フィオーレ
己の存在理由を問われれば、迷い無く絵を描くためだと答えるだろう。
それがなんであれ、自分の答えを見つけたことは幸福だ。
己の存在価値を問われれば、完成させた傑作を指さして示すだろう。
もっとも、そんなものは未だ存在しない。
己の理由を定めたが故に、それが成されなければ、残酷な答えを受け入れなければならない。自分にはなんの価値もないのだと絶望しながら、あがき、縋り、泥だらけで這わなければならない。……凡才である身にとって、夢を追うとはそういうことだ。
理想は遙か果てにあり、現実はどこまでも厳しかった。
欲しいものを夢見て、それに人生を懸けて、手が届かなければあとは知らない。
別の道を選ぶ贅沢はできなかったけれど、そんな生き方をするのなら、覚悟くらいは持っておいた方が誠実だろう。
約束の日が来た。
マストは朝から荷物を持って、いつもの場所に向かった。運良く快晴に恵まれたのを幸いに、久々に似顔絵業を再開する。
……といっても暇なので、ほとんどの時間は描きかけだった風景画の仕上げに費やした。日が落ちるまで粘っても客が一人も来ないなんて、以前からざらなのだ。
結局似顔絵を所望してきた客は今日も少なく、大した稼ぎにはなっていない。それでもいいと思うのは、マストは自身が似顔絵描きではないと認識しているからだろう。――あるいは、そう思わないとやっていられないだけなのかもしれないが。
日が落ち、周囲が暗くなってもマストはその場所を動かなかった。月は半分ほど出ていてそこまで暗くはないが、もう筆は置いている。似顔絵描きの看板も片付けていた。
待つならこの場所で、以前と同じように待つのがいいと思った。なんとなくそんな気がしていた。
顔を忘れられている可能性も考慮して、目印代わりに画台は立てたまま、冬の寒さに手を擦り合わせながら……ただ待った。
不思議なほどに心は静かで、落ち着いている。人通りが少なくなるほどにその心持ちは深くなり、やがて道からすっかり人影が消えてしまうと、もはや思考すら停止して月を見上げていた。
マストは己の腕を妄信できるほど、素人でも達人でもなかった。用意した自画像は自分でもなかなかの出来と思ったが、とはいえ傑作と言うにはほど遠い。ただ鏡に映るがままを描いただけ。正直不安ではあるが、時間の許す限りやることはやったという自負はある。
だから単純に、ここで終わるならそれも仕方がないと、そんな心づもりだった。どうせ、いまさらじたばたしても無駄でもあるのだし。それに……。
冷たい風が吹き抜ける。人通りの多い道だが、暗くなると嘘のように人影がなくなった。しんと静かで寒々しく、住民が息を潜める隠れるような夜。それはこの都の行く末を暗示するような光景に思えた。
自嘲気味に、青年は微笑む。
こんな場所に住む無名の絵描きの末路など、どうせ行き止まりに決まっているのだから。
「契約か。まったく……我がことながら奇異なことをしたものだ」
不意に声がした。振り向くと驚くほど近くに、以前と同じ純白のドレスに黒いコート。
「まさか待ち合わせとはな。まるで街の恋人たちの真似事よ。こういう感覚は久々だったぞ、絵描きよ」
何が楽しいのか、彼女はクツクツと小さく笑っていた。興味深そうに細められた目が、自分をまっすぐ見つめているのをマストは見た。
月に映えるシルバーブロンドの髪と、紅玉の瞳。透き通るように色が白いくせに、挑発的で尊大な表情が病的な印象を抱かせない。
見間違えるはずもない、あの夜に出会った女性。
「良かった。もしかしたら、あの日のことは自分の見た幻覚ではないか、と疑っていたところです」
その凛とした立ち姿を目にして、マストは微笑みを浮かべる。
この一週間、何度か幻覚だったのではと疑ったのは本当だ。あるいは現実だったとしても、来ないかもしれないと不安を覚えたこともある。
けれど、彼女はここに来た。まずはそれが嬉しくて、自然と笑んでいた。
「ほう? なかなかに面白いことを言う。だが、もしかしたら幻覚であったほうが良かったかもしれぬぞ。なにせ貴様の命運は、今ここで私が握るのだからな」
女性も笑みを浮かべていた。小動物を玩具に遊ぶ幼子の笑みだった。
その言葉を受けた絵描きの青年は、少しだけ気弱そうに笑うと、芝居がかった仕草で一礼する。
