愛しき君の肖像 3
夜のとばりが落ちれば、二人の時間がやってくる。
都は暗く静まり、寒さは時の流れすら凍り付かせるようで、このテラスだけが明かりをつける。それは妖精のかがり火、幻想の狭間、二人だけが別世界に誘われたような錯覚さえ引き起こす。
筆先は軽く、ワルツのように。
「踊りは得意かね?」
からかうような声に、絵描きはモデルへ視線を向ける。分かっているだろうに、とでも言いたそうに、苦笑して。
「いいえ、踊ったことがありませんので」
「一度も?」
「ただの一度も」
「それにしては、今にも踊り出しそうだった」
ふふん、と。フィオーレは鼻で笑う。椅子に座った彼女は珍しい動物でも見るように、赤と銀の瞳でマストを眺める。
「ここに戻ってからご機嫌だな。まったくもって度しがたい。よほどの大馬鹿者とみえる。いや、馬鹿者なのは元々分かっていたことだったかな」
「大馬鹿者って……」
「わたしが化け物だと知っただろうに、酔狂なことだ」
たしかにまあ、そうなのだろう。
彼女が人外であることは、もはや疑う余地がない。あの夜に身を持って知った異常な力。そして飛び降りた自分を助けた不思議な現象。常人ではない証明ばかりが集まっていく。そもそもこの寒さの中ドレス姿で屋外にいられること自体、不思議に思うべきだった。
つまりはマストの目は節穴だった。それは疑いようがない。
だが例え元から確信していたとしても―――きっと。
「僕は絵描き。あなたは雇い主です」
「契約が終われば人と化け物だ」
「なるほど。ところでお次の仕事のお話は?」
上機嫌な気分に逆らわず、歌うように聞いた。フィオーレは鼻で笑う。
「絵が良ければ、処罰の後に考えよう」
「良かった。なら何一つ恐くない」
筆を動かす。
絵を進める。
この時間よ永久に続け、とすら。
「そうだ。今度、アリシア様がこちらにお出向きになるそうです」
「ほう、用件は?」
「お茶を飲みに、とのことで」
フィオーレは珍しく一瞬キョトンとした後、唇に手を当ててむぅ、と唸る。
「やはりマズイですか?」
「何がだ?」
改めて聞かれると何がまずいのか上手く理由が出てこず、マストは言い淀む。
「ほら、やっぱり化け物ですし」
「化け物だから、が理由であるなら、何も困らんさ。そのように応対するだけだ。だが相手の要求は茶会なのだろう? ならば問題なのが準備だ。エリサだけでも茶くらいは淹れられようが、それだけでは歓待に足りん」
「……はあ、そんなものですか」
呆れてしまって、マストは口をへの字にして頷いた。てっきり断って追い返す算段をたてるものかと思ったが、歓待の準備とは。
招き入れていいことなど、何もないだろうに。
「音楽家がいるな。誰か居ないか?」
「居ますよ、一人」
フィオーレが気軽に聞いて、マストは気軽に答える。
「命を賭けさせましょう」