噂話2
油絵の具を一度塗ったら、乾くまでの時間が必要になる。
生乾きのまま上に別の色を塗れば、下の色が混ざってしまうのである。なので細密な絵を描こうとすればするほどに時間がかかるのが常で、集中して一気にすべて描き上げる、などということは難しい。
薄めに塗って、乾くまでに一日ほどだろうか。しかし寒さもあいまって乾きが遅く、今朝はまだ筆を入れられる状態ではなかった。
期限は迫っている。やはりサロウドに作業を止められた一日分は大きい。もちろん、鏡を貸してくれたことも、身なりにアドバイスをくれたことも感謝しているが。
だが朝起きて乾いていなければ、描きたくとも手は出せない。仕方なく外出し、手持ちの絵を売ってわずかな金銭を得たマストは、教会へと立ち寄った。
特に用があったわけではない。単純に、近くを通ったから立ち寄っただけである。
今は貧して活気が薄いが、この都はそれなりの大きさがあるため、教会は中央以外にも随所に点在している。マストが立ち寄ったのもその内の一つであり、中央教会ほどの大きさも荘厳さもない、ちょっとした家屋に毛が生えた程度の質素な教会だ。それでも門を開ければ、長机の並ぶ礼拝堂は静謐で神聖な空気に満ちていた。
マストは敬虔な信者ではない。週に一度の集会にもほとんど出席しないし、聖典を最後まで読んだこともない。
しかしそれは、マストの信心が特別低いということではない。たまに気が向いたときだけ教会へ行く信者なんていくらでもいて、マストもその中の一人であるだけだ。
礼拝堂には数人ほど先客がいて、皆が静かに祈っていた。今は席を外しているのだろうか、神父の姿は見えない。マストは音を立てないよう最後尾の椅子に座ると、胸の前で手を組み静かに瞼を閉じる。
祈りとは感謝である。
日々の恵みに感謝し、今を生きることに感謝し、天上にて見守っている神様に感謝する。
願いとは違う。
むしろ真逆のものだとマストは思う。
それは神を通して、「自分をとりまくものを受け入れる」ことに他ならないからだ。神の与えてくださった、今という生。それをを改めて認識し感謝することで、自分の現状を己の胸中にしっかと受け止めるのが祈りの本質なのだ。そしてそれこそが、新たに前へ踏み出すための過程なのだ。
そうマストは思っていたし、だからそれ以外の解釈なんて必要としていなかった。
だから青年は願わない。神の力になど頼らない。
頼っていいのは自分の腕だけであり、それが通用しなければ、所詮その程度だったというだけのこと。
マストは静かに祈る。
そこまで長い間祈るわけでもなく、マストは瞼を開く。すると、最前列の方でちょうど立ち上がった先客と目が合った。
短い金の髪の美女だった。マストより年上だろうが、まだ三十には届いていないだろう。背が高く、しなやかに鍛え上げられた身体だが、無骨さや威圧感は感じさせない。飾り気はないが品の良い服装に身を包んだその姿は、どこか猫科の獣を連想させた。
後ろ姿しか見なかったので先ほどは気づかなかったが、彼女はマストの知り合いだった。
女性が軽く会釈したので、マストも返す。それに彼女は清楚に微笑むと、窓の外を一度見やった。……おそらく、日の高さでだいたいの時間を確認したのだろう。礼拝堂の空気を壊さないよう、静かに歩み寄ってくる。
「たしか、グランセンと同居されている方でしたね?」
確認のような問いに、マストは頷いた。
「はい。マスト・ポートです。お久しぶりです、アリシア様」
彼女の名はアリシア・セルマ・ノルンサーフ。この都に新しくできた兵法道場の師範であり、グランセンが師匠と仰ぐ人物であり……以前の戦争の最も戦火が激しい場所で生き抜いた、傭兵団の元団長。
「お久しぶりです。覚えてもらえていたのですね」
アリシアはそう言ったが、声を掛けられて驚いたのはマストの方である。
マストとアリシアが会ったのは一度きりだ。彼女がグランセンを訪ねて来たとき、取り次ぎの応対をしただけである。
マストが彼女のことを覚えているのは当然だ。人目を惹く強かで美しい外見とその経歴を鑑みれば、アリシアは人の記憶に残らない方がおかしい。……が、マストには人の記憶に残るような特徴など皆無なのだ。当然のように、自分のことなど覚えてはいないだろうと思っていた。
「少しお話しても?」
そう聞かれて、マストは小考の後に頷く。絵の具はそろそろ乾く頃だろうが、だからといって焦るのは良くない。もう乾いただろうとたかをくくって、失敗した経験は何度でもある。こういうときこそ、多少ゆっくりするくらいがちょうどいい。
礼拝堂で長話するわけにもいかないため、いったん外に出る。冬でも昼前の日差しは暖かく、心地よい。季節柄花は咲いていないが、手入れの行き届いた花壇が並ぶ小さな庭を見回し、一つだけ設えられた長椅子に並んで腰掛ける。
「人が消える噂は聞いていますか?」
話題は物騒だった。
「聞いています。少なくとも七人は消えている、と」
