事実から思い描いた虚構の世界で、それに対になるように描いたのが、吊るされ人で父親の気持ちを代弁するつもりで描いた短編。
自分で描いた世界なのに読んでいて、苦しくなる。
あなたたちが落した涙が、たとえ真実だとしても、あなたたちのほんとうの想いを知るすべはない。
人は簡単に嘘をつくから。
どうしてこんなおかしいことをしてしまったのだろうかと、考えるとほんとに、悲しくなる自分という存在が、人という生き物が。
体も心も時間に追われ、現実は、仕事先に向かっていく。
電車がドアを開け、時が走り始めた。
埃に曇る電車の窓に眩い光がさして、目に映るすべてがゆるやかな温もりに揺れる。朝日がまた、登っていく。
まだ、肉眼で見ることの出来る美しい円を見つめた。
微かな、微かな、光の振動に、拭っても、拭っても、瞳からは熱い想いが溢れ、逆らうことが出来ないことを思い知らされる。
垂れていく雫はほんとうの気持ちを形に、音のない言葉に変え、誰にも聴こえない響きとして、世界を激しく、振るわせる。
あなたよ、あなたはなぜ僕をうんでしまったのですか。
僕はなぜ、生まれなければならなかったのですか。
こんな世界に生まれたくなかった。
なぜこんな世界を創ったのですか。
生まれたくなかった。