「喜んで命運をお渡しします。……もし貴女のお気に召さない腕であったなら、絵描きの誇りを抱いて死にましょう」
命を懸けることに恐れはなかった。そもそも、マストは覚悟してここにきたのだ。―――いや、覚悟など一週間前に即答した時にはできていたのだ。
この奇妙な出会いが運命だと言うなら、そのまま徹底的に流されてやるのもいいと感じていた。その結果どうなろうが、もはやどうにでもしてくれという気持ちだった。遺書も遺言も残していないが、どうせやり残しはない。
ぶっちゃけていえば、マストはとっくに開き直っていた。
そして、開き直ってみればこんな状況でも楽しめるのだな、などとどこか他人ごとのように思っていた。
「ハッ、貴様は命をゴミのように捨てるのだな。少しは怯め。でなければ面白くない」
「僕は所詮、ゴミのような人間ですから。同じゴミのように死ぬなら、己の腕に命運を託して死にたいものです」
「クク……ハハハッ」
怖じ気づくことのないマストの軽口に、女性が笑う。元から今日は機嫌が良さそうだったが、まさか腹を抱えられるなどとは予想もできず、マストは目を瞬かせて驚いた。
「知っているぞ、その愚かさ。蒙昧さ。それは戦場に赴く騎士のそれだ。死に場所を定めた馬鹿者の陶酔よ。面白い。絵描き、品定めの前に答えるがいい。貴様はいったい何に忠誠を誓って死地へ向かうのだ?」
そんなことを言われても、マストは誰かに召し抱えられているわけではない。忠誠を誓う相手になど心当たりはなかったので、そのまま正直に答える。
「何に忠誠を……と言われましても。いまだ誰の目にも止まらない無名の絵描きとしましては、自分の上に据えるべき相手に心当たりはありません」
「ならば誇りだな」
その言葉は、マストの胸の奥の棘を震わせた。
「貴様は自身が持つ誇りに忠誠を誓い、命すらも懸けられるのだ。なんとも崇高な男よ。なんと純粋で、尊く、儚い人間であることよ。この腐臭の漂う都で、貴様だけは魂の在り方を曲げることなく生きている。すばらしい」
「いや、僕は……」
「謙遜するな。私は貴様の心根の価値を認めよう。だが、それでは寿命は短いな。花のように」
酷く意地の悪い笑みで、女性はからかう。
「貴様の魂は泥沼でもがくネズミだ。安穏な道を行く者とは違う景色へと向かうだろうが、消耗は比ではない。……だが、それでも貴様は心より先に身体が死ぬだろう。おお、それはなんと誇り高い生き様だろうか。一つだけ残念なのは、そこには何の意味もないということだけだ」
「……僕は、そんな人間ではありませんよ」
「ならばそれでいい。ただの阿呆なら、それはそれで見応えもあろう。どれ……そろそろ貴様の自画像、この目で品定めしてやろう」
促され、マストは荷物の中から布でくるんだ絵を手に取る。慎重に布を剥ぎ、女性が見やすいよう、画台に立てかけた。
「いかがでしょうか?」
そこには青年がいた。
整えた黒髪に、柔和そうな深緑の瞳。小さめの鼻と、引き結んだ唇の薄い口。輪郭はやせ気味で細く、髭のない顎も細い。肌は少し日に焼けていたが、全体的には貧弱そうな印象が強かった。
大して特徴のない、平々凡々な一市民。
隣にいる男をどこまでも忠実に、そのまま写し込めた絵。
「自画像ですので、モデルが悪いのは勘弁してもらいたいところです」
そう口にしながら、マストは再び女性へと視線を向ける。
彼女は笑みを消していた。先ほどまでの上機嫌はどこへ消えたのか、氷のように怜悧な眼差しで絵を見つめていた。
「…………」
無言でツカツカと画台に歩み寄り、女性は真剣な表情で眺める。
「い……かがですか?」
再度聞く、その声がうわずる。急に世界が無音になったような気がした。ここだけ空間が都から切り取られたかのごとく、息苦しいまでにピンと張り詰めた空気が支配していた。
それほどに、女性の雰囲気は豹変していた。
これから裁定が行われる。
このお方はこれより、我が命の価値を判ずるのだ。
そんなことを改めて認識して、背中に嫌な汗が流れる。ここに来てようやく、マストは身震いするような緊張を覚えていた。
やがて、女性の艶やかな唇が動く。
皮肉げな……笑みの形に。
「ダメだな」
酷く可笑しそうに、彼女はそう口にした。