マストは自分の聞いた中で、最も信頼できる情報を口にする。すると、アリシアは少し意外そうにマストの顔を見た。
「正確な数字ですね。書類にあるとおりの人数です」
「知人に物知りがいまして」
「……なるほど」
どこか困った様子を察して、マストはなぜアリシアが自分と話したがったのかを理解する。……一般人がこの件に対してどう思っているかを、彼女は知りたいのだ。
「でも、噂だと二十人は消えてることになっています。だから多くの人が夜の外出は控えているようですね」
「騒ぎになっていますか」
「いえ、あまり」
マストは正直に、言葉を選ぶ。
「冬ですし、戦争が終わったばかりですからね。餓死もするし、物取りは横行するし、流行病もあります。戦争を食い扶持にしていた傭兵崩れが暴れることは、最近少なくなってきましたけど、それでも炉端で人が死んでいない日はありません。……そんな状態ですから、人が消えるくらいで混乱はしませんね。まあ尋常な事態でないことはたしかですし、雰囲気は悪化していますけど」
人が死ぬ話を淡々と口にした。もう慣れていたし、自分もいずれ炉端で死ぬだろうと疑っていなかった。
この都には生きながら朽ちていくような絶望感が漂っている。町並みを残して、人々だけが乾いて砂になるような錯覚がある。
陰惨な現在と、空虚な未来がそうさせるのだろう。
そんな絵描きの青年を見て、アリシアは瞼を伏せる。長いまつげが震え、空色の瞳に陰を落とした。
「……そうですか」
やっとそれだけを口にするその姿は、実際の歳よりも若く、少女のようにすら見えた。
「最近、夜の見回りをされているようですね」
「はい。微力ですが、少しでも治安を良くできればと思いまして」
「すばらしいことだと思います」
マストは本心から、そう言葉にする。
元から、アリシアの元傭兵団は都の民からの人気が高い。和平成立で終わったとはいえ、一番の功績を挙げた彼の団は、戦争が終わった後この都に腰を下ろして尽力してきたのだ。他の傭兵崩れの横暴を取り押さえたり、街の至る所で行き倒れる死体を運んで埋葬したり、よそから来たにもかかわらず、この都の一員となるべく働いてきたのが彼女と彼女の傭兵団なのである。
それは素直に凄いと思えたし、マストはそれを行える彼女の人徳を尊敬してもいた。
「ですが、少し困っています」
困っている、と彼女は言った。しかし何に困ることがあるのか。視線に疑問を乗せて促すと、アリシアは悩ましそうな顔で続ける。
「民の不満が溜まっています。食料がないのも、流行病も、乱暴者どもの横暴も、領主の対応が悪いせいだ、と。……人が消える事件も」
「それは……しかし間違っていないでしょう」
都規模の悩みだとは想定しておらず少々面食らうが、マストもその不満を抱える側ではあった。
「間違ってはいません。この都の有様は少なからず領主に責任があるとわたしも思います。……ですが、ことさらにその意見を助長させる者や、余計に民の不安を煽る者がいます。さらには、わたしたちを英雄視して利用しようとする者たちまで」
――ああ、それで。
合点がいったと、マストは胸中で納得した。
難しいことは分からないが、アリシアは政治の問題に巻き込まれようとしているのだ。彼女の見た目や経歴、そして人格を考えれば、とてもいい旗印に違いない。……彼女がマストを通して計りたかったのは、そういった誰かの思惑がどこまで浸透しているか、だったのだろう。
「クーデターでも起こりますか?」
マストの問いに、アリシアは真面目な顔で首を横に振る。
「そんなことにはなりません。わたしがさせません。ただ、わたしが活動することによってこの都に要らぬ混乱が起こるかもと思うと、少し控えるべきとも考えるのです」
「ですが、根本を解決しないと遅かれ早かれですよね?」
「そうですね。このままでは噂も肥大化するでしょうし」
「不謹慎ではありますが、噂話は数少ない娯楽ですからね」
短い金髪の女性は、憂鬱そうに息を吐く。
「だから、困ってます」
本当に困っているのだろう。消沈するアリシアの表情は暗い。
「神様には、なんとお祈りを?」
「え?」
突然に話題を変えたマストに、アリシアはきょとんとした顔を向けた。
「熱心に祈っていたでしょう?」
後から来た自分とほぼ同時に席を立ったのだ。少なくとも自分よりは真摯に祈っていたに違いないと思い、マストは聞く。
「……この都が安寧を取り戻せるように、です」
それは願いだった。マストの定義では、祈りとは違う。
空を見上げ、ただの絵描きの青年は、どこか人ごとのようにつぶやく。
「なら、神様が解決してくださいますかね」
その言葉の空虚さを示すように、教会の小さな庭を、冷たい風が吹き抜ける。
沈黙があって、祈り終わった出てきた信者が二人をちらりと見てから歩み去って、その背中を見送ってから、アリシアは力なく笑った。
「神様は我々を見守ってくださります。……もちろん、わたしの尽力